龍谷 2010 No.72

龍谷人偉人伝 卒業生をたずねて
考古学ブームを巻き起こした高松塚古墳壁画の発見
松林 宗恵
(c)TOHO CO., LTD.
太田 信隆

(一)

 松林宗恵と森繁久彌は、「和尚」「繁さん」と呼び合う仲であった。森繁は松林が監督した映画に三十本以上出演していた。松林の自伝『私と映画 海軍 仏さま』に寄せた序文に、森繁はこう書いている。「長い年月、この飄逸で暖かい心の持ち主に教わることが楽しみだった。それでいて結構生ぐさい人間味のある方で、それが混然とこの人の身上を作っていると信じて疑わない」
「飄逸で暖かい心の持ち主」であったことは、多くの人が認めるところであろうが、松林の「生ぐさい人間味」というのは、どんなことなのか。謦咳に接したが、これは、ちと、面と向かって聞くわけにはいかなかった。
松林は、平成二十一年八月十五日、終戦記念日に八十九歳の生涯を閉じた。九月十日、東京都世田谷区の東宝スタジオで、お別れの会が開かれた。ステージは海軍士官であったことをイメージして、海原を進む船が花で模ってあった。中央に白いあごひげを生やした大きな遺影が飾られていた。[海ゆかば]の曲が流れた。
遺影の前で、司葉子が追悼の辞を述べた。《青い山脈》の撮影の時の話をした。石坂洋次郎のこの題名の小説が評判を呼び、戦後、五回、映画化された。松林が監督したのは、昭和三十二年であった。司葉子、雪村いずみ、草笛光子、宝田明らが出演した。ロケ地は、岐阜県の恵那市であった。
来る日も来る日も雨がふって、撮影は休止、スタッフは、宿舎の旅館に閉じ込められた。「誰か、精進のわるい人がいるからよ」と女優の一人がつぶやいた。「それは、和尚よ」女優達は口を揃えた。
松林は、女優達に捕まった。二階の広間で布団蒸しにされ、海苔巻きのようにくるくる巻かれた。女優達はそれを神輿のように担いで、わっしょい、わっしょいと部屋をまわった。松林は「御免よ、御免よ」と言った。司葉子は、「もっとやれ、もっとやれと、と聞こえました―」と語って、しばし、壇上の遺影を見つめた。

 

(二)

 松林は昭和十六年、龍谷大学専門部を卒業した。当時、文学部と予科と、専門部があった。専門部はほとんどが寺院の出身であった。松林は在学中に吉川英治の『親鸞』を読んだ。「非僧非俗」という言葉が胸に焼きついた。法衣をまとわない僧侶で行こうと決心して上京した。
日本大学の芸術学部に籍を置いたが、映画の魅力にひかれて、二十二歳の時、東宝の入社試験を受けた。当時の映画界は花形産業で、若者には憧れの職場、いや、雲上の別世界であった。〈ダメ元〉の積りであったが合格した。
こまめによく働き、演出助手から助監督に昇進した。「これから○○組、セットに入ります」うるさ型がたむろする部屋に告げて回ったりもした。
「あれ、誰?」と若い女優が目をとめて、付き人に訊ねた。「ああ、あれは坊さん大学を出た松林という助監督です」「へぇっ、坊さん大学、じゃ、和尚だね」この女優は、誰あろう、日本中の映画ファンが胸をときめかせたデコちゃんこと、高峰秀子であった。
和尚は、元来は、禅宗の僧家の呼称であるが、松林が僧籍を持っていたので、愛称となった。今に名が残る大スターや巨匠達も、松林を「和尚さん」と呼び慣わしていた。

 

(三)

 太平洋戦争が勃発し、若者は戦場に駆り出された。予備学生から従軍した松林は、昭和十九年の十二月、海軍少尉に任官し、部下百五十人を率いて、佐世保から玄界灘を経て、中国南部の廈門島に向かった。戦況は日々に悪化していた。松林の乗った船は、米軍機の襲撃に遭って沈没した。松林は九死に一生を得た。
松林の生家は、中国地方の山峡を流れる江ノ川のほとり、島根県江津市桜江町の浄土真宗本願寺派の福泉寺である。捕虜となった後、復員し帰郷した。ほどなく会社から招かれて、映画の道に戻った。
監督としてのデビュー作は、上原謙、丹阿弥谷津子主演の《東京のえくぼ》であった。キュートで洒脱なコメディで、都会的なセンスが観客に受けた。
森繁久彌主演の映画 社長シリーズは、サラリーマン社会の哀歓を描いた喜劇であった。大入りであったので、会社はドル箱路線として、約十五年の間に、計三十七本を世に出した。松林はこのうち二十三本を手掛けている。
名優森繁が美人に弱い恐妻家の社長に扮し、芸達者な小林桂樹、加東大介、新珠三千代、池内淳子らが出演した。会社の経費で、銀座のバーへ行ったり、旅行先で宴会をしたりする場面が多かった。営業部長の三木のり平が発する「パーッとやりましょう、パーッと」というセリフは流行語になった。

 

(四)

 松林は、〈戦争もの〉と呼ばれる映画を、五本撮っている。このうち、《連合艦隊》は、太平洋上で艦隊とともに戦い、共に散っていった将兵を描いた大スペクタクル映画で、その年の興行収入、動員数、ともに第一位を記録した。
《連合艦隊》のお終いの方で、戦艦大和が爆破されて海に沈んでいく壮烈なシーンがある。特攻機で上空を飛ぶ息子(中井貴一)が、艦上で手を振る下士官の父親(財津一郎)に向かってつぶやく。「俺は、父さんより、ちょっと長生きができて、せめてもの親孝行になった・・・」
この映画が封切られたのは昭和五十六年八月で、戦後すでに三十余年を経ていた。〈親孝行〉という言葉は、もはや聞くことはなかったが、映画館で目頭を押さえていた人がいた。
人が操縦して敵艦に体当たりする《人間魚雷回天》は、松林が自らの体験を踏まえて企画した映画であった。声高に反戦を叫ぶわけでなかった。人の命の尊さを考えさせた。作品の底流に仏教があった。
松林が監督した作品は七十本を数える。松林のモットーは「うららかに、まことしやかに、さりげなく」であった。スタッフを率い、スターを配して、メガフォンを執った松林の心情であった。信条であり、真情でもあった。また、これがこの人の人生哲学でもあった。
第一回の龍谷賞が松林に贈られた。平成二年五月、松林は会場の京都全日空ホテルの大広間の壇上に立って、「母校の校友会から贈られるこの賞は、私の人生の最高の勲章です」と述べて、目をうるませた。賞状と記念の盾は、生まれ故郷の桜江町にある「松林宗恵映画記念館」に展示されている。
(本文敬称略)
大住広人さん (元毎日新聞編集委員)が『映画監督 松林宗恵《まことしやかに さりげなく》』という本を出されている。(財団法人仏教伝道協会発行)好著である。一読をお薦めしたい。

1990年 第1回龍谷賞受賞のときの松林宗恵 1990年 第1回龍谷賞受賞のときの
松林宗恵(写真提供:読売新聞社)
 
太田 信隆(おおたしんりゅう)
龍谷大学文学部を卒業、NHK記者、関西芸術短期大学教授、龍谷大学校友会長、などを歴任。現 奈良・誓興寺住職、龍谷大学客員教授、宝塚大学評議員、著書「まほろばの僧」「高松塚への道」「新法隆寺物語」など多数。

←トップページへ戻る