龍谷 2012 No.73

 
 
●児童学の向上に生涯を懸ける

 中川正文は奈良県の寺の長男として生まれた。喜んだ両親は誕生の記念にオルガンを購入し、地域の子どもを集めて「子ども会」を開いたという。母親はオルガン演奏で童謡を歌い、父親はインドの昔話などを語る。そんな環境からか、中川の文学や芸術への興味は人一倍強く、幼い頃から読書し、小説や絵画、演劇、作曲など様々な創作活動に熱中。18歳にして自らの文学作品で原稿料を得るほどだった。
 龍谷大学在学中に戦地に赴き、船で広島に帰還したのは原爆投下わずか3時間後。おびただしい死体が海に浮いている光景を目の当たりにした。
 生涯を児童文学の創作と児童文化の普及に努めることになったのは、花岡大学氏ら児童文学を志す龍谷大学の諸先輩に啓発されたことに加え、戦争の生々しい体験も、後の生き方を考える上で、大いに影響していることだろう。

 大学を卒業すると、京都女子大学児童文化学の講師になった。日本で初めて児童文化学の講義をおこなったのは中川だった。当時はまだ市民権を得ていない児童文化学・児童学向上への挑戦の始まりと言えるだろう。
 「児童文化学とは子どものためにやる学問ではない。子どもとともにやっていく学問である」。それを具現化するために、影絵劇団「京都女子大子どもの劇場」を主宰し、人形劇や影絵劇などの実践の場とした。その一方で、100冊を超える著書を残す。
 中川の生涯のテーマは「子ども達の心に一つの種をまく」というもの。「種」とは考える力であり、感動する心、そして相手を思いやる心である。それがいつ花咲くかわからないけれど、いずれそれが生きる力「心の糧」になってほしい、と願った。
 
●経験を共有し、親子で成長

 中川の作品は多数あるが、それらに共通するのは優しさとユーモア、生きていくうえでぶちあたるほろ苦さを絶妙な加減で調合した作風である。1969年に著した『ごろはちだいみょうじん』は奈良県・大和の村を舞台に、いたずら者のタヌキと村人達の関わりをユーモラスに語った創作絵本。大和言葉を用い、方言など絵本における言葉遣いに大きな影響を与えた。
 大阪府立国際児童文学館館長時代、中川は母親や幼稚園の教員などから寄せられる「子どもにはどんな絵本を与えたらいいのでしょうか」という質問に、しばしば苦い思いをする。その切実さは理解できるが、簡単に推薦リストを手渡す気にはなれなかった。なぜなら、「与える」などとは、犬や猫に餌をやるときにこそ使うもので、人間関係をあらわすときには、ふさわしくないと思っているからだ。
 絵本については「大人が子どもに『与える』という、高みに立った考え方はいけない。本を仲立ちに、共感し、感動し、楽しみながらともに成長することが大切。そういう認識から本を選んでほしい」と説いた。
 さらに中川は常々、「子どもの本は消耗品として捨てられることが多い」と指摘したうえで、「公的な機関が網羅的に収集しなければならない」とその意義を主張した。そのため、大阪府の橋下知事(当時)が大阪府立国際児童文学館を閉館させ蔵書を大阪府立中央図書館に移した際には、児童文学に理解のない一部の人間が貴重な財産を不当に扱うと、批判的な立場をとった。
 
●学問は子どもとともに進化する

 「京都女子大子どもの劇場」は1957年、俗悪化していく子ども達の文化的環境を憂慮し、当時の増山顕珠学長の悲願により中川らを中心に組織された劇団で、わが国では珍しい影絵の専門劇団として、その足跡は全国各地にまでおよんだ。
 中川のオリジナル作品や日本・世界の童話などを上演し、それらの作品のなかで新しい手法を工夫し続けたことが、この劇団の大きな特徴であった。例えば上方の錦影絵や、のぞきからくり、立絵などの復元。さらには上演技術の演劇的改善をおこなったため、スクリーンは横16b×縦6bと超大型化していく。これは総勢50人以上を必要とする世界最大規模の影絵の舞台で、国際人形劇連盟(ウニマ:UNIMA)から高い評価を受けた。
  これらの公演の際、中川は台本の制作だけでなく、演出から音の編集、セットの製作までをおこない、当日には司会進行役もこなした。また舞台公演でも、いろいろな新手法を開発し注目された。影絵のほかに、シルエットや不可視光線を取り入れ、人間が人形に代わって演技をするヒューマンシャドーと呼ばれる手法を用い、京都新聞文化賞やサントリー地域文化賞優秀賞を受賞した。その一方、地蔵盆、小学校、幼稚園、保育所、子ども会などを回り、小規模な上演も熱心におこなっている。
 

 学問を追究する学者が、なぜここまでやるのか。中川は語る。「児童学というのは机上だけでやるものではない。子どもを目の前にして、子ども達とともに学問は進化していくもの」
 病の床でも「やるべき仕事がまだある」と語っていた中川。人生の最終章まで児童文学とともに歩んだ人生であった。

そばにいられて幸せ
京都児童文化研究所
そうみや くにこ
宗宮 圀子 さん
 
 中川先生との出会いは、京都女子大学の授業でした。そして「子どもの劇場」へのお誘いを受け、参加させていただきました。「子どもの劇場」での先生の才能には目を見張るものがありました。あまりに複雑な構成を台本の段階で考えられるので、頭の構造がどうなっているのかと思うほどでした。
  中川プログラムというのがあって、「心と体の訓練」と「演技の訓練」に時間を費やしました。人形を持ったとき、その人物になりきれる心と体を養うためのものです。先生のタンブリンにあわせてサルになったり、お姫様になったり子どもになったり。
  レッスンは厳しく辛いことが多かったのですが、ふと気がつくとやさしく見守ってくださっている。人を引きつける不思議な魅力を持つ、何事に対しても原点が揺らぐことがない先生でした。
 子どもたちのくらしに うつくしい夢を そのこころに みかんいろの明るい灯を その未来に 正義を愛する知恵と勇気を
 影絵の公演のときは、必ずこの言葉から始まりました。これが子ども達を思う心であり、私達の結束力になりました。
 本が好きで、先生のご自宅は本であふれていました。仏教書に関しても多数読まれており、折に触れ、私達に浄土真宗について語ってくださいました。
 あんなに、多才な人物は、先生のほかにはいらっしゃらないでしょう。だからこそ、私たちは先生から学んだ多くのことを、後世につたえていかなければなりません。
 中川先生には今も、畏敬の念でいっぱいです。そばで学べたことが幸せでした。
 
●龍谷人偉人伝 中川 正文・なかがわ まさふみ
(1921年1月11日­2011年10月13日)
龍谷大学文学部国文学科卒業
京都女子大学教授、日本児童文学学会会長、日本保育学会理事、大阪府立国際児童文学館館長、財団法人大阪国際児童文学館理事長などを歴任、京都女子大学名誉教授。また、伊藤整、遠藤周作とともに第1回アジア・アフリカ作家会議日本代表を務めた。
『ごろはちだいみょうじん』『ねずみのおいしゃさま』をはじめ多数の著書を著し、児童文化功労賞、京都府文化功労賞、龍谷賞などを受賞。
 

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