対談

前提を否定して新しい発想をすることの大切さ
   西欧の言葉では補えない仏教の深い思想

ながお・がじん=仏教学者。龍谷大学仏教文化研究所客員研究員。明治40年8月生まれ。京都大学文学部教授(仏教学)、ウィスコンシン大学、ブリティッシュ・コロンビア大学、キャルガリー大学、ミシガン大学などの客員教授をつとめる。インド仏教、特に「大乗荘厳経論」など大乗仏教文献の解読に当たる。昭和34年、「居庸関(=きょようかん)」の共同研究で学士院賞受賞。昭和55年学士院会員に。
上山 今日は仏教研究、とくに唯識学(=ゆいしきがく)やチベット仏教の研究において第一人者であり、私の恩師でもあります長尾雅人先生にお話をうかがう機会を得ました。先生には今なお龍谷大学で仏典翻訳や後進の指導にあたっていただき、ありがたく存じます。
 早速ですが、先生が仏教研究に志されたきっかけは?

長尾 お寺の生まれだから仕方がなかったのですよ(笑)。広島の浄土真宗のお寺で、大心寺といいます。今でも住職ですよ。兄がいるのですが電気工学を専攻して京阪電車や阪急電車に入ったので仕方なく私の方に回ってきました。

上山 京都第三高校から京都帝国大学文学部で仏教学を修められたのですが、当時の京大の仏教学は、どなたが担当でしたか。

長尾 大学に入ったのは昭和3年でその頃は羽溪了諦先生です。

上山 羽溪先生は第6代の龍谷大学の学長も勤められました。私は羽溪先生から「カニシカ王」についての講義を受けたことがあります。

長尾 京大卒業後、京大の講師でもあった山口益先生のお宅へ入り浸っていて、大谷大学の野沢静証君と二人で『中辺分別論(=ちゅうへんべつろん)』の三部作を手伝って出版しました。

 卒業して6年くらいは職がなくて、勉強ばかりしていました。そのうち、松本文三郎先生が東方文化研究所(現在の京大人文科学研究所)に入れてくれたので、やっとメシが食えるようになりました。
上山 先生がチベットの古い哲学書『ラムリム』(菩提道次第広論)を翻訳され、チベット仏教の専門家になられたのも山口先生の影響でしょうか?

長尾 いえ、これは三高の同級生で梵蔵の学に造詣の深い三原芳信君(昭和20年満州で戦死)が、「ラムリム」は是非和訳する必要があるという、それに従って翻訳に約十年も苦心してやっとでき上ったのが『西蔵仏教研究』なのです。
 その頃は、外国へ研究に行くといっても行くところがない。せいぜい中国でした。ヨーロッパやアメリカは考えられもしなかった。然しインドの学問がチベット経由で蒙古に伝わっているといわれていたので、内蒙古のラマ教だったらと思って 研究を始めました。唯一の海外研究のできる場が中国だったのです。我々はあなたたちと違って、不幸な時代でしたよ。そのときの蒙古のラマ教を紹介した『蒙古学問寺』は今でも貴重なものですよ。

上山 『ラムリム』からインド大乗仏教の二大系統「中観(=ちゅうがん)」
(*1) と「唯識(=ゆいしき)」(*2)の学問に専門を移されたように思えるのです。

長尾 それはもう、仏教をやるからには「中観・唯識」をやらないといけないからです。チベット仏教の研究をしたけれど、チベット仏教というのは『ラムリム』に書いてあるくらいのものなんですよ。
長尾 ところで、最近、ぼくは「ユーロ語」という言葉をつくったんですよ。

上山 ほう、ユーロ語ですか。

長尾 ユーロ語というのは、「ユーロ」(EURO)という欧州連合の統一通貨の名にヒントをえて私が新しく造った言葉です。フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、それにロシア語などヨーロッパの言葉がユーロ語です。もちろん英語もです。この言葉が、今、日本全土を席捲しています。これらの言語圏での考え方と、おシャカさま、あるいは仏教の考え方とは非常に違うのです。

上山 面白い着眼ですね。

長尾 だから、ユーロ語にあって仏教にないもの、仏教にあってユーロ語にない言葉を探して調べていったら、面白いのではないかと考えました。農学、医学はもちろん、今、我々が使っている言葉はすべてユーロ語からの翻訳ですよ。英語を公用語にしようという話が出ていますが、実はすでにそうなっています。しかしまあ、ユーロ語が世界を席捲しているお陰で、仏教学も非常に進歩したものになったわけですけれど。

