龍谷 2010 No.70


    私のミュージアム34
幕末の静なる政客 中岡慎太郎 維新に命を賭けた男が愛した、ゆず香る郷土 高知県安芸郡北川村 中岡慎太郎館 中岡慎太郎
 

いくつもの偽名を使い、 歴史に身を捧げた大庄屋の息子。

中岡慎太郎館 墓石
 緑深い山々の間に棚田が続く。森の隙間からきらきらとした山水がこぼれ出て道の脇を濡らしている。ゆず畑の小道には穏やかな陽光が満ち、古びた寺の墓石の脇からカマキリが顔を出していた。盛夏には森林土の香り。そして秋にはあちこちで名産のゆずが香り始めるという。穏やかな空気に包まれた里、高知県安芸郡北川村柏木。その安らかさとはまるで対極にある、血のたぎるような動乱の景色を駆け抜け変革に命を捧げた男が、かつてここに生を享けていた。維新のもう一人の立役者、中岡慎太郎である。
 ある時は北川村大庄屋見習・中岡慎太郎、ある時は脱藩浪人・石川清之助、ある時は薩長同盟の工作人・寺石貫夫もしくは大山彦太郎、またある時は陸援隊長の横山勘蔵。いくつもの名前を使い分け、幕末の日本の水面下を走り回って情報収集・説得工作を続け、1866(慶応2)年の薩長同盟から続く維新の下地を築いた。1867年にともに京都の近江屋で倒れた同志・坂本龍馬とは対照的に、慎太郎は証拠を隠すのが巧みで、偽名を使い、手紙でも「この先は機密事項ですのでお会いしてから」という形をよくとったという。そのため資料が少なく、人物も明らかにされにくく、なかなかその存在に注目されることがなかった。
 しかし村の人々は慎太郎を誇りに思っていた。彼が20代前半にこの村の大庄屋見習であった頃、今は名産物となっているゆずと杉の栽培を奨励したのだという。20年前、ふるさと創生基金による村おこしを考えた時、あの慎太郎への恩返しをという思いで作られたのがこの「中岡慎太郎館」である。1993(平成5)年に完成、場所は中岡慎太郎の生誕地。生家、読み書きを学んだ寺、剣術修行に通った道、遺髪墓地、顕彰碑、銅像など慎太郎に関する史跡に囲まれたこの場所で、彼の生涯とその功績に触れることができる。
 
中岡慎太郎像 中岡慎太郎館 学芸員 豊田満広さん(右)
中岡慎太郎像
慎太郎館向かいにある。生誕160年を記念して平成11年に建立。銅像の高さは153cm。実際の身長もこのぐらいだと言われている。
中岡慎太郎館 学芸員 豊田満広さん(右)
龍谷大学大学院文学研究科国史学専攻修士課程修了。1999年より現職。館の企画・運営を担当。就任以来、幕末に関連する論考を数多く発表しており、2010年NHK大河ドラマ特別展「龍馬伝」企画委員も務めるなど精力的に活動している。
 
慎太郎とその周辺の研究から 幕末の新たな真実が生まれていく。
 1階は映像やイラスト、わかりやすい図解パネルなどで慎太郎の生涯を時代とともに追う。北川村での逸話も交え、幕末関連の作品では龍馬に隠れて語られることの少ない、龍馬と行動する以前の慎太郎の足跡も知ることができる。2階では慎太郎や彼と交流のあった人物達の資料を中心に展示。遺物から当時を読み解きながら、幕末志士の息遣いを生々しくこちらに届けている。企画・展示室では年に2〜3回の企画展が開かれる。
 人気の企画展を担当しているのは、中岡慎太郎館で学芸員を務める豊田満広さん。龍谷大学の卒業生である。豊田さんは館の管理運営といった通常業務と同時に、企画展に向けて日本各地に点在する埋もれた資料を求めて飛び回っている。時には新聞に掲載されるほどの発見をすることも。「3年前、たまたま京都の資料館の目録を見ていたら、偽名や筆跡・内容から『これは慎太郎が出した手紙じゃないか?』と思えるものがあって。実際に行って確かめてみたら『間違いない』となりました」。最近でも、富山で慎太郎の笑顔写真のガラス原板が見つかったと聞き、確かめに行ったという。モノによって次々と明らかになっていく幕末の真実。面白みは尽きない。
中岡慎太郎館1階 写真や図解のパネルでわかりやすく紹介されている。 中岡慎太郎復元生家 慎太郎館のすぐ近く。中に入って見学可能になっている。
中岡慎太郎館1階 写真や図解のパネルでわかりやすく紹介されている。 中岡慎太郎復元生家 慎太郎館のすぐ近く。中に入って見学可能になっている。
勘蔵書状(複製) 豊田さんの調査で慎太郎が岩倉具視宛に送ったものと判明した。 近江屋血染の屏風(複製)刺客が来た際、慎太郎の背後にあったと言われる。
勘蔵書状(複製) 豊田さんの調査で慎太郎が岩倉具視宛に送ったものと判明した。 近江屋血染の屏風(複製) 刺客が来た際、慎太郎の背後にあったと言われる。
 
