対談
乾いてしまった日本人のこころを取り戻すために
五木寛之(いつき ひろゆき)
1932年福岡に生まれる。生後間もなく朝鮮に渡り47年に引き上げた後、早稲田大学文学部露文科に学ぶ。66年『さらばモスクワ愚連隊』で第6回小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、76年『青春の門筑豊編』ほかで第10回吉川英治文学賞を受賞。81年より一時休筆して、龍谷大学に学ぶ。近著に『蓮如―われ深き淵より―』『生きるヒント』シリーズ、『大河の一滴』『人生の目的』『運命の足音』3部作、『他力』『日本人のこころ』シリーズ、英文版『TARIKI』など。小説の他、仏教、音楽、美術、歴史など多岐に渡る文明批評活動が注目されている。
上山 五木さんの書かれたものを読んでいると、最近の日本人の心が乾いていること、精神に地殻変動が起こっていることに対する“嘆き”が聞こえてくるようです。私も常々、同じようなことを思っているものですから、とても共感します。「世の中は無常だから、変化していくのは当然だ」では済まない事態になっているような気がしています。

五木 やはりお感じになりますか。私は今、週に3日ぐらいは旅から旅の生活をしているのですが、地方へ行って感じるのは、新幹線の駅前が日本中どこも同じようになっていることです。個性がなくなりましたね。そうしたことをひっくるめて「情緒」がない。しかも「情緒」という言葉そのものが軽蔑されて使われなくなった。こんな風でいいのだろうかと思います。
 こう考えるのも、年齢を重ねたゆえのノスタルジーではないのか、時代が変わるとだれもが感じることではないかと警戒心も働きます。それを差し引いても、やはりおかしい。「警世」とか「憂国」とかいう気持で世間にメッセージを送っているのではなく、さっき学長がおっしゃったように“嘆いて”いるのですが。

上山 私も五木さんと大体同じ年齢です。年をとったことからくる「繰り言」には用心しているのですが、しかし、70年近く生きていると、「これでいい、間違っていない」という何か自信のようなものも出てきます。

五木 よくわかりますね。まだ60歳代では口ごもってしまいます。 たくさんのメディアで仕事をしていますので、いろいろメッセージを発信しているのですが、なかなか世間に声が届かない。「また文句言ってる」といわれるのは嫌ですね(笑)。「昔は…」などとはと言いたくないし。
情を伝える
五木 『万葉集』に「うらうらに照れる春日に雲雀あがり 情悲しも独りしおもへば」という大伴家持の歌がありますが、歌人の斎藤茂吉は「情」を「こころ」と読ませています。すなわち「情報」とは、人の心を報ずることです。嘆きや悲しみ、不安や怒りをきちんとコミュニケートするのが、情報の真の意味ではないかと思うのです。今の情報の使われ方には、疑問をもたざるを得ないですね。本当の意味での人間の心の陰影や襞までちゃんと伝わっているのだろうかと。

上山 心を伝えるということでは、日本人は仏教でいうところの「以心伝心」、つまり言葉を用いずに思いを伝えることを究極の情報伝達として大切にしていました。今では、はっきり言わないと通じない時代になりましたね。

五木 南方アジアのある島の先住民たちは、「1日」という考え方をしないで、「一つの昼」「一つの夜」と数えるそうです。人間が活動する昼の世界、精霊や夢が動く夜の世界、そのように二つの世界を分けている。この人たちの人生は、とても豊かなように思います。今、私たちは昼ばかりの世界に生きている。24時間営業の店が増えて、闇や夜がなくなったことは、人間の感じ方や考え方を変えているでしょうか。

上山 昔は夜が長かったでしょうね。しかし、それだけに闇が明けて、だんだんと光が射しこんでくるときの感動は大きかったでしょう。

五木 その通りです。光のもつ意味が違いますね。夜をなくして昼のように明るくすることが文明だと考えられてきた。闇を大事にすることが忘れられてきました。

上山 人間のもつ陰の部分も大事にすべきです。若い頃は自分の暗さを隠そうとして、明るい子を演じている。

五木 皆、心の中に葛藤や悩み、悲しみを抱えている。しかし、それを表に出したら、今の競争社会では排除されるから隠すのでしょう。心に鍵をかけて自分だけで守ろうとする。人間のもつ当然の“情”が広く伝わっていれば、自分だけではない、皆同じなのだと安心できるのですが。