上山 なるほど。

長尾 欧米ではユーロ語ほど完全な言葉はないと威張っているから、インドの連中は変な言葉を使うとしか思っていない。ことにユーロ語とサンスクリット語は一致しなくて、インドでのデヴァ(神)がデウスになり、最高神になったりしている。ユーロ語とサンスクリット語、あるいはユーロ語と仏教の概念を比較してごらんになると面白いと思いますよ。

上山 なるほど。言葉の違いが考え方の違いをあらわしているわけですね。

長尾 たとえば、「縁(=えん)」という言葉はユーロ語にはない。サンスクリット語のpratyayaが「縁」と漢訳されているのですが、つくづく素晴らしい訳だと思います。ユーロ語の思想では因から果だけですが、縁という考え方を入れた。太陽の光、水という縁があってはじめて植物が育つのです。ユーロ語はもっと物質に即した考え方ですから、「いいご縁で」とか「良縁を喜ぶ」というような発想はありません。縁は英訳してco-operating cause助力因などと申しますが、それが何故よろこびなのかわからない(笑)。
 「一期一会」とか「わび・さび」という気分も出てこない。縁というのはもっと深みのある言葉なんですよ。
 そんな日本の心を表現しえないユーロ語で日本が動かされているから、いろんな凶悪犯罪が起こるのではないでしょうか。

上山 おっしゃるとおりですね。先生たちによって仏教文献の研究が進められましたが、それを基にして思想の基本的な違いを知ってもらう努力をすることが、今後の仏教学の課題でしょうね。

長尾 そうしないといけないでしょう。ひょっとするとヨーロッパの人たちがするかも知れない。

上山 今、欧米では仏教に相当な関心がもたれています。それは、アングロサクソンに代表されるユーロの思考法では行き詰まったということではないでしょうか。

長尾 そりゃそうです、そのはずなんです(笑)。「成仏(=じょうぶつ)」など、仏教の肝心の言葉はユーロ語にはない。「仏に成る」などということは一神教では考えられない。だから翻訳できないわけです。ユーロ圏の仏教学者たちは仏教をすごいものだ、と感じています。ただし、大半の哲学者たちは、今もって仏教などはひとつの民族宗教としか思っていませんが。
上山 先生も長年、仏典を西洋の言葉や思想に翻訳するのに努力して来られましたが、翻訳できない仏教語はそのままにしておいた方がいいというお考えですか。

長尾 漢訳者がずいぶん仏教語を中国語の上でつくっています。そうして仏教をこなしていくのに千年かかったわけですから、ユーロ語に翻訳するのにも千年かかるだろうと思います。それには新しいユーロ語をつくらないといけないと思う。たとえば仏教で「六方」
(*3) という概念があります。それを大きくしたのが「十方」 (*4) ですが、ユーロ語には「八方」はあるけれど「十方」という概念はありません。ですから、英語らしい英語に翻訳したとしても骨が残ってしまう。ユーロ語にそのまま翻訳したのでは仏教にならない。根本的にどのように違っているかを明らかにしないと、あまり意味がないと思います。

上山 漢訳はある程度、成功しているとお考えですか。

長尾 ええ。「縁起(=えんぎ)」という言葉も妥当な翻訳だと思いますし、「空性(=くうしょう)」なども中国で作った翻訳語ですね。漢訳した人が非常に多くの言葉を造語しています。

上山 造語したということは、思想が根本的に違うということを分かっていたということですね。

長尾 そうでしょうね。理論的にはどこにも説明されていませんが、違いを体で感じていたのでしょう。だから、仏教をユーロ語に翻訳するには新しいユーロ語をつくっていかなければならないでしょうね。
上山 ところで、先生がまとめられた一般読者向けの『仏教の源流』(朝日カルチャーブックス39)は、いいご本ですね。