慎太郎の残した言葉の中には 現代にもつながる答えがある。
 父親の「村政を継がせたい」という望みで早くから英才教育を受け、そのおかげで1855(安政2)年18歳の頃、慎太郎は藩校田野学館の武術の授業で武市半平太に出会った。武市の人格に敬服し、世のために尽くすことを考えるようになったこの時から、慎太郎の人生が動き始めるという。一度村政につくものの、1861(文久元)年土佐勤王党に加盟、そして1863(文久3)年脱藩。独自の行動を開始する。情報収集や仲介能力に優れていた慎太郎は、隠密のような動きをして人と人をつないでいった。薩摩と長州、岩倉具視と三条実美、薩摩と土佐。そのつながりから時代が変わっていく。
 そんな慎太郎の一番の魅力はどこにあるのか、豊田さんに尋ねてみた。
 「常に先のことを見通す力を持っていたところですね。彼は亡くなる1867(慶応3)年の夏に『時勢論』という論文の中でこう語ります。『邑ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財を投げ捨て(中略)、一技一芸あるものはその技芸を尽し、愚なる者は具を尽し、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽し、しかるのち政教たつべく…』つまり、土地のある人は土地を提供し、お金のある人は活動資金として提供し、スポーツできる人はスポーツで、マーケティングできる人はマーケティングで、そうやってそれぞれが得意分野を活かして行動していけば、やがて大きな一つの力となり、世の中を変えることができる。一人ひとりがこつこつがんばって、目標・目的を共有してやっていけば、たとえ百連敗しようとも、最後の最後に勝利を得られる。そういうことを言ってます。まさに幕末版『世界に一つだけの花』。民主主義の普遍的な考え方の一つですよね」
 
慎太郎関連史跡
【京都・円山公園】 龍馬と慎太郎像 慎太郎遺髪墓地
【京都・円山公園】 龍馬と慎太郎像
1934年に建立。第二次大戦中に供出させられたが、1962年に再建された。
慎太郎遺髪墓地
遺髪は生前のものか死後のものか諸説がある。両親・妻の墓と並ぶ。
慎太郎顕彰碑 慎太郎が通った向学の道
慎太郎顕彰碑
北川村の青年団が、慎太郎を知る田中光顕に相談して1927年に建立。
慎太郎が通った向学の道
慎太郎が島村策吾の塾や田野学館に通学するときに通った道。
   
 
●中岡慎太郎館アクセス

中岡慎太郎館地図
中岡慎太郎館
〒781-6449 高知県安芸郡北川村柏木140

開館時間/午前9時〜午後4時30分※入館は午後4時まで
休 館 日/年末年始(12月28日〜1月2日)
入 館 料/一般 500円(団体 400円)、小・中学生 300円(団体 200円)
交   通/JR高知駅より「ごめん・なはり線」に乗車奈半利駅下車(約70分)        
         奈半利駅より北川村営バスもしくはタクシーに乗車
         慎太郎館前(柏木)下車(約15分)
問い合わせ/電話:0887-38-8600

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