上山 五木さんの『生きるヒント』を若い人が2冊も3冊も買っていくということを聞きました。同じ悩みをもつ友人にプレゼントするのだそうです。

五木 戦後はユーモアと笑いばかりを大事にして、人間の激情や怒り、悲しみを表に出す慈悲の悲の世界は、ダサイといってバカにされてきました。今の歌はリズムばかりでメロディーがとても貧弱です。メロディーは広がりをもたせる遠心的なもの、リズムは求心的で締め付けるもの、この二つが相結び合っての音楽なのに、メロディーは情緒的だと軽蔑されています。かつて現代詩の世界でも小野十三郎さんが、情感ではなく乾いた詩を書けといって、私たちもそれのために努力してきましたが、これが今ではちょっと行き詰まっています。
御詠歌はゴスペル
上山 最近の若者の間で流行っている歌の歌詞を聞いていると、すなおに自分の悩みや愛を表現していて、“いいな”と思います。

五木 最近、言葉が復権してきた傾向がありますね。言葉に関心が出てきた。

上山 五木さんは演歌や歌謡曲の作詞もされていますね。

五木 今の歌謡曲や演歌はレベルが低くて話になりませんが、それでも日本人のカルチャーでイミテーションでないものを見せろといわれたら、古典芸能を別として歌謡曲しかない。日本の歌は祈りから生まれています。読経のリズムやメロディーから声明、和讃、御詠歌、そして浄瑠璃や浪花節が生まれた。明治期以来、そうした庶民のメロディーが洋楽の影響を受けました。今の歌謡曲は6割がヨーロッパの影響、4割が日本の伝統ですが、民衆に受け継がれていたものが絶滅しかけています。
 若い人が好きなゴスペルソングは御詠歌ですから(笑)。キリスト教のお説教にリズムをつけ、言葉にめりはりをもたせ、聴く人が手拍子を打ったり、「ハレルヤ!」という合いの手を打つ。和歌山県田辺の勝徳寺に行った時のことですが、お説教のクライマックスになると「ナンマンダブ!ナンマンダブ!」と実にいいタイミングで受け念仏が出る。あれですよ、ゴスペルのハレルヤと全く同じ(笑)。
 一遍の踊り念仏というものに実に激しい踊りで、私の読んだ資料では半裸体で踊るうちに床を踏み破ったと書いてありました。今ではそういう猥雑なエネルギーを宗教が行事の中から完全に排除してしまいましたが、そういうところに問題があるのかなと感じます。

上山 最近、布教使が嘆いていることは、聴衆から念仏の声が聞こえてこないということです。気持が高揚してきてお互いに呼応しあうという感動がないと、法話をしている方も張り合いがなくなってしまいますね。
なぜ自殺
上山 最近の日本は経済不況や少子化などで、すっかり落ち込んでしまって、この面での“嘆き”の声も聞かれます。

五木 そうですね。しかし、僕は日本の経済問題は大丈夫だと思っているのです。というのも不景気とか失業、リストラ、不良債権などは奈良時代からあったようなのです。奈良にできた万葉文化館のオープンに行った折、東大寺に立ち寄ったのですが、「なぜこんなでっかい寺を建てたのだろうね」と言うと、友人から「大仏さんは当時の公共投資なんですよ。失業対策と景気回復を狙ったいわばケインズの実践です」といわれましてね、びっくりしました(笑)。
 敗戦後を思い出すといいですね。戦時公債をチャラにしたり、預金の封鎖、新円切換えなどずいぶん思い切ったことをやったにもかかわらず、戦後25年を経た1970年には大阪万博をやり、高度成長期へ疾走した。だから、不良債権もデフレも僕は心配していないのです。
  経済問題より、年間3万3千人を超える自殺の現状の方が問題です。これは神代の時代から経験したことがなかった。交通事故死の4倍、広島規模の原爆が6〜7年に1度の割合で落ちているのと同じです。世界に冠たる経済大国が自殺大国になった。この現実を直視しないといけない。