長尾 朝日カルチャーでの講義をまとめたものです。よく読まれているようです。

上山 あの中で先生は、苦の事実からその原因を集(煩悩(=ぼんのう))(=しゅう)にたずねるように、仏教ではまず結果的状態を直接把握し、そしてそれが何故であるかを追求する。つまり事実を凝視し、自覚し、それを如何に処理すべきかの方法を考察するという、いわば帰納的な方法が仏教の考え方のいろいろな場面で見られる特色の一つである、と述べておられますが、その的確な説明に感銘をうけたことがあります。
 バラモン教の啓示的な真理観が支配しているなかで、おシャカさまが全く違ういわゆる「如実知見」の觀察方法をとられたということは、おシャカさまならではの天才的な発想でしょうか。

長尾 ぼくはそう思いますね。おシャカさまを偉いと思うのは、『ウパニシャッド』
(*5) のアートマン論が盛んな時に、アートマンを考えるのはよろしくないといっていることです。大きな勇気がないと言えないことですね。
長尾 仏教では無我だといいますが、「無我」というのは、自我が存在しないということではなく、自我を考えると誤りにつながるので、自我を無にしないといけないという思想です。自我を否定するのではなく、存在を認めながらそれを抑えるということです。小乗仏教では「人(個人)の無我」を、大乗では「法の無我」を説いていますが、法(ダルマ、存在)の無我というのがよくわからない。例えば会社などに自我がある。それが「法の我」ということでしょう。そのなかでも一番やっかいなのが国家の我です。アメリカという国家は自我を発揮して、相手をやっつける権利があると思っているようですが、そんな権利などどこにもない。権利という言葉も多分、ユーロ語だと思います。
 クーシャンティ(忍辱(=にんにく))ということが大乗仏教の修行項目にありますが、あれは寒いとか暑いとかを我慢して「堪え忍ぶ」ということではなく、自我の主張を抑えるということですよ。

上山 権利を振り回すと大変です。自我を出して突っ張り合っていたのでは収拾がつかない。
 自我を内に収める方法が「智慧」になるわけですね。今、争いがあちこちで起きていますが、自我を抑制する思想は大事だという気がします。

長尾 実は「無我」のことをもっと書きたいと思っています。自我の存在を理論的に確立したのは仏教なんです。5世紀頃インドのアサンガ
(*6) やその弟のヴァスバンドゥ(*7) の唯識哲学において、第七識として自我が確立されています。これはほかの哲学、ユーロ語の哲学では見られない勝れた理論です。

上山 中央アジアではイスラムが入って来るまで、言語や人種の違ういろいろの民族が往来していたにもかかわらず、平和にシルクロードの貿易をやっていた。私はそれを可能にさせたのは、仏教ではないかと思っています。

長尾 仏教はどこかいいところがあるというのを、民衆は体で感じていたのでしょう。今のチベットもそうですから。

上山 そうですね。感じていたのでしょう。本を読んでその理屈を理解するのは後からなんですね。最初、砂漠のなかをそんなに難しい教理が伝わるわけがありませんから。
長尾 ユーロ語圏のひとたちも仏教学者はわかってきていると思いますよ。普通の人たちに伝えるのには千年かかるかも知れないけれど…。だから、ぼくは生まれ変わって、また仏教学をやらないといけない(笑)。

上山 ぜひ、またお還り(=おかえり)ください(笑)。もう一度還るという「還相(=げんそう)」の思想もユーロ語にはないでしょうね。

長尾 「往相(=おうそう)・還相」
(*8) は曇鸞(=どんらん)(*9) が考えたすぐれた思想です。往・還という事実は、アサンガの著述などに豊富に語られていますが、それを往相・還相と術語化したサンスクリットは見当りません。人々と苦しみを共にするためにこの世へ還って来てこそ、我々の生き甲斐、真の人生があるというべきです。
上山 長年、仏教学をやって来られた先生が、これからの仏教学者に期待されることは何でしょうか。

長尾 気を長くして、各々が各々のやり方で、一生懸命努力していくより他はないでしょう。

上山 やはり千年かかりますか。

長尾 二十二世紀まではかかるということにしておいてもいいですけれど(笑)。ぼくは、さしあたって生きている間は、ユーロ語と仏教語の「ある・なし」をもっと考えていくことになると思う。これは寝ていても考えられますからね(笑)。

上山 分からないことを切り捨ててきたのがユーロ語であり、これまでの科学でしたが、仏教は見えない、分からないところまで議論しています。ユーロ語圏の思想の限界がみえてきた今日、私たち仏教研究者のなすべき課題は非常に大きいと思っています。ありがとうございます。