龍谷 2007 No.64

Question of News 専門家に聞く 「今、耳を傾けたいメッセージ」


10年かけて編纂・刊行された「西宮現代史」に見る先見性と『市民力』『西宮現代史』を監修・編纂した平野教授に聞く

 今年1月に刊行された戦後の西宮の市政を記録した『西宮現代史第一巻』政治・行政・財政通史編。先に発行された資料編2・3を合わせると約2500ページにものぼる詳細な市の歴史だ。
 10年前から史料を発掘し、関係者からの聞き取り調査を重ねて西宮の現代史を検証、まとめたのは法学部政治学科(日本政治史)の平野孝教授と、平野ゼミ出身の3人の大学教員だ。長期間の調査、監修・編纂に携わった平野教授に聞いた。

誘致強行裁決の日、市役所前で行われた市民反対集会
誘致強行裁決の日、市役所前で行われた市民反対集会


平野 孝教授
法学部政治学科
平野 孝(ひらの たかし) 教授

●最終学歴・学位
明治大学大学院政治経済学研究科博士課程単位取得修了
●専門分野
日本政治史、政治過程論。戦後改革の分析が出発点。戦前・戦後を行ったり来たりしながら、数年前から環境を切り口に高度成長期を輪切りにする作業に入れ込んでいる。フィールド・ワークが必要なので東奔西走、多忙。
●主な著書・論文など
『内務省解体史論』(法律文化社)、『尼崎大気汚染公害事件史』(日本評論社)、『GHQ日本占領史 国家機関の再編』(日本図書センター)、『中国の環境と環境紛争』(日本評論社)、「戦後日本官僚機構の形成」(『歴史学研究』516号、所収)、ほか多数。


灘の酒造業者が反対して市民運動に発展したコンビナート誘致問題

1.17、大震災当日断水下で河川をせき止めて消火活動に当たる消防団
1.17、大震災当日断水下で河川をせき止めて消火活動に当たる消防団
 西宮には灘五郷のうち西宮郷と今津郷がある。最初に誘致阻止に立ち上がったのは酒造業に携わる人達だった。「酒造りは水が命。コンビナートができることで、この地域に出る『宮水』が汚れるのは死活問題なんです。この後、市民も自分たちの生活を守るため立ち上がるわけですが、西宮での動きは三島・沼津のコンビナート誘致阻止運動よりも早い昭和35年。実際に市民が四日市まで調査に行くんですが、まだ四日市では人体被害は表面化していないんです。でも四日市の実情を視察してこれはだめだという結論に至ります。一方、市側は市の有力者団体を味方につけて、議会も圧倒的多数で賛成決議をしてしまう。それを市民はひっくり返しました」。21世紀は環境の世紀といわれるが、それを先取りする動きだった。でも当時は、重厚長大産業による高度成長の時代。『西宮現代史』が編纂されるまでは、コンビナートの誘致がなくなったことで市の発展が阻まれたという見方もあったという。
 市史の編纂に携わることになったのは、小林了助役が龍谷大学まで説得に来られたのが大きかったという。 「『西宮ではコンビナートの誘致を止めました』という話をされました。歴史の教科書には、日本で最初のコンビナート誘致阻止運動は、三島・沼津だと書かれています。西宮の動きは教科書を書き換えるものでした」。実際に調べてみると様々なことがわかってきた。「西宮は灘の酒造りの中心。そこに日本最大規模のコンビナートを建設する計画が持ち上がりました。灘の酒造りにかかせない『宮水』は江戸時代から酒造りに一番適しているといわれてきた水です。その宮水が汚染されるというのが酒屋さんが反対した最大の理由でした。しかも計画には、四日市喘息を引き起こした大気汚染の発生源だけでなく、水俣病の原因である酢酸可塑剤の製造工場まで含まれていました」。
 もし海岸にコンビナートが造られていたら、灘の酒は壊滅していた。「環境問題は、21世紀初頭の人類に課せられた最大の課題のひとつですが、冷戦下のイデオロギー対立の時代に、保守・革新の対立を越えて多くの市民が奔走し、誘致を止めたのは歴史的な意義があります」。市民の反対運動が盛り上がり、署名運動が始まる。3か月で当時の西宮の有権者の過半数・8万7000名の反対署名が集まることに。その後、誘致は市議会で強行採決されるが、誘致派の市長と市民側が推す反対派の候補者が市長選で対決、反対派の市長が勝利したことで誘致の動きは最終的に終止符を打った。
 「酒屋さんと市民は西宮の豊かな環境を守るために頑張った。面白いのは政党主導ではなく、市民が中心になった運動だったこと。市民の文化の高さを感じましたね」。

