龍谷 2012 No.73


鷲田清一 対談 赤松徹眞「これからの日本と大学」

 東日本大震災から1年。右肩上がりの時代の終焉を象徴するかのようなこの災害を経て、我々は多くのものを失うと同時に、たくさんの現状に気づかされ、生き方と幸福観の転換を求められています。
 龍谷大学は、偽り多き世の中において、何が真実であるか≠生涯追究された親鸞聖人の教えを建学の精神とする大学として、改めて、これからの社会における役割を問い直さずにはいられません。
 今号の巻頭特集は、そんな思いから、現代の真実を鋭く見据えるお二人の対談をおこないました。
 『Philosophy to the people』―今、問題を抱えている人や社会の、その問題の本質は何なのか。アカデミックな哲学ではなく、対話のなかで考え続けてきた哲学者、鷲田清一教授。
 『エゴイズムを超えた普遍的な人間のありようを開く』ことに意味を見出した親鸞聖人の教えから、ポスト3・11時代の大学教育のあり方を問い直す学長、赤松徹眞。
 当たり前に流れてゆく、社会の構造やコミュニケーションに警笛を鳴らし、多元的な視点を提起し続ける二人の大学人が、日本そして大学の、これまでとこれからについて語ります。

震災をきっかけに、「お任せ」だらけの暮らしが 変化しはじめたと思うんです

自分で選びとる時代がきた

赤松 東日本大震災は、大きな時代の転換をある意味象徴的に示しているとも言われていますが、確かに、今までずっと当たり前に流れてきたこと、流されてきたことを、改めて見直さなければならなくなっている時期であるように思います。
鷲田 日本社会の市民というのは、今まで全部お任せで来たんですよね。政治は政治家に、医療は医者にお任せ、特に、家族生活のサポートや福祉は戦後は会社にお任せで。日常生活はサービス業に全部頼っている。食事は外食産業に、家の防犯は警備会社に、教育は学校や予備校の先生にという。この状況は、先進国のなかでも過剰な気がします。それが震災をきっかけに変化しはじめています。原発事故の後、残念ながら政府の公表するデータや発言がどんどん変わっていったり、科学者達の言うことが人によって全く違ったりするなかで、多くの人が専門家への不信感を増幅させた。これは大学に関わる者として、非常に由々しき事態だと思います。しかし、一方で、そのことによって市民達はいま、自分の生活を「自衛する」ということをはじめていますよね。自分で線量計を買ってきて計測する。野菜の産地を確認する。あるいは疎開するかどうか自分で選択するといったような。これはポジティブに考えていいと思うんです。

赤松 大学の場合で考えると、学校を選ぶときにも鷲田先生のおっしゃる自分で選択するという意識を持って、この学校はどんな教育方針を持っているんだ、どんなことを教えてくれるんだ、という観点で、保護者や学生が学校を選択するというかたちになっていくといいなと思います。そうすると日本の受験事情も変わってくるでしょうね。

鷲田 昔の学生は、もっとこの大学に行きたいというのがはっきりしてましたよね。自分の成績からしたら無理でも、どうしても行きたいっていうのが。僕の友達には、いける大学はたくさんあったのに5浪した子もいましたよ。慶応と早稲田を両方受けるなんて、昔じゃ考えられませんでしたよ(笑)。

赤松 今は、偏差値で当てはまるところをとりあえず受験する、というケースが、残念ながら多いですよね。大学も入り口の段階で、この学部は偏差値いくら、というように広報されていますから。学生達は、ただでさえ小中高といった早い段階でシステムに組み込まれてしまっているというのに、大学に入学した後も、偏差値意識をなかなか拭えないまま、すぐまた就職活動となってしまう。だから大学としては、学生生活のなかで偏差値意識を押し返すような教育を、より強く出していく必要があると思っています。もっとはつらつとした学生生活を送ってほしいですね。

