龍谷 2008 No.65

龍谷人偉人伝 宗教と教育に捧げた 八十年の軌跡

仏教学者・武蔵野女子学院創立者 高楠 順次郎

青春時代を切り取った写真の数々

信仰心を育んだ幼少時代

  1866(慶応2)年、高楠は広島県御調郡八幡村字篝に沢井家の長男として誕生した。広島県は浄土真宗の信仰が篤い土地柄で、沢井家もまた熱心な宗徒であった。学才に恵まれ、5歳から祖父の清斎に四書・五経の素読を習い、10歳の頃には、詩経、唐詩選を朗唱するなど、当時の男子の教養として重んじられた漢籍に親しんだ。宮内尋常小学校下等第一級を卒業すると、弱冠15歳にして小学校の教員検定試験に合格し、宮内小学校の教員に就任。凡庸ならざる才能は、青少年の頃から大いに発揮されていたのである。
  この頃の高楠は、国学の研究に力を注いでいたという。明治維新以降、急激に高まった廃仏毀釈の風潮の中で、 国学を学び、仏教の黎明を知ることは、自身を見つめ直し、仏教への敬慕をあらためる意味もあったのだろう。
  高楠を龍谷大学の前身、普通教校へと導いたのも仏教の縁があった。同郷の学僧であり、いち早く京都で活躍していた日野義淵が高楠を呼び寄せたのだ。高楠は小学校の教員を辞し、1885年の春、普通教校の第一期生として入学した。普通教校が仏教研究だけでなく、英語にも重点を置き、国際人としての素養を養う目的で設立されたという背景も、高楠にとって魅力的であったのかもしれない。


普通教校の退学危機

 村落一の豪家とはいえ、沢井家は高楠のほか五人の子女を育てなければならなかった。沢井家にとって、高楠の生活費をまかなうことは容易ではなく、高楠は、学生の傍ら器械体操の教師をし、また家庭教師をして生活をつないでいたのである。
  そんな自給と勉学に励む中に、ある事件が起こる。学僧以外の学生も多く学んでいた普通教校だが、宗門の因習を嫌い、校風の一新を叫ぶ声が次第に強まり、その学生の間で海外同盟なるものが結成された。「器械体操を廃し、歩兵操錬を設置」「服装を洋服に変える」「外人教師を雇い入れる」「寄宿舎の食事改良」など四つの改革を要求するもので、学生の中で信望の厚かった高楠は知らぬうちに、その要求をしたためた連判状の筆頭人に挙げられてしまったのである。それが学校側の知れるところとなり、学校は同盟の中心人物42名に退学を命じた。
  しかし、高楠を評価していた有力者の仲裁により高楠は退学を免れ、大学復帰を許されたのである。海外同盟の要求は結局、受け入れられたため、器械体操は廃止され、高楠は大事な収入源を失ってしまう。そこで高楠は、器械体操の代わりに正科となった兵式操練に使用されるラッパ奏法を訓練し、ラッパ手のアルバイトを得たのである。困難にぶつかってもそれを乗り越えていく、高楠のたくましさを感じさせるエピソードである。


「反省会雑誌」は1898(明治31)年に「中央公論」と改題、日本初の総合雑誌として、現在も日本のオピニオンリーダーで在り続けている
「反省会雑誌」は1898(明治31)年に「中央公論」と改題、日本初の総合雑誌として、現在も日本のオピニオンリーダーで在り続けている
1944年、文化勲章を受章した時の衣装
1944年、文化勲章を受章した時の衣装
仏教学で初の受章という快挙だった

「反省会雑誌」の誕生

 高楠の普通教校時代において、特に功績として称えられるのは「反省会」の活動である。 「反省会」とは、学内で蔓延していた飲酒、喫煙といった風紀の乱れを反省し、宗教者としての原点に立ち返ろうとする青年運動のことで、1886(明治19)年、教授や学生が中心となって組織された。仏教を重んじ戒律を守ることを諭すのみならず、徳を積み人間の理想を追い求める大切さを説教、講義、法話などを通して積極的に働きかけることを活動の中心としていた。
  学生と教員両方の立場であり、また双方から信頼を得ていた高楠は、両者との間に立ち、反省会の活動をより強固なものにする中心的な存在として活躍する。翌年の8月には機関誌「反省会雑誌」が刊行。第一号は高楠の私費を投入して上梓されたものだった。
  「反省会雑誌」は刊行されるやいなや、徳富蘇峰の「国民之友」と並び、青年から熱烈な支持を得た。高楠は社説を担当するなど、毎号主筆として執筆に加わり、これは、高楠が欧州留学に向かうまで続いたのである。


