特別講演会「一向宗と信玄と信長」

キャスター 松平 定知
1944年東京生まれ。
早稲田大学卒業後、NHK入局。
「その時歴史が動いた」など幅広く担当し、2007年NHK退職。
2008年第7回放送人グランプリ特別賞受賞。
3010年第36回放送文化基金賞受賞。

松平でございます。本日は龍谷大学親和会創立50年、おめでとうございます。そんな記念すべき日にお招きをいただきました。この、文字通り有り難い御縁を大切にして、これから4時半まで一時間半、誠心誠意、お話をさせていただこうと思っております。

さて、来年、平成24年は法然上人がお亡くなりになって800年、親鸞聖人がお亡くなりになって750年という節目の年でございます。法然様80歳、親鸞様90歳。お二方とも大変長寿でいらっしゃいます。いきなり余談で恐縮ですが、かつて、私の番組「その時歴史が動いた」に堺屋太一さんをゲストにお迎えしたとき、本番前の控え室で雑談中に堺屋さんがこんなことを突然おっしゃったことがありました。「松平さん、昔の人の享年を現代に換算するとどれくらいになるか、それを導き出す公式が分かりましてね」。それは当然、当時の食糧事情や衛生状態や医療技術、その他様々なことを勘案して導き出された数式なのでしょうが、私は無知蒙昧ですから、その算出根拠など細かいことは聞いてもさっぱりわかりません。でも、その数式だけはそのとき、きっちり覚えました。それは、「享年×1.2+2」というものでした。で、この数式を利用しますと、例えば、天下統一を目前にして49で本能寺に散った信長は今の年に換算すれば60.8歳。家康の享年は75ですから92歳となります。そのデンでいくと享年80の法然様は98歳、90の親鸞様は、なんと110歳。お二人とも、稀にみる大長寿ということになります。

