龍谷 2010 No.72


龍谷の至宝

良如上人御影

江戸時代 162.3×64.5(90.08×39.5)p
〈( )は、御影部分のみの寸法〉
龍谷大学大宮図書館所蔵

 

 教興院良如上人は、本願寺第12世准如宗主の二男として1612(慶長17)年に誕生された。長男が早く没したため、4歳の時、准如宗主から譲状を受け、1630(寛永7)年、19歳で本願寺第13世を継職。時の将軍は徳川家光(在職1623〜51)であり、武断政治のもと戦国の気風を色濃く残していた時代である。
そんな不安定な時勢に、良如宗主は、1617(元和3)年に焼失した御影堂の再建や東山の大谷本廟の整備を果たされ、全国の門末を束ね、本山と末寺の関係を法制化する本末制度の基礎をつくられた。幕府との関係では江戸に13回も下向され、将軍家への礼節を尽くされた。徳川将軍が絶対的な権力を持つ中央集権において、ともすれば取り潰しの危機に遭いかねない時代に、教団の存続と発展に良如宗主の辣腕が奮われたことは論を俟たない。そのご努力は、『1631(寛永8)年4月21日 良如宗主書状 駿河大納言(徳川忠長)宛』からも読み取ることができる。
数々のご事績のなかでも、龍谷大学の淵源である学寮の創建は良如宗主の宿願であったという。僧侶の修学機関が教団の発展に不可欠と判断されたこととあわせて、来る文治政治の時代の気配を感知された、良如宗主の慧眼があったことも書き加えておきたい。
1639(寛永16)年、本山阿弥陀堂の北に創建された学寮は、二度の移転の際も良如宗主自ら土地を見分されるなど、宗主の熱意のもと拡大がはかられた。しかし1655(明暦元)年、学寮は、宗義の対立に端を発し、興正寺准秀の大坂天満立ち退き、さらには良如、准秀両門跡の江戸訴訟へと拡大した騒動から、ついに幕命により破却の事態に追い込まれた。どれほどの苦渋に満ちた決断をされたことか、想像を絶するものがある。
『1655(明暦元)年7月11日 井伊掃部頭直孝書状 池永外記(三雅)宛』もその一端を知り得る史料である。
1662(寛文2)年、良如宗主は51歳で示寂された。宗主の学寮への思いは龍谷大学へ受け継がれることとなった。
本年は、良如上人350回忌にあたる。ご命日の10月18日は、350回忌法要を厳修し、「良如上人〜近世本願寺の礎を築いた宗主〜」と題した展観を開催する。良如宗主のご生涯とご事績、学寮創設の軌跡を細やかにたどる展示内容のもと、『良如上人御影』をはじめ、先述した良如宗主のご努力を裏付ける数々の史料が明らかにされる。
本学の礎を築かれた良如宗主のご遺徳を偲び、多くの後学の徒が展覧の機会を得んことを願いたい。

取材協力:本願寺史料研究所 主任研究員 大喜 直彦

 

※史料1
『1631(寛永8)年4月21日 良如宗主書状 駿河大納言(徳川忠長)宛』
一通 江戸時代前期 36・4×54・0p
本願寺史料研究所所蔵

 良如宗主が家光の実弟、徳川忠長に宛てた手紙だが、完成しているにもかかわらず、出されぬままに終わっている。文書日付の約1カ月後、忠長は家光により失脚させられる事件が起きている。本願寺はその情報を事前に察知して、忠長との関係を幕府に疑われることをおそれ、手紙が忠長にわたらないように出すことを差し控えたのだった。

史料2

※史料2
『1655(明暦元)年7月11日 井伊掃部頭直孝書状 池永外記(三雅)宛』
一枚 江戸時代前期 35・3×48・7p
本願寺史料研究所所蔵

 7月6日朝、良如宗主との会談で学寮取り崩しの同意を取り付けた彦根藩主井伊直孝は、宗主の学寮崩しの指示を携えた使者を一刻も早く上京させるよう、家老衆を介して宗主に迫った。あまりに性急な要求に当惑した良如宗主は、11日未明、直孝の下屋敷へと使者の池永三雅を遣わし、学寮破却延引の申し入れをおこなった。これに対し、直孝が「延引迷惑」と激怒したのが、この文書である。展観では、直孝が破却を促した内容のものと破却に同意した良如宗主に対し、直孝が「延引迷惑」と激怒したのが、この文書である。展観では、直孝が破却を促した内容のものと破却に同意した良如宗主に対し、直孝が礼を述べた書状2通もあわせて展示。

 
大宮学舎 ■展観情報
「良如上人〜近世本願寺の礎を築いた宗主〜」
期間/2011年10月14日(金)〜23日(日) 
開館/10:00〜17:00(16:30入館受付終了)
会場/大宮学舎本館展覧室  入場無料

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