鷲田 私の考えでは、震災が起ころうとびくともしない教育方針を持っているのが宗教系の大学だと思うんです。今起こっている問題は、実はもっと前からあるもの。ある意味それがこの震災で露出しただけです。東北の疲弊も、原発の問題も昔からあったわけです。大学は今さらそういったことに左右されるものではない。宗教とは、天地異変、飢餓、病といった人間の最悪の不幸というものを見据えたなかで、人間はどう生きるかを説いてきたもの。そういったフィロソフィーを教育の根本に持っているのだから、何があっても揺らぐものではないはずなんです。そういう揺らがないものを教えるのが、大学なのではないでしょうか。
学生が学べる『現場』をつくっていく
赤松 昨年は大学のボランティアセンターを中心に、約130名の学生が、石巻へボランティアに行きました。学生達は現場を見て、ずいぶん認識を変え、深めて帰って来たんですよね。リアルな身体性を持って物事に接すると、案外今までのマスコミによる分断された情報ではないものを認識できるんだ、ということを学生自身も気がついたようです。
鷲田 現場に立って、頭ではなく五感をつかって感じると、世の中には一筋縄にはいかない存在や出来事が存在するんだな、ということを理解せざるを得なくなりますよね。私達が学生だった頃は、街で暮らすなかでそういったことが経験できていたんです。一般のご家庭に下宿して、自分の育ってきたところとは習慣の違うところに入るなかで、遠慮したり上手に甘えたり、地域の行事を手伝わされたり。京都の街で、学生としてだけでなく住人としても、いろんなことにさらされてきたわけです。でも今はせっかく京都で、住宅街に大学があっても、みんなワンルームマンションで、物を買ったり、食べたりするのもコンビニだったりするから、地元の人と接したり、揉まれるっていうチャンスが激減しているんですよね。
赤松 そういえば、私と鷲田先生とは、ほぼ同じ時期に京都で学生をしていて、学生生活のすごし方、時代の環境などかなり似通っているんですよね。私は奈良の山奥から京都に出てきて。本願寺の東側にある家に下宿していたのですが、その家のおばさんが夕方になると三味線を弾いて長唄をやる。やっぱり京都は違うな〜と触発されて、自分でも書道の習い事を始めたりしてね。学校では、クラスの友達と、当時影響力を持っていた、朝日ジャーナルをモジって、『深草ジャーナル』という雑誌をガリ版刷りで作ったりもしていました。3回しか発行しなかったけど(笑)。
鷲田 ものすごい奇遇!私もやってたんですよ。友達三人でお金を貯めて、『位置』という同人誌を出していました。思想や文学評論、短歌など三人がそれぞれ一番得意なものを書いて。それも3号で終わったんです(笑)。2号で頑張りすぎて、3号はぺらっぺらになって終わりました。よく似てますね。
赤松 当時は立派な先生方が京都に住んでらして、訪ねていくと相手してくれたりしましたよね。講演会を企画したこともありましてね、吉本隆明さんを京都に呼ぼうと思って、わざわざ東京の千駄木のご自宅に、二度も押しかけたことがあります。
鷲田 うわー、先生、それ相当ずうずうしいですね(笑)。吉本さんていったら僕らにとっては神様ですよ。押しかけるなんて考えもしない!すごいな。
赤松 結局、講演はしてもらえなかったんですけどね。でも学生時代って、そういうことが大事なんじゃないでしょうか。自分で企画して実行するという経験が。当時は学生自身が企画力を持ってたし、自分らで自分を鍛えるっていう気概みたいなのがありましたね。
鷲田 私が大阪大学の総長をさせていただいていたとき(2007?11年)、劇作家、看護師、コンテンポラリーダンサーなど、様々な職種の人を教員として呼んできて、正規の授業とは別に、本当に生きる力を身につけるための授業をやったんです。その人達の先導で、学校のすぐ近くの商店街の人達と協力して、一緒に映画祭をしたり、ケーキ屋さんを大学に招いてケーキの作り方を教えてもらったり。ところが学内でものすごい反対がありましてね。大阪大学が相手にするのは世界ですよ、そんなちまちましたことをやるなんて、って。でも今の学生というのは、見ず知らずの人といろいろ折衝して一から事業を立ち上げて、妥協したり、議論したりしながら一つのことを全部自分達で積み上げていくというトレーニングを全然していない。でもそういう経験が、彼らにとって本当に揉まれて生きる力を養成するんですよね。大阪大学ではその授業が本当にうまくいきまして、今では名物授業になっています。
赤松 鷲田先生は著作(※)のなかで、問題に直面したときにすぐ結論を出さず、それが立体的に見えてくるまで自分のなかで見極めることを『知性に肺活量をつける』という言葉で表現されていましたが、大学は、細切れの知識ではなく、そんな連結性のあるハイブリッドな知性や豊かな人間力をつける場所でありたいと思います。
「ともにいかされているいのちに、深く目覚める」という浄土真宗の教えは、エゴイズムを超えた、普遍的な人間のありようを問い直すもの。この教えは、自己中心的な底なしの欲望を満たすことばかりを指向しながら、そのことによって苦悩を深めている現代において、時代を超えてまた人々の指針となり、あらゆる知性の源となるはずです。この教えのなかで学びの時間を過ごした龍谷大学の学生達は、批判精神を持って真理を見極め、真実に生きようとする姿勢がきっと身についていることでしょう。学生たちにとっては、厳しい時代ではありますが、必要以上に悲観することなく、自らの進むべき航路を切り開いていって欲しいですね。
※『わかりやすいはわかりにくい?―哲学臨床講座』(ちくま新書)
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