鷲田 私学のいいところは、国立と違って、国の制度に縛られず、建学の精神に基づいて自由に特徴ある教育ができるところです。建学の精神の背景になるのは、やっぱりその大学の持つ世界観、人間観だと思うんです。生きるうえで、社会を運営していくうえで一番大事な価値って何か?私学にしばしば宗教系が多いというのは、やはり宗教をバックボーンとした人間観というものをしっかり持っているからなんですよね。当然ながら大学によって本当に大事と思うものが、時に国家社会の考え方と違う場合もあるわけで、 しかしその違いのなかでもはっきりとした見識を持って、どういう教育をしたらいいか、ということに向き合っていく。だから本来私学というのはそれぞれのカラーがもっと違うはずだし、国立大学よりも圧倒的にその違いが見えないといけないはずなんです。だからそれが偏差値で一律に並ぶようになってきたというのはすごく残念です。私学はもう一度、建学の精神を一番明確に発揮できるような教育体制、あるいは教員人事をやっていって、そしてしっかりその姿を受験生や保護者に見せないといけない。たとえ規模を小さくしてでもそれをはっきりさせていくっていうことが、これからは大切なんじゃないでしょうか。教育に関しても市民が自分達で選ぶという意識を持つこと。偏差値で選ばされるのではなく、自分で選ぶということがこれからは大切だと思います。

赤松 そうですね。もちろん、今の世の中の流れに、大学として対応せざるを得ないという側面もあります。いま龍谷大学は第5次長期計画を立てていますが、社会の変化に向き合いながら、変化する部分と建学の精神のように伝統的にキープしていかなくてはいけない部分とをしっかり考えて、どこに重点を置くかというのが大切ですね。将来を見据えながらも、龍谷大学としては、基本的な「人間観」や「いのち論」といった、本質に迫ることを忘れずに、人間の多様な面を見るという姿勢をきちっと意識して発信していかなくてはならない。でないと教員も学生も流されてしまうし、誇りや自信も持てないですよね。

震災が起ころうとびくともしない教育方針を持っているのが宗教系の大学なのでは

鷲田 私の考えでは、震災が起ころうとびくともしない教育方針を持っているのが宗教系の大学だと思うんです。今起こっている問題は、実はもっと前からあるもの。ある意味それがこの震災で露出しただけです。東北の疲弊も、原発の問題も昔からあったわけです。大学は今さらそういったことに左右されるものではない。宗教とは、天地異変、飢餓、病といった人間の最悪の不幸というものを見据えたなかで、人間はどう生きるかを説いてきたもの。そういったフィロソフィーを教育の根本に持っているのだから、何があっても揺らぐものではないはずなんです。そういう揺らがないものを教えるのが、大学なのではないでしょうか。

学生が学べる『現場』をつくっていく

赤松 昨年は大学のボランティアセンターを中心に、約130名の学生が、石巻へボランティアに行きました。学生達は現場を見て、ずいぶん認識を変え、深めて帰って来たんですよね。リアルな身体性を持って物事に接すると、案外今までのマスコミによる分断された情報ではないものを認識できるんだ、ということを学生自身も気がついたようです。

鷲田 現場に立って、頭ではなく五感をつかって感じると、世の中には一筋縄にはいかない存在や出来事が存在するんだな、ということを理解せざるを得なくなりますよね。私達が学生だった頃は、街で暮らすなかでそういったことが経験できていたんです。一般のご家庭に下宿して、自分の育ってきたところとは習慣の違うところに入るなかで、遠慮したり上手に甘えたり、地域の行事を手伝わされたり。京都の街で、学生としてだけでなく住人としても、いろんなことにさらされてきたわけです。でも今はせっかく京都で、住宅街に大学があっても、みんなワンルームマンションで、物を買ったり、食べたりするのもコンビニだったりするから、地元の人と接したり、揉まれるっていうチャンスが激減しているんですよね。

赤松 そういえば、私と鷲田先生とは、ほぼ同じ時期に京都で学生をしていて、学生生活のすごし方、時代の環境などかなり似通っているんですよね。私は奈良の山奥から京都に出てきて。本願寺の東側にある家に下宿していたのですが、その家のおばさんが夕方になると三味線を弾いて長唄をやる。やっぱり京都は違うな〜と触発されて、自分でも書道の習い事を始めたりしてね。学校では、クラスの友達と、当時影響力を持っていた、朝日ジャーナルをモジって、『深草ジャーナル』という雑誌をガリ版刷りで作ったりもしていました。3回しか発行しなかったけど(笑)。