大震災の教訓として残すために震災対策の最前線にいた人々が証言

 「歴史は50年経ないと評価が定まらないといわれた時代もありますが、大震災を歴史的に検証することは西宮の現代史を編纂するにあたって避けられない課題だと思いました」と平野教授。
 震災関連の頁では、地震が起こった直後から、刻々と変化する被害の状況、被災者救出の明暗を分ける『初動』の動きなどを記した生々しいメモや、震災対策の最前線に立った人々の証言が掲載されている。
 いつでもどこでも大地震が起こる可能性のある日本。刊行の前から、いくつもの自治体から問い合わせがあったという。「市役所、消防局、警察、自衛隊にも聞き取り調査をしました。従来公開されなかった資料を提供していただくことができました。震災時の市長だった馬場順三氏からは市長の個人メモまで、1000点を越える資料を提供していただきました。『失敗も含めてすべてを記すということが、今後の教訓になる』という思いで全面的な協力をされたのだと思います」。
 市史には、震災発生2分後からの出動状況、救助・救援に関する書類、データのほか、市長や助役、教育長、消防局長、警察、自衛隊の責任者など、震災対策の中心で活動した人達の証言も収録されている。西宮では、震災の起こる前年の1994年夏の渇水を教訓として、断水を想定した訓練も行われていた。震災による全壊棟数は神戸市は6万1800棟、西宮市は2万667棟。一方、全焼棟数は神戸市の6965棟に対し、西宮市は50棟だったという。「神戸では、震災が起こったあとの火事による被害が大きかったのですが、西宮では発生した当日の午後11時までに、市の全火災を鎮圧しています。断水により消火栓の使用が不可能となる中で、小河川やプールから取水を行い、被災地域の市民、地域の消防団と消防局が連携して鎮火に成功しました」。
 馬場前市長は「私は西宮で1100名を超える犠牲者を出したその時の市長として、多くの課題や反省点を抱えていましたが、その全容をありのままの形で次世代に伝えられることは、せめてもの償いであると思っています。私の西宮市役所勤務は50年、いま『西宮現代史』政治・行政・財政編を読ませていただきますと、日石問題や大地震対策をはじめ、私も関わったドラマが鮮やかに甦ってきます。迫真の『西宮現代史』が誕生したことを心から喜んでいます」と話されている。

 西宮の市民・行政の意識と文化の高さを肌で感じたと平野教授はいう。

市史の編纂に参加した龍大の学生西宮市も大きく評価

山田 知 西宮市長
山田 知(やまだ さとる) 
西宮市長
 広報龍谷の取材に応じて山田知西宮市長からは、次のようなコメントが寄せられた。
 「監修・編纂・執筆にあたり平野先生には多大なご尽力をいただき、厚くお礼を申し上げます。特に、西宮市がまちづくりの理念としております『文教住宅都市宣言』がコンビナート誘致を止める運動を経て成立していった経緯や、阪神・淡路大震災について、行政の現場では気づかなかった視点からも、詳細に記述していただきました。ほぼ、震災からの復興がなり、新しいまちづくりに取り組むにあたり、大変貴重で意義のある市史が得られたと喜んでおります。本当にありがとうございました」。

 「ことのほか嬉しかったのは、ゼミ出身の3人の大学院生が、西宮現代史の編纂を通して研究者としての力をつけて、巣立っていったことです。いい仕事は、いい研究者を育てます」と平野先生は話している。西宮をテーマに研究を進め、加川充浩さんは3年前に島根大学法文学部の専任講師になり、昨年の4月には、青木淳英さんは大阪千代田短期大学、岩井義樹さんは大阪城南短期大学の専任講師に就任している。
 3人を見守って来た浦田栄次元西宮市総務局市史編集室長は、「市史編纂を通して、思いもよらない貴重な出会いがありました。加川さん、青木さん、岩井さんには専門委員としてお世話になっただけでなく、嘱託等として机を並べて仕事をさせていただく機会がありました。龍谷大学の皆さんの仕事ぶりは本当に気持ちのいいものでした。楽しい思い出も沢山あります。謙虚で、静かで、おりめ正しい、本当に研究熱心な方たちです。これからのご活躍を大いに期待しております」と話されている。平野ゼミの2・3・4回生も調査・聞き取りに参加し、『市史研究 にしのみや』に名前つきの原稿が掲載されている。

 『西宮現代史』政治・行政・財政編は、「朝日新聞」第三社会面全ページを使っての記事、「朝日新聞」夕刊の一面トップ記事、「毎日新聞」社会面トップ記事等で紹介されたほか、神戸新聞でも大きく取り上げられ、朝日放送、サンテレビなど、テレビでも紹介されました。

『西宮現代史』
加川充浩さん
加川充浩(かがわみつひろ)さん
(島根大学准教授)
1997年法学部政治学科卒業
青木淳英さん
青木淳英(あおきあつひで)さん
(大阪千代田短期大学講師)
1998年法学部政治学科卒業





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