穴埋めで書いた童話をきっかけに
児童文学の道へ
執筆活動を応援しながらも、寺の跡継ぎとして大学を育てねばならないと判断した父親は、大学に学生結婚を強いて、卒業後に得度をさせる。大学は父のもとで寺の法務などを手伝うが、旧態依然とした寺の風習になじめず、大阪府南河内郡天野小学校の代用教員の職に就いた。
そこで2年ほど経験した子ども達との出会いが、大学の児童文学への道を切り拓いた。折しも、『大毎コドモ』の編集をする級友の上原弘毅から穴埋め原稿の依頼があり、大学は童話を手掛けた事はなかったものの、自身が子ども達と触れ合う現場にいる事から試しに執筆を受けた。それが思いもかけず好評を得た事から、児童文学を本格的に書き始めるようになったのだ。
NHK大阪放送局で大学の作品がラジオ放送され始めると、様々な雑誌から執筆の注文が舞い込んできた。いかにも「子ども向け」に作られた童話ではなく、これまでに修養を積んだ文学の経験から「文学性の高い作品」を書こうと、大学の児童文学に対する情熱も芽生え始めた。国は太平洋戦争に突入し、大学は臨時招集で中国戦線に送られたが、戦場でも作品を書いたという。内地から送られてくる手紙で父の訃報を知り、悲しみに暮れても筆を断つ事はなかった。
終戦後、復員した大学は父の後を継ぎ、住職を務めた。傍ら、男ばかりの七人の子どもに恵まれ、家族を養うために女学校へと働きに出た。昼は学校勤め、帰宅後は檀家回りと寺務、夜は睡眠時間を削って執筆活動と、無我夢中に働いた。
寺務を取り仕切るため、仏教の教義についても学ぶ機会が多くなった大学は、教義を知るにつれ、心の中に親鸞の存在を意識するようになる。この親鸞への傾斜が児童文学にも影響を及ぼした。「児童文学とは厳しい文学精神を持たねばならない」という従来の考え方に加え、「宗教精神を踏まえることを必須要件とする」と志向するようになり、長編童話などの作品で実践し始めたのだ。
大学の試みは当初、「宗教臭い」と批判され相手にされなかったが、書き続けるうちに徐々に評価され始め、1960年に『かたすみの満月』で小川未明文学賞奨励賞を受賞した。翌年の1961年には『ゆうやけ学校』において小学館文学賞に輝くなど、華々しい功績となって現れるようになった。
生涯失われる事のなかった
児童文学への情熱
成長した子ども達に寺を任せ、京都女子大学児童学科助教授、龍谷大学、大谷大学の非常勤講師を務めるため、京都に移住した大学は、講義と執筆に専念できる環境のもと、充実した日々を過ごしていた。なかでも、龍谷大学教授で級友の芳村修基との再会は、大学を新たな文学への境地へと導いた。チベット仏教研究の権威であった芳村教授とともに親鸞について語らううちに、以前より実践していた「厳しい文学精神と宗教精神を必須とした児童文学」のめざす方向がより明確になったのである。仏教教義を理解しやすいように物語に仕立てた「仏教説話」を題材に取り、大学のなかで咀嚼し、ひとつの文学作品として書き上げようとする「仏典童話」への挑戦が、始まったのだ。
教義をお仕着せのように直接的に取り入れるのではなく、「在るとわからない形をとりながら、しかも必ず在るという形」で、作品そのものの感動から教義のエッセンスを引き出してくる。大学自身の高い文学性に依存したこの独創的な「仏典童話」は、慈悲や捨身の心を様々な物語のなかにそこはかとなく漂わせ、人々に深い感動と温かい心を与えてくれる。童話は反響を呼び、なかでも元東大寺管長の清水公照が挿絵を添えた『赤いみずうみ』『蟇ぼとけ』はベストセラーとなった。
仏典童話を書き続け、年齢も64歳と老齢にさしかかった頃、大学はある決意をした。通常なら一線を退き、児童文学の権威として後継者育成に回る道を選ぶところを、日本児童文学者協会などのあらゆる学会を退会し、各種の会の理事や評議員などの職を辞して、一人「遊戯三昧」の境地で今まで以上に創作に没入しようと決めたのだ。費用一切を自分で賄い、希望者に配布するという個人雑誌『まゆーら』を創刊し、全頁を自ら担当した。雑誌に定価を設けず、支援金という形で募ったところ、支援金が集まりだし、発行部数も500部から3200部と回を重ねるごとに飛躍的に伸びた。国内はもとよりハワイ、アメリカ、カナダにも読者の輪が広がったという。
大学は、年間6冊発行の『まゆーら』を休むことなく続けた。そして、1988年、1月29日肺気腫のため79歳の生涯を閉じたのである。命尽きるまで筆をおくことなく、児童文学へ情熱を注ぐ−そのひたむきな生き方は、仏典童話のなかに大学が表した「捨身の心」そのものであった。
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