龍谷 2009 No.67

古都・湖都 歩く│学舎の370年をたどる

 大教校時代の華々しい幕開けを今に伝える本館。白亜の気品ある壁が見事に対をなす北黌、南黌…その風格ある佇まいが重厚な歴史を感じさせる大宮学舎は、龍谷人にとって、ことさらに印象深い風景ではないだろうか。しかしながら、歴史のページをめくってみると、龍谷大学がこの地に到るまで、実に240年もの時間が流れていた事がわかる。その過程には歴史の事件あり、騒動あり、災害ありと、様々なドラマが隠されている。大宮学舎はいかにして、この地にたどりついたのか。今回は、その学舎(まなびや)の足跡を370年前からたどってみよう。

本山から西侍町
興正寺南から学林町へ


  1639(寛永16)年、本願寺第13代良如宗主が本山阿弥陀堂の北に、僧侶の教育機関として学寮を創設したのが、龍谷大学の始まりである。
 講堂の「惣集会所」、その東北に所化(※しょけ。学生の事。対して、学長を「能化(のうけ」と言う)寮があり、所化寮は瓦葺2階建。30室を擁し4畳の部屋に2人が住み、1階部分の西端2部屋は能化が使用していた。
 1647(正保4)年、学寮は本山敷地外の西侍町に移転する。二代目能化、知空著の『学林之由来』によると、「学寮之屋敷御用に付 御所の西の築地之外大宮通の東との間に一筋の侍町御座候南よりに屋敷御座候、其地へ学林を移し立てられ候」とあり、学寮の敷地が必要になったと、移転の理由が記されているが、侍町という町名は現存せず、正確な位置は定かでない。
 さらに1652(承応元)年、再び学寮の建物が必要になったため、興正寺の南、現在の興正会館あたりに再移転する。しかし、1655(明暦元)年、幕命で余儀なく破却されるという悲劇が起きる。背景には宗義をめぐって、興正寺と本願寺との間で騒動があった。結果、幕府の調停を経てそれぞれに処分が下され、学寮はいったん取り壊しとなったのだ。しかし、地方から学びにやってきた所化らを路頭に迷わせるわけにもいかず、東中筋にある町医者の揚屋敷を本山が借り受けて、仮の学寮とし、講義は続けられた。破却にあった以上、学寮と名乗る事はできず、代わりに「学林」と通称で呼ぶようになった。学林の語の初見は、知空の『論註翼解』4巻の末尾に「学林」との記述がある。また、三代目能化若霖の筆記には「其後町名をも講舎に随い学林町と名づけ申し候」とあり、町名まで学林町と変えた事がわかる。ただし、それがいつからの事で、また、学林町となる前はどんな町名であったかも明らかではない。井上哲雄氏が龍谷大學『論叢第302號』にて記した略年表には、「1668(寛文8)年、二月、学林を東中筋花屋町に再興し、法霖幕府に願ひて堺町の町名を改めて学林町と称す」とある事から、もともとは堺町と呼ばれていたのかもしれないが、移転年に相違があるため、鵜呑みにするわけにもいかないだろう。

年表│学舎の370年



大教校時代の幕開けと
モダン建築 大宮学舎の創設


  学林町時代の学林は、講堂、大門、食堂、寮など土地を買い受けては度々拡張を図り、幕末まで実に200年以上もの間、この地で発展した。1788(天明8)年正月には、天明の大火により学林は全焼するが、本山集会所を仮学舎として借用し、その間に再興。1792(寛政4)年、講堂が再建され、1825(文政8)年には新寮の建立に続き、南寮、北寮、新寮、東寮、勧学寮なども増築された。1830(天保元)年には、本願寺第20代広如上人より、「真宗学庠(しんしゅうがくしょう)」の扁額が下付されるなど、繁栄の歴史が窺い知れる(※扁額は現在、本館正面に掲げられている)。
 そして、時代は倒幕、明治維新へと急速に変化し始める。その煽りをまず受けたのが、1864(元治元年)年の蛤御門の変だ。「どんどん焼け」は京都中を焼きつくし、「学林」も炎上。本山北集会所を講堂として利用するも、翌年、幕府の用心棒として勢力を誇っていた新選組の屯所にされてしまい、南集会所へと移転。1866(慶応2)年、学林町に仮講堂及び寮舎が完成し復興をめざすも、本山の財政がひっ迫。講堂再建が叶わぬうちに、時局は1867(慶応3)年に大政奉還を迎え、徳川260年の歴史に終止符が打たれてしまう。
 新政府誕生の影響は早々に学林を襲った。それは、1871年(明治4)年、学林の敷地を上納せよという官命が下されたのである。学林町での再興の道は断たれ、さらに追い打ちをかけるように、廃仏毀釈の機運の高まりは、本山の存亡をも危機に陥れた。
 そんな激変の時代のなか、本願寺第21代明如宗主はヨーロッパの大学制度を早くから取り入れ、学林の大改革に乗り出した。学林から大教校に発展させ、現在の大宮学舎の地へ、大教校を建設する事を決断したのである。大教校に選んだ地は、本願寺家老職で歴代門主に仕えてきた下間(しもつま)家の屋敷。ここに1879(明治12)年、新時代の幕開けを匂わせるモダン建築の大宮学舎が誕生したのであった。
 本山、西侍町、興正寺南、学林町、そして現在の大宮学舎へと、歴史のなかで移転を繰り返してきた本学の学舎。
 学林町を歩いてみると、閑静な住宅街のなかに、本願寺の末寺や「本願寺国際センター」があるのみで、その片鱗を窺わせるものはほとんど残されていない。
 学林町時代、土地の一部を学林が買い受けたとされる蓮光寺を訪ねてみた。住職の快い招きにあい、扉を開けると、古井戸がひっそりと残されてあった。
 「所化達が当時使っていた井戸で間違いないでしょう」と住職は話す。
 若い学僧の喉をうるおした水であったか。古井戸が200年の歴史を一身に感じさせる。

年表│学舎の370年
  1639年『本山阿弥陀堂北』に「学寮」を創建  

@1639−1646年

学寮の始まりから、仮学舎など幾度も講堂に使用された本山。写真は、学寮発祥の地、阿弥陀堂の北を撮影したもの。現在は、宗務総合庁舎になっている。

●1639年 『本山阿弥陀堂北』に「学寮」を創建

  学舎の370年をたどる  

A1647−1651年

学寮を『西侍町』に移転(現在西侍町は存在しない)

  1652年 学寮を『興正寺南の川端』に移転  

B1652−1694年

学寮が西侍町から移転した興正寺南の地。現在は、興正会館となっている。

●1652年 学寮を『興正寺南の川端』に移転

  1695年「学寮」を「学林」として再建  

C1695−1870年

学林町は、東中筋通六条下ルから旧花屋町通までの、両側の町一部を指す。
(学林町にある、親鸞聖人の銅像が立つ本願寺国際センター)

●1695年「学寮」を「学林」として再建

  1879年 大教校落成『現・大宮学舎本館』  

D1879−現在

現在の本館正面に掲げられている広如上人より下付された「真宗学庠(しんしゅうがくしょう)」の扁額。

●1879年 大教校落成『現・大宮学舎本館』




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