上山 たしかにそうです。戦後の生きるのに精一杯のときは、自殺などなかったといいますから、経済不況のせいだけではないですね。

五木 先日、秋田の曹洞宗の青年部に呼ばれて講演に行ったのですが、その時のテーマが「自殺」なんです。なぜかというと、秋田県は7年連続して全国で自殺数がトップなのです。道徳教育や社会保障、社会政策を充実させるだけでは済まなくなってきた。宗教の役割が大きいのではないかということに気付き始めたのでしょうね。
 新聞記者から短絡的に「原因は何ですか」と聞かれるので、仕方がないから「いのちが軽い」と答えていますが、いのちが軽いのはこころが乾いてしまっているからです。
 おしぼりを例にすると、おしぼりが重いのは湿度があるからなので、ドライヤーで乾かすと軽くなる。同じように人間もからからに乾くと軽くなってしまう。軽いいのちは簡単に捨てる事ができるし、奪うこともできます。自殺が多いということは、他人のいのちを軽々しく奪う凶悪犯罪が増えることにもつながります。この現実を直視しなければならない。それを考えるのは教育でも政策でもなかろうと思います。
日本人の宗教心
上山 19世紀や20世紀は目に見えるものだけを相手にしてきました。目に見えないもの、論理的に説明できないものは、思考の対象から排除してきました。ところが一昨年の同時多発テロ以来、人間にはもっと大事なものが根底にあると気付き始めたと思うのです。

五木 そうですね。 見えないものへの思索というか、畏敬の念が生まれてこないとだめだと思うのですよ。目に見えないものに手を合わせることは大切ですね。海外でも日本人団体客が食事の前に全員で手を合わせたら日本人はマナーが悪いという印象もずい分変わるでしょう。

上山 食事の前と後に「いただきます」「ごちそうさま」と小さいときから言わせてきた、この習慣は大切なことだと思います。ところが、最近では宗教的だからといって、給食のときに食前、食後の言葉を言わせないところもあるということですが……。

五木 日本人が宗教を問われて、無宗教と答えるのはとんでもないことです。無宗教者はお化けみたいなものらしいですよ。異教徒なら同じ人間とみとめられるが、神をもたない人は人間とは見てもらえない。私は、あるいは私の家はブッディスト(仏教徒)ですと堂々と言うことが大事です。

上山 無宗教だと言わせる何かが日本人にあるのが問題ですね。明治の初めころ、西欧文化を取り入れたときキリスト教が付随してきましたが、仏教の伝統をもつ日本人は一部のインテリを除いては簡単にはキリスト教徒にならなかった。西欧一辺倒の文明開化のなかで仏教徒ですと言うのは古くさくみられて恥ずかしいし、キリスト教徒になるのも憚られて「無宗教」と言ったのではないかと私は思っているのです。

五木 NHKの「行く年来る年」に出演したのですが、2002年の最後は除夜の鐘で締めくくられ、年が明けると初詣の風景になる。プロデューサーに「これは宗教番組ですか?」と思わず聞いてしまいました。お寺で終わって神社で始まる…。宗教番組の最たるものですよ。視聴率が28%もあるので5千万人くらいの人が観ている番組です。つまり、ゴーンと除夜の鐘がなると、1年が終わったなという感慨をもつというフィーリングが日本人にあるのに、それを隠蔽しようとする風潮がおかしいですね。「オウム」や「法の華」など、スキャンダルにまみれた事件のせいで、宗教が怖い、危ないという観念にとらわれているようですが、おかしいですね。
 アメリカやヨーロッパの市場原理には見えざる神の理念があります。自由経済は神が許したものです。紙幣にも「イン・ゴッド」と印刷されている。神さまのみ手がバランスをとってくれていると思っている。自分たちのやっていることはミッションだという思いがある。だから日産自動車のゴーンさんのように思い切ったリストラができるのです。日本のビジネスをする人は、そういう意味で自信がないわけです。しかし、かつての近江商人には、御仏に守られているという商行為に対する確信がありました。日本にもビジネスの背景には信仰があった。そういう歴史があるのです。

上山 仏教を信仰の面だけでなく、近江商人の精神的支えになっていたという、そういう側面からも注目する必要がありますね。
前衛的な京都
上山 五木さんは、京都はもともとエネルギーに満ちた前衛の町だと言っておられますね。

五木 ええ、東寺の五重塔はエンパイヤステートビルのような存在だったはずです。色も極彩色のキンキラキンで、京都は派手で荒々しいエキゾチックな町だった。映画、歌舞伎、図書館、小学校、電車…どれも京都から誕生しました。前衛的な風土から生まれた大島渚、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・タイガース、京都の人にはアバンギャルドが多いですね。市川猿之助のスーパー歌舞伎の音楽を担当している元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦さんは龍大出身だそうですね。

上山 そうです。この大宮学舎の建築も明治12年に建てられた洋風建築で画期的なものだったようですよ。明治天皇も見に来られました。記念碑があります。

五木 そうでしたか。京都は大胆不敵で、民衆を驚かせるとんでもない町だったと考えた方がいい。鴨長明は琵琶の演奏にとりつかれたヒッピーのはしりのような人だったようですよ。当時の京都では原語でお経が読まれ、高層建築が建っていた。ちょうど外国人女性のホステスがいる店でワインを飲むような雰囲気だった。