さて、両上人様がご健在だった12世紀中盤から後半にかけて、日本ではそれまで長く続いた貴族の社会が制度疲労をおこし、終焉の時を迎えつつありました。当人に何の能力も知力もないのに、ただ、お爺さんやお父さんが偉かったから、とか、その一族に連なっているからという理由だけで、日本のリーダーの顔をしてきた人達の化けの皮がようやく剥がれ始めてきたのです。本人に何の能力もない場合、その当然の帰結として、モノを解決するには一族が持っている「金の力」で、ということになります。しかし、この時期になってようやく、それはオカシイのではないかと考える人たちが多く出てくるようになりました。もともとそのお金は俺たちが産み出したものではなかったんかい、というわけです。例えば、この頃、都のごく一部を除いて多くの場所は未開の荒野でした。そこに住む人々はそうした未開地を切り開いて、自分の力で少しずつ、農地を創って行きました。ところが、貴族社会の古くからの取り決めで、当時は農地を始めとする土地全般は朝廷や貴族が支配するものと決まっていました。それはそういうものなのだ、と疑うことすらしなかった彼らも、だんだんに、自分が汗水流した分のせめて何分の一でも自分の裁量に任せてもらいたいものだという考えが起きてまいります。だって、貴族の連中は自分では一滴の汗も流さずにその「あがり」だけとって、のうのうと優雅にやってるだけなのですから。自分たちの努力で農地を切り開いていった彼らは、その土地の権利を少しでも認めてもらおうと、これまで通り、朝廷や時の権力者に服従し、年貢や労働力を提供する日々を送っていましたが、それと平行して、もし、他からの理不尽な簒奪があったときに備えて、彼らは一族郎党で結束して、武装して、それを防ごうとしたのです。皆さんは「一生懸命」と並んで「一所懸命」という言葉をお聞きになったことが、おありでしょう。あれは、「一つの所に命を懸ける」――自分が耕した土地への執着を示す彼らの心情を表した言葉です。そういう彼らが、のちに「武士階級」に組みこまれていくのですが、「武士」とは「武装した者」「士」の意味です。では、そのサムライの語源は何かといえば、それは「自分たちが開発した土地を、貴族に服従して貴族の安全を守り、貴族の覚えをめでたくすることによって、その土地の権利を少しでも有利にさせようとした彼ら」、あるいは、「能力のかけらもない貴族たちの多くが万一の不測の事態に備えて、自衛のために金で自分の護衛役として雇った彼ら」、つまり、貴族のすぐそばにいる人、貴族の近くに侍って居る人、さぶろうている人、さぶろふ人、それがやがて「サブラヒ」になり「サムライ」になったと考えられます。その代表が「平氏」であり「源氏」です。では、いつ頃から、この「武士」は日本の歴史に登場したのかといえば、それは、保元の乱あたりからといわれています。保元の乱は1156年のこと。慈円というお坊さんは、自著「愚管抄」のなかで「鳥羽院失せ給ひしのち、ムサの世となりにけり」と書いておられます。「ムサ」は「ムシャ、武者」のことです。この戦いに勝利した平清盛はやがて、後白川法皇の後ろ盾を得て、頂点に上り詰め、「平家にあらずんば人にあらず」という大権勢をほしいままにしますが、詳しくは、来年(2012)のNHK大河ドラマを御覧ください(笑)。雀百まで踊り忘れず、私は百までNHKを忘れず(笑)。ことあるごとに、こうしてPRに努めております(笑)。でもまあ、清盛政権は、後白河法皇を幽閉して、それまでの「いわゆる貴族」を排除した、自前の平氏の政権を作ったのですけれども、清盛御落胤説などもコレアリ、その実態は貴族政治とあまり変わることはありませんでした。そうなると真正の、「武士政権の誕生」は、慈円さんには申し訳ないのですが、源氏がこの平家一門を壇ノ浦で倒し、守護地頭の制度を確立し、それまでの「都は京都」という「常識」を捨て、鎌倉に幕府を開いたとき、その時だったと考えるのが妥当、と指摘するムキも多いのです。さて、混迷の世には金がモノを言う――これは当時の宗教界もそうでした。高いお金を出して、仏像を買ったり、書画を買ったり、高額の寄進をしたり…そういう人が救われる、という思想です。そうなると、「自分の宗派」にお金がいっぱい入ってくるからです。でも、それじゃあ、お金持ちじゃなければ救われないじゃないか、と問題を提起なさったのが法然様でありまして、救われるのは所持している金の多寡ではない、高いものを買わなくても高額の寄進をしなくても、貧乏な人でも救われなければ、それはまっとうの仏の道ではない、とお考えになった。誰でも出来るものは何か。それは念仏だ。念仏さえ唱えれば金持ちも貧乏な人も、みんな救われるという教えでした。これは、法然様がまだ子ども時代、ご両親が混乱に巻き込まれて無法者に殺されるという災厄にあって、その後、ご自身も大変なご苦労をなさった、その体験がこの思想の下敷きにあったのでございましょう。法然様は浄土宗を開創。その著書「選択本願念仏集」のコピーは、後日、法然様の信頼篤い弟子の親鸞様に手渡されます。親鸞様は本当に真面目な、研究熱心な方で、法然様の教えをよく守り専修念仏に帰入し、手元の本には細かく丁寧にご自分で朱を入れられたり、注釈をつけられたりと、日夜研鑽を積まれました。何も特別な人が救われるのではない、普通の人が普通に生活して、それでもなお救われる、これが本当の仏の道なのだとお考えになった親鸞様は妻を持たれ、普通の生活をなさりながら修行をお続けになりました。その間、絶対他力、悪人正機の思想を深め、その著書「教行信証」を完成なさいました。言うまでもなく、浄土真宗の開祖であります。一向宗はこの浄土真宗の別称ですが、広義には一心にひたむきに阿弥陀仏に帰依すること旨とする浄土教系の宗派のことを言います。さて、この一向宗はその後、周囲からさまざまな弾圧を受けますが第8世蓮如のとき、見事に蘇ります。蓮如は越前・吉崎に御坊を建て、この一帯は門前町で大いに賑わいました。あの時代に10万人規模の人たちが行き来したと言われています。蓮如はその後、京都山科に本願寺を再興し教団隆盛の基礎を築いたのでしたが、しかしそうなると、天下を狙う戦国武将たちにとって、一向宗並びに一向宗の門徒達は厄介な存在となります。なかでも、織田信長には彼らははっきりと敵と映りました。反信長包囲網の中心人物・武田信玄の正室の妹・如春尼が本願寺第11世・顕如の奥方であったことも無関係ではなかったでしょう。しかし、武田信玄は信長と直接対決する前に亡くなってしまいました。この強運に勢いづいた信長は一気に一向宗潰しにかかります。顕如は、たまらず石山本願寺を捨てて紀伊の国に撤退するのです。顕如には息子たちがいましたが、顕如の死後、すぐその跡を継いだのが長兄教如でした。しかし、秀吉の命ですぐ一年足らずで、弟の准如が兄・教如のあとの13世を名乗ることになります。何があったかはわかりません。秀吉のことですから、何を考えていたかわかったものではありません。ただ、巷間言われていることは、教如はどちらかと言えば武闘派、准如は穏健派、二人のお母さんの如春尼は結局准如についた、ということです。そして、その秀吉が死んで4年後、関ヶ原で石田三成に勝った家康から教如は京都烏丸に寺地を得て東本願寺を興します。1602年のことでした。これに対して、准如は西本願寺を興します。ここに本願寺は二つに別れ、教如派はお東さん、准如派はお西さんと呼ばれることになります。本願寺内部の分裂は当然門徒たちの教育機関にも影響を及ぼします。お東さんは大谷大学、お西さんは龍谷大学と分かれました。これが、戦国武将、とりわけ信長と一向宗の関係、一向宗の盛衰とこんにちに至るまでの大雑把な経緯でございます。今まで私が申してきたことは、今日お集まりの皆さん方にとっては、ご承知のことばかりで、何もここで私が知ったか顔で偉そうに話すまでもないことではございましたが、今年、日本は地震、津波に原発事故、という大厄災に見舞われました。なかでも原発事故は、人間は万能、自然さえ制御することが出来るんだなどという傲慢な考えを持つ人達が引き起こした人災でした。「杞憂だと笑い、想定外と言う」――これは原発事故の数日後に新聞に載った読者の川柳ですが、今こそ人間は謙虚に生きなければいけないのだということを、この不幸な「人災」は私たちに教えてくれました。そんな時期に今日こうした機会を与えてくださったのはありがたいことでございました。終わりにあたって改めて心から感謝申し上げる次第です。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

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