龍谷 2008 No.66

シリーズ龍谷の至宝7 青龍

青龍


 二十世紀初め、本願寺宗主・大谷光瑞師が組織した大谷探検隊は中央アジアから様々な資料を将来したが、その中にトルファンの高昌故城付近のアスターナ・カラホージャ古墓群から発掘した多数の文書断片がある。そこには唐代の西州高昌県の官庁で作成された一連の土地関係文書断片が含まれていた。官庁文書は一定の年数が経つと寺院や民間に払い下げられ、裏面が再利用された後、墓の副葬品の材料などに使用されることがあった。ここに掲げた「青龍」も官庁払い下げの土地関係文書から制作されたものである。
  この青龍を復元した大津透氏(東京大学教授)によれば、元の姿は一連の土地関係文書を貼り合わせて何層かの厚紙状にし、表面に彩色した龍を描いてから裁断し、穴を穿って墓室の壁面に掛けたものであったという。上掲の「青龍」は下貼りのうちの一層、十一点の「給田文書」断片をつなぎ合わせて復元している。小田義久氏(本学名誉教授)によれば、別の層の下貼りの文書断片に七四五(天宝四)年の紀年があり、この青龍はそれ以降に制作されたという。「給田文書」は土地給付の台帳で、唐代高昌県の均田制施行の状況を示す貴重な史料である。さらに、この青龍の復元によってこの地域の墓葬の習俗も明らかになった。なお、表面の鮮やかに彩色された龍の図像は、旅順博物館に所蔵されている。
  龍や虎を副葬品として死者とともに埋葬する習俗は古く、河南省から遺骸の左右に龍と虎の形状に貝殻を敷き詰めた紀元前五〇〇〇年頃の墓が発掘されている。漢代になると青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の思想が形成され、墓の壁画にも四神の図像が登場してくる。唐代に入ると四神は墓の不祥をはらう守護神として壁画の主要な構成要素となるが、八世紀後半のトルファンでは、壁画の代わりに紙製の四神を制作して墓室の壁に掛けたのであろう。おそらく、白虎・朱雀・玄武の図像もあったと思われ、朱雀の足の形状をした文書断片も確認されているが、全体像はまだ復元されていない。
(文・都築晶子 文学部教授)


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