上山 中国の長安もそういう町だったようですね。西の方の青い眼の人々が行き交っていた。親鸞聖人が比叡山から降りて来られて、信仰上の大転換をされたのも、そうしたことを可能にする土壌があったからかもしれませんね。

五木 映画「羅生門」でわかるように、盗賊や極道が多く、犯罪も多かったようですね。京都の町民が団結するのは自衛のためだった。猥雑さの中にエネルギーをもった町に親鸞聖人が降り立って来られた。当然カルチャーショックがあったでしょう。
宗教はブレーキ
上山 欲しいものを手に入れていけば、満足して幸せであるという考えかたで進んできたのが20世紀だったと思うのです。科学の進歩がそれをある程度可能にし、幻想をいだかせていた。それがおかしくなってきた。人間というものは自己中心的で欲望に際限がないという認識と反省がなければならない。その反省を促すものが宗教だと思うのです。

五木 私は宗教というものは、一種のブレーキだと思うのです。経済がエンジン、政治はハンドルのようなもの。車はブレーキがないと暴走してしまって安全に走れません。
 アメリカで「テロリストをやっつけろ」という声があがった一方で、「復讐するは我にあり、我これを報いん」、つまり、制裁をするのは神の仕事だという聖書の言葉が人の心に響いた。宗教の言葉は、現実にはあまり役立たないけれども、あこぎなことをしようとする時には、たじろがせる力をもっています。宗教はむしろ世間の論理と反対のことを言わなければならない。
拒絶から寛容へ
上山 それにしても一神教というのは、他の神を排斥するので、争いを招きますね。パレスチナとイスラエルの紛争が解決しないのも、原因はイスラム教とユダヤ教のお互いを許さない性格にあるのではないかと思いますね。

五木 日本では明治政府が近代化を進める中で排他的になりました。神と仏が混淆していては駄目だとした。しかし、今でも神棚と仏壇がある家が多いし、七五三参りをする仏教徒も多い。それを頭からどちらかにしないと絶対だめだと言い切ってしまうのはキツイです。

上山 その点、仏教は非常にうまくやってきたと思うのです。伝播の歴史を見てみますと、伝わった地域地域で土着の神さまを排斥しないで、うまく自分の傘下に置いていき、その一番上に乗っかってきた。神仏習合ですね。異なる宗教の共生ということが、これからの大きな問題です。他の宗教を許さないというのでは争いは絶えません。

五木 今は異物を排除するという「拒絶」の時代から「寛容」の時代に移りつつあります。他の人が何を信じようと「ああ、結構ですね。でも、私は阿弥陀如来に救われるほかないので、阿弥陀さまを信じております」でいいと思います。他の人を非難することはない。浄土真宗の阿弥陀さまへの信仰は一神教的ですが、金子大栄師は「選択的一神教」だと言っています。一神教も共存して栄えていた時代がありました。かつてのサラエボやイスラエルがそうでした。それが正しいあり方だと思います。

上山 ブッシュ大統領のように、善か悪かで割り切るものの考え方はどうかと思いますね。

五木 アメリカのイラク空爆に仏教徒はどう反応するのか、とよく聞かれます。もし親鸞聖人や蓮如上人が生きておられたらと考えてみることも大事なことだと思います。同時多発テロやオウムの事件が起こった時に、テレビのワイドショーやニュース番組に出演依頼が来たら親鸞聖人は出られるでしょうか。おそらく出られないだろう。蓮如上人は出られるでしょう(笑)。親鸞聖人は「ただ念仏せよ」とおっしゃるかも知れない。

上山 きっと、そうおっしゃるでしょうね。

五木 それでいいのかというと、熱心な社会活動家からは批判されるでしょうが、それしかない。ブッシュ大統領の考え方がいけないと決め付けるのもどうかと思います。私は宗教の理念と現世の論理とは違うと思うのです。2+2が8にも10にもなったりするのが宗教の世界であり、不可思議な世界です。数学的な答えの面と両方をもっていないといけないと思っています。
見えないものへの畏敬
上山 最近、私は“いのち”とは何か。日本人が「魂」と呼んでいるような、見えない“いのち”をどのように考えたらいいのだろうか、“いのち”の継続はあるのだろうかなどと考えるのです。

五木 “いのち”の継続ということになると、自分の分身を作ろうというクローン人間にまで議論が及んでくる難しい問題ですが、死んでしまったら何も残らないと考えると、死が非常に荒涼たるものになってしまいますね。

