龍谷 2010 No.70

古都・湖都歩く
 

 文明開化とともに宗門教育機関の再編成に乗り出した、西本願寺21世宗主明如上人。その進取の精神を、大教校の壮大な洋風建築にて表した。「西日本最大級」と謳われたモダンな建物は、明治天皇の行幸を賜った。
 行幸に至る背景や、陛下をお迎えするための本学の奮闘…。知られざる一面に迫る。

 
大宮学舎正門の北側に設置されている「明治天皇 御小休所本願寺旧大教校」の標柱石
重厚感のある装飾美が加えられた  大宮本館階段のプロムナード部
大宮学舎正門の北側に設置されている「明治天皇
御小休所本願寺旧大教校」の標柱石
重厚感のある装飾美が加えられた
大宮本館階段のプロムナード部
 
行幸の栄誉に秘められた大教校の心尽くし
 本学が明治天皇お立ち寄りの場所として選ばれていたことはごぞんじだろうか。大宮学舎正門北側には、「明治天皇御小休所本願寺旧大教校」標柱石が建っている。1937(昭和12)年に、文部省(当時)から史蹟として指定をうけた際に設置されたものだ。
 明治時代の本学は、明如上人のもと学林の大改革をおこない、宗門の華々しい近代化を世間に知らしめていた。ヨーロッパの学校制度を調査するために、赤松連城などを欧州に派遣。専門学科のほか普通学科を設け、宗教のみならず歴学、外国語、キリスト教研究などを講義に含めるという斬新な改革を打ち出した。各県ごとに小教校、主要地の7か所に中教校を設置。京都の学林は宗門学校の最高学府として、大教校と改められた。
 その大改革への志を一身に背負い、そびえ立つのが大宮本館である。日本に洋風建築技術が確立されていない時代にあって、仏教系の和風のイメージを一新し、洋風建築にこだわった先進性はいうまでもない。高さ18・6メートルという巨大な構造には、筋交いを釘打ちでおこなう従来の手法ではなく、?にて入れ込む西洋技術が取り入れられるなど、当時のハイテク技術を駆使した痕跡が見える。また、欧化政策の舞台として名高い鹿鳴館(1883年)よりも早く落成を迎えているという先駆性は、特筆すべき点である。たちまちに「西日本最大級」と評判は轟き、引きも切らず見物客が訪れたという。
 そんな進取の精神かくありきと時代に挑む大教校に、明治天皇行幸という吉報が届いた。行幸となれば、お迎えするために道路を整備したり建物を建てたりと、大変な準備を要する。「本校に於て最も光栄とすべきは、明治天皇の行幸なりとす」と、『明如上人伝』に記されているように、本学はこの名誉に恥じぬよう、事前の準備に多大なる時間と労力を費やした。1875(明治8)年に本願寺が大教院からの脱退独立を果たし、仏教こそが明治政府の文明開化政策の真の輔翼勢力たらんとして、積極的に西欧文化を取り入れようとした本学。その意気込みを明治天皇に直接ご覧いただこうという意図も、準備の背景にあったのかもしれない。
 行幸にあたっての本学の準備として、まず挙げられるのは、大宮本館の設計自体が変更されていることである。これは、平成の大改修の際の調査で明らかになったことで、特に2階部分に、床をめくったり、内装をはがしたり、間取りを変えたりと、大幅に変更した跡が見られるのだ。これは、天皇家から公式訪問の申し入れがあったのが完成間近の頃であり、いったん出来上がったものをつぶしてまで変更したということを示している。1878(明治11)年に竣工予定だった大宮本館が、実際1年ほど遅れてしまった理由も、この変更が原因であったと考えられる。
 2階の具体的な変更点としては、講堂部分が挙げられる。当初、講堂面積は今の半分以下で、ほかにいくつかの教室が予定されていた。それを大講堂にまとめ、北西室を豪華な貴賓室に改めたのだ。また、1階の南北の両方から2階への階段が通じる設計だった。ところが、1階正面から陛下をお迎えし、講堂を視察していただき、奥の貴賓室で休んでいただけるような動線を確保するため、階段の位置を変更。階段のプロムナード部には迫力を持たせて重厚感のあるものにするという、装飾美も加えられたのだ。
 さらに、ご接待については、勧学寮頭が陣頭指揮を取った。7月の炎暑のなか、大臣方、公家衆、侍従、女官、近衛騎兵中隊百名余りを従えての行幸である。暑さを和らげるために、本館の部屋に玻?(ガラスの別称)の大衝立を作り、金魚を放つのはどうか、いや、氷柱を置くのがよかろう。清浄なる雰囲気を醸すために庭には白砂を敷き詰めようといった、隅々に至るまで心を砕いた記録が残っている
 
明治12年5月、大教校竣工式の図
明治12年5月、大教校竣工式の図
 

栄光の軌跡は大宮本館になお息づく

 そうして迎えた7月20日、貴賓室には、50キロもある氷柱をいくつも置いて涼を演出。食事には葡萄酒やカステラ、氷、アイスクリームなど贅を尽くした品々が、お付きの人々にまでふるまわれた。当初の予定は館内見学、視察であったが、午後2時前に到着されてから午後6時を過ぎてもなお、両陛下はとどまられたという。4時間という長きにわたるご滞在は、両陛下のご満足を察することができ、接待側の本学関係者は一同感激の極みであったに違いない。事実、大教校上首勧学の遠藤玄雄がこの感動を七言絶句に残している。
喜びと緊張と、怒涛のごとく過ぎた行幸から一夜明け…大教校にはその報を知った拝観者が殺到したと伝えられている。明治天皇皇后両陛下からは、本学の労苦をねぎらい、「蜀江紋金襴」が下賜された。格調高い金襴の絹織物は、現在は復元された姿ではあるものの、大宮本館講堂の天井を彩り続けている。
本館は1964(昭和59)年に国の重要文化財に指定された。近畿圏の最大最古の2階建て洋館としての威容を誇り、今でも建築家をめざす若者が見学に訪れることも少なくない。
いち早く教育の近代化を図った本学。その栄光と熱気を凝縮したかのような行幸の1日は、連綿と壮麗な大宮本館に受け継がれ、訪れる者の心に文明開化の音色を響かせてくれるのである。
1937年に文部省から聖蹟に指定された際の書類一式は当時の庶務が残している 指定された際の書類一式は
当時の庶務が残している
七言絶句
七言絶句
現在の本館講堂 本館講堂の天井を彩る復元された 「蜀江紋金襴」  
現在の本館講堂 本館講堂の天井を彩る復元された
「蜀江紋金襴」
 
参考文献 『明如上人伝』(1927年刊)、『顕如上人伝』(1941年刊)、『龍谷大學三百年史』、広報誌「龍谷」28号

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