本山から西侍町
興正寺南から学林町へ
1639(寛永16)年、本願寺第13代良如宗主が本山阿弥陀堂の北に、僧侶の教育機関として学寮を創設したのが、龍谷大学の始まりである。
講堂の「惣集会所」、その東北に所化(※しょけ。学生の事。対して、学長を「能化(のうけ」と言う)寮があり、所化寮は瓦葺2階建。30室を擁し4畳の部屋に2人が住み、1階部分の西端2部屋は能化が使用していた。
1647(正保4)年、学寮は本山敷地外の西侍町に移転する。二代目能化、知空著の『学林之由来』によると、「学寮之屋敷御用に付 御所の西の築地之外大宮通の東との間に一筋の侍町御座候南よりに屋敷御座候、其地へ学林を移し立てられ候」とあり、学寮の敷地が必要になったと、移転の理由が記されているが、侍町という町名は現存せず、正確な位置は定かでない。
さらに1652(承応元)年、再び学寮の建物が必要になったため、興正寺の南、現在の興正会館あたりに再移転する。しかし、1655(明暦元)年、幕命で余儀なく破却されるという悲劇が起きる。背景には宗義をめぐって、興正寺と本願寺との間で騒動があった。結果、幕府の調停を経てそれぞれに処分が下され、学寮はいったん取り壊しとなったのだ。しかし、地方から学びにやってきた所化らを路頭に迷わせるわけにもいかず、東中筋にある町医者の揚屋敷を本山が借り受けて、仮の学寮とし、講義は続けられた。破却にあった以上、学寮と名乗る事はできず、代わりに「学林」と通称で呼ぶようになった。学林の語の初見は、知空の『論註翼解』4巻の末尾に「学林」との記述がある。また、三代目能化若霖の筆記には「其後町名をも講舎に随い学林町と名づけ申し候」とあり、町名まで学林町と変えた事がわかる。ただし、それがいつからの事で、また、学林町となる前はどんな町名であったかも明らかではない。井上哲雄氏が龍谷大學『論叢第302號』にて記した略年表には、「1668(寛文8)年、二月、学林を東中筋花屋町に再興し、法霖幕府に願ひて堺町の町名を改めて学林町と称す」とある事から、もともとは堺町と呼ばれていたのかもしれないが、移転年に相違があるため、鵜呑みにするわけにもいかないだろう。
|