上山 お釈迦さまは「死後のことなど考えるな」というお考えですが、しかし、仏教のもう一つの流れである浄土教では、素直にいのちの来世への継続性を認めています。

五木 「浄土像」というものをもう一度描き直してみる必要があるかもしれませんね。マーク・トウェインという作家が「私は天国に行きたくない。なぜならユーモアがないから」と言っていますが、いわれてみれば浄土の世界も退屈そうですね(笑)。

上山 以前、対談させていただいた生命誌研究館の中村桂子先生も、“いのち”の本質はわからないとおっしゃっています。生命の構造は遺伝子などでわかってきたが、“いのち”の正体はわからないと。

五木 そのように科学者が自覚してくださればいいのですがね。少しでも科学的知識からはみ出すと科学者の恥、自殺行為だと思っておられる。見えない世界に対する畏敬の念をちゃんと伝えないといけない。近代化というものは、どうしても目に見えるものを実証していこうという方向です。しかし、科学を突き詰めると不可知なものに突き当たるはずです。
 浄土真宗は迷信を強く排しますね。そこが近代的な感じがして、外国人にもわかりやすいようです。それでも親鸞聖人、蓮如上人には奇跡のような逸話がたくさん残されています。不可知なものがあることは、親鸞聖人、蓮如上人も否定していないと思うのです。科学的知識で宗教を説明しようとする人がいますが、知性で解明できない不可思議の世界が宗教、信仰だと思います。合理と不合理のバランスがとれているのが、あるべき姿ではないでしょうか。
縁なき人へ
五木 宗教は形式から入ってもいいと思うのです。私が龍大に通っていた頃、バイクの学生が、校門でヘルメットをとって頭を下げる姿を見て、いい風景だなァと心を打たれました。学校の特色はそういう面に現れると思います。龍大はマニュアル教育以外に、心のたたずまいを大切にしてきた学校ですから、学生さんにもそういうことを情熱をもって教えていただきたいですね。

上山 学ぶということは、頭を下げる姿勢があって初めて可能だと思うのです。自分が驕っていては、知識は伝わりません。教える側も「教えてやる」の姿勢では知識は伝えられない。教師も変わらなければいけないのです。

五木 教えることによって学ぶ、「我ありて彼あり」ということでしょうね。縁起ですね。

上山 仏教を今までまったく縁のなかった人にどう伝えるか。これは大きな課題です。

五木 私は音楽というものが大事ではないかと思っています。親鸞聖人は晩年、和讃をお書きになりましたが、あれは「今様」なのですね。「歌」です。プラトンが「音楽というものは恐ろしいものだ。知らず知らずに人の感受性を変える」と言っています。ハンブルグの古い教会でしたが、パイプオルガンが鳴ると、建物全体が振動して天からハイドンの曲が降ってくる感じがするのです。そいういう無我の陶酔境が宗教には必要ではないでしょうか。日本にも皆で合唱できる歌が必要です。昔は読経の素晴らしい声で、人々が魅せられたはずです。お寺で法話を聞くだけでなく、そういう法悦というか、官能的な喜びを復活させなければならない。美しい音楽に惹かれて信仰するということでもいいと思います。

上山 そういえば、古今東西の宗教は、みな音楽と結びついていますね。

五木 モーツアルトからバッハまで、すべて宗教音楽です。キリスト教は音楽を最大限に利用してきた。建築や美術もそうです。大宮学舎のような美しい大学に入りたいという動機でもかまわない。形から入ったり、音から引き寄せられることを決してバカにしてはいけないと思いますよ。
 縁なき衆生に語りかけたのが中世の仏教のあり方でしょう。有縁の人は放っておいても法話を聞きにきます。縁なき人々を引きよせることが問題なのです。蓮如さまのご苦労もそこにあった。僕の本は活字が嫌いだという人に読んでもらいたい。『日本人のこころ』シリーズは、あまり日本の歴史なんかに興味のない人に読んでもらおうと思って書きました。

上山 五木さんは30年前から若い頃の親鸞聖人をお書きになりたかったとか。

五木 そうなんです。どうしても親鸞聖人の言葉を正直に受けとりたいと思うのです。「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷う」というお言葉は、親鸞聖人の謙虚な奥ゆかしい言葉だと解釈されていますが、本当は正直にありのままにおっしゃったのかも知れない。そういう姿勢の中から親鸞聖人の思想が生まれた。そこらは小説という形でしか書けないのですよ。大変だと思いますがね。

上山 親鸞聖人は90年のご生涯でしたが、88歳くらいまでお書きになっています。五木さんもぜひその頃まで(笑)。ありがとうございました。
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