鷲田 ものすごい奇遇!私もやってたんですよ。友達三人でお金を貯めて、『位置』という同人誌を出していました。思想や文学評論、短歌など三人がそれぞれ一番得意なものを書いて。それも3号で終わったんです(笑)。2号で頑張りすぎて、3号はぺらっぺらになって終わりました。よく似てますね。
赤松 当時は立派な先生方が京都に住んでらして、訪ねていくと相手してくれたりしましたよね。講演会を企画したこともありましてね、吉本隆明さんを京都に呼ぼうと思って、わざわざ東京の千駄木のご自宅に、二度も押しかけたことがあります。

鷲田 うわー、先生、それ相当ずうずうしいですね(笑)。吉本さんていったら僕らにとっては神様ですよ。押しかけるなんて考えもしない!すごいな。
赤松 結局、講演はしてもらえなかったんですけどね。でも学生時代って、そういうことが大事なんじゃないでしょうか。自分で企画して実行するという経験が。当時は学生自身が企画力を持ってたし、自分らで自分を鍛えるっていう気概みたいなのがありましたね。

鷲田 私が大阪大学の総長をさせていただいていたとき(2007?11年)、劇作家、看護師、コンテンポラリーダンサーなど、様々な職種の人を教員として呼んできて、正規の授業とは別に、本当に生きる力を身につけるための授業をやったんです。その人達の先導で、学校のすぐ近くの商店街の人達と協力して、一緒に映画祭をしたり、ケーキ屋さんを大学に招いてケーキの作り方を教えてもらったり。ところが学内でものすごい反対がありましてね。大阪大学が相手にするのは世界ですよ、そんなちまちましたことをやるなんて、って。でも今の学生というのは、見ず知らずの人といろいろ折衝して一から事業を立ち上げて、妥協したり、議論したりしながら一つのことを全部自分達で積み上げていくというトレーニングを全然していない。でもそういう経験が、彼らにとって本当に揉まれて生きる力を養成するんですよね。大阪大学ではその授業が本当にうまくいきまして、今では名物授業になっています。
赤松 鷲田先生は著作(※)のなかで、問題に直面したときにすぐ結論を出さず、それが立体的に見えてくるまで自分のなかで見極めることを『知性に肺活量をつける』という言葉で表現されていましたが、大学は、細切れの知識ではなく、そんな連結性のあるハイブリッドな知性や豊かな人間力をつける場所でありたいと思います。
 「ともにいかされているいのちに、深く目覚める」という浄土真宗の教えは、エゴイズムを超えた、普遍的な人間のありようを問い直すもの。この教えは、自己中心的な底なしの欲望を満たすことばかりを指向しながら、そのことによって苦悩を深めている現代において、時代を超えてまた人々の指針となり、あらゆる知性の源となるはずです。この教えのなかで学びの時間を過ごした龍谷大学の学生達は、批判精神を持って真理を見極め、真実に生きようとする姿勢がきっと身についていることでしょう。学生たちにとっては、厳しい時代ではありますが、必要以上に悲観することなく、自らの進むべき航路を切り開いていって欲しいですね。

※『わかりやすいはわかりにくい?―哲学臨床講座』(ちくま新書)

『知性に肺活量をつける』大学は、細切れの知識ではなく、ハイブリッドな知性を身につける場所
鷲田清一 鷲田 清一・わしだ きよかず(大谷大学文学部教授)
1949年京都生まれ。
1972年京都大学文学部倫理学科を卒業。
関西大学、大阪大学の助教授を経て、1996年大阪大学教授。
2004年同大学副学長、2007年には総長に就任する。
2011年8月に退任し、現職。専門は臨床哲学、倫理学。
著書に『「聴く」ことの力』『「待つ」ということ』など多数。
 
赤松 徹眞 赤松 徹眞・あかまつ てっしん(龍谷大学学長)
1949年奈良生まれ。
龍谷大学大学院文学研究科修士課程修了、龍谷大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。(文学修士)1984年龍谷大学文学部講師、 1987年龍谷大学文学部助教授、1998年龍谷大学文学部教授、2005年龍谷大学教学部長、2007年龍谷大学文学部長、2011年4月学長に就任、現在に至る。専門は日本仏教史、真宗史、近代史。
 

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