「人格完成の根底とは宗教である」

 普通教校を卒業後、高楠家へ養子に行き、霜子との婚姻を機に高楠は英国オクスフォードへ留学する。この欧州留学で出会った恩師、マクス・ミュラー教授の「君は興味のために学問をするのか、金儲けのために学問をするのか」という言葉が高楠の人生を決定づけた。日本が脱亜入欧を掲げ、強国としての道を歩み始めた当時の情勢を想像すれば、留学を契機として経済界、政界へと活躍の場を華々しく広げていくことは誰もが理想とするところであったろう。だが、高楠は、その道を選ばず、欧州インド学の研究に力を注いだ。仏教に生きるという答えを見出したのである。
  帰国後の高楠は、日本におけるインド学発展の礎となった。なかでも、邦訳「ウパニシャット全書」(全9巻)、私財を投じて完成させた「大正新脩大藏經」(全100巻)、邦訳「南伝大蔵経」(全65巻)の刊行は、高楠の不滅の情熱がなしえた偉業である。


高楠にとって興味のあるものは、すべて研究の対象であったそれゆえに、残した論文・随筆集は数えきれない
高楠にとって興味のあるものは、すべて研究の対象であったそれゆえに、残した論文・随筆集は数えきれない
高楠の日記の数々も資料室に収蔵されている
高楠の日記の数々も資料室に収蔵されている

仏教精神による人間教育

参照資料『高楠順次郎の教育理念』武蔵野女子学院
参照資料『高楠順次郎の教育理念』武蔵野女子学院

 もう一つ、高楠を語るのに忘れてはならないのが、「人格完成の根底とは宗教である」として、教育現場と宗教を結束させたことである。東京外国語学校(現 東京外国語大学)、東洋大学では学長を務め、中央商業高校(現 中央学院大学)、武蔵野女子学院(現 学校法人武蔵野女子学院)は学祖として名を刻んだ。特に1924(大正13)年の武蔵野女子学院の創立は、女子教育の重要性に光明をあてた点において、数多ある功績の中でもひときわ輝かしい偉業だろう。「女子教育は正に人生母体の開墾である」という言葉を高楠が遺している通り、創立が実現した瞬間は、万感の思いであったに違いない。
  高楠は学院の創立20周年を見届けた1945年、静岡県御殿場にあった仏教青年会修養場、楽山荘で80歳の生涯を閉じた。


偉大な創立者の貴重資料を展示・保管
武蔵野女子学院 高楠順次郎資料室


松井 浄賢さん
松井 浄賢さん
 「世界的な仏教学者である高楠先生が後年、女子教育に捧げられ、武蔵野女子学院がその光栄に預かれたことは、本当に幸運なことでした」。
  没後63年を迎えようとする今、高楠の人物像を直接知る者はほとんどいない。だが、高楠の日記や残した論文、随筆集、また当時の教え子から聞き伝わる噂の断片から、高楠の人柄に触れることがあると、松井さんは話す。
  「学者の間では、厳しく近寄りがたい存在だったようですが、学生の前では気さくで、親のように学生を可愛がっておられたそうです。若い頃の写真を見ていると、お洒落で茶目っけがあって。子どもの頃は、ガキ大将でならしていたのかもしれません」。
  松井さんは現在、未完成として残されていた高楠順次郎全集の編纂業務を担当している。2008年5月に当初発刊予定の未刊分5巻を3巻に縮小し、既刊分7巻を加え全10巻の全集が完成する見込みだ。全集の刊行により多面的角度からの高楠研究も期待できるであろう。

取材協力 武蔵野大学


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