龍谷大学
top page general information general information サイトマップ

search 
龍谷大学の概要 入学案内 就職情報 教育活動(学部・大学院) 研究活動 社会連携 生涯学習 国際交流 各種組織・部署
TOP > 龍谷大学アフガニスタン新発見学術調査研究プロジェクト記者会見 > 第3次調査

龍谷大学アフガニスタン新発見学術調査研究プロジェクト記者会見

2008年9月22日

仏教どこまで西に
―2007年の調査報告と2008年の調査内容―
入澤 崇

龍谷大学アフガニスタン学術研究プロジェクト

第3次調査

調査期間: 2007年9月26日―10月19日
調査隊メンバー: 入澤 崇(龍谷大学教授:プロジェクト代表)
山田明爾(龍谷大学名誉教授)
稲葉 穣(京都大学人文科学研究所准教授)
調査目的: (1) トルクメニスタンのムルガーブ流域の石窟調査
(2) タジキスタン・ウズベキスタンの遺跡調査
調査地: タジキスタン: ペンジケント、アジナ・テペ、カライ・カフィルニガン
ウズベキスタン: ダルヴェルジン・テペ、ズルマラ、ファヤズ・テペ、カンピール・テペ
トルクメニスタン: エケデシク、ベシデシク、アク・テペ、メルヴ、ゴヌール、ダンダ・ナカ

*本会見では、トルクメニスタン・ムルガーブ川中流域の石窟調査について報告いたします。

ムルガーブ川流域へ

2007年夏

2007年になってアフガン情勢が緊迫してきた。UN車が襲われるということもあり、調査が果たして遂行できるか微妙になっていた夏、ガズニーで韓国人拉致事件が起き、国連の勧告もありアフガン調査を断念せざるを得なくなった。そこで、この調査の最終目標であったムルガーブ川流域の調査をトルクメニスタンで行なうこととした。

ムルガーブ川

この川はアフガニスタン中央山岳地帯を源流としてアフガニスタン西部を流れている川で、アフガニスタンとトルクメニスタンとの国境をまたぎ、トルクメニスタン南部から北北西に向きを変え、最後はカラクム砂漠に流れ込む。

メルヴ

このムルガーブ川下流域に位置するのが壮大な都市遺跡メルヴで、仏教寺院の分布でみるならば、いまのところこのメルヴが仏教の伝わった西の端とみなされている。1960年代にメルヴのギャウル・カラ都城址の発掘調査が行なわれて、都城の東南隅にストゥーパを伴った仏教寺院址が確認された。ストゥーパからは、ガンダーラ様式の仏像のみならず、4つの場面(宴会、狩猟、臨終、葬式)を示す独特な彩画の描かれた壷が出土し、その中には白樺樹皮に書かれたサンスクリット語写本が入っていた。出土貨幣から推して、だいたい4世紀から6世紀の仏教寺院とみなされている。

石窟を探す

実はムルガーブ川流域にはギャウル・カラ寺院址以外にも仏教遺跡らしき石窟がある。19世紀に発見されながら今日まで知られることのなかったエケデシク石窟。この石窟は果たして現存しているのか。2007年8月末、エケデシク石窟が現存している情報を得た。

アフガニスタン国境委員会

アフガニスタン及びいまのトルクメニスタン南部の遺跡を探るためには、19世紀のアフガニスタン国境委員会の調査記録が出発点となる。1880年に第二次アングロ・アフガン戦争が終了し、英国の保護領になったアフガニスタンとロシアとの国境を画定するために、「アフガニスタン国境委員会」(Afghan Boundary Commission)が組織された。そのとき国境を画定するためにアフガニスタンに派遣された英国軍人が地理学上の調査を行ない次々と遺跡を発見した。アフガニスタンの仏教石窟が明るみに出たのはこの時期である。

バーミヤーン大仏

19世紀に西欧社会ですでに注目が集まっていたバーミヤーンの巨大な彫像を大仏と認定したのもタルボット(M. G. Talbot)大尉やマイトランド(P. J. Maitlamd)大尉といったアフガニスタン国境委員会のメンバーたちであった。彼らは翻訳を通じて西洋社会に紹介された玄奘の『大唐西域記』を根拠として巨大な彫像を大仏とし、バーミヤーン石窟を仏教石窟とみなすことができたのである。1922年にフーシェ(Alfred Foucher)を初代団長として成立したDAFA(Délégation Archaéologique Française en Afghanistan アフガニスタンへのフランス考古学派遣団)の遺跡調査も、アフガニスタン国境委員会による地理学上の成果に多くを負っている。

レソー大尉のムルガーブ川流域調査

アフガニスタン西部ムルガーブ川流域については、レソー(F. de Laessoë)大尉が1885年に調査を行ない、複数の石窟を確認した。なかでも注目すべきは、現在トルクメニスタン領になっているエケデシクYeki Dešik石窟である。レソー大尉が作成した石窟の平面図でみると、この石窟は入口を入ると45mもの通路があって、その通路の両側に複数の部屋があるという非常に特異な構造を示している。

忘れられた石窟

ムルガーブ川流域の特色あるこの石窟はその後研究者の関心をひくこともなく、ほとんど忘れ去られてしまった。わが国ではわずかに京都大学のハイバク石窟の調査報告書の中でエケデシク石窟がふれられているが、国境委員会の報告を紹介しているに過ぎない。レソー大尉の調査以降、ここ120年の間で再度このエケデシク石窟を学術調査の対象とした研究は残念ながら見あたらない。

エケデシク石窟

  • 2007年10月初旬、メルヴ遺跡にほど近い都市マリーから、ムルガーブ川に沿ってアフガン国境の町タフティ・バザールTakht-e Bazārを目指した(距離約210km、車で約3時間半)。タフティ・バザール周辺はかつてPenjdehと呼ばれ、1887年にロシア軍とトルクメン人との間で激しい戦闘が繰り広げられた場所で、レソー大尉の調査は戦闘が起きる前の不穏な空気の中で遂行されたものである。われわれはタフティ・バザールで軍隊と警察の厳しいチェックを受け、地元民の協力を得て遺跡に向かった。遺跡は見事に残っていた。
  • 窟は入口に立って向かって右側の列に8窟、左側の列に7窟が並ぶ。ただし左側一番手前の窟はレソー大尉の調査の時とは大きく異なり、損傷が激しい。窟の奥にさらに別の窟を造っている事例が5窟あり、さらに窟と窟を細い通路で結ぶケースも見られる。窟の隅に丸い穴を掘っている例が目につくが貯水槽として使ったものか。
  • 尊像や壁画はレソー大尉の調査の時点で失われていた。おびただしい落書き(ロシア軍によるものか?)があるものの、現地の人たちによってこの遺跡を村おこしに使おうとする機運が高まってきており、保存の手立てを講じようとしているところへわれわれ調査チームの訪問となった。石窟の中央に通路が走り、その両サイドに窟が並ぶという構造はインド・アフガニスタンの石窟には見られず、極めて特異である。
  • 遺跡の場所が国境近くであるために制約が厳しく短時間の調査となったが、特異な石窟でありながらもアフガニスタン中央部の仏教石窟と類似する点を確認することができた。
  • まず、ほとんどの窟に見られる龕の形状。奥壁の下の部分で基台をつくり、上部を半円形にくりぬいて窪みをつくっている。これは、バーミヤーンの石窟によくみられるもので(例えば421窟)、アフガニスタン中央部の石窟にみられる仏龕の特徴といえるものである。2006年の調査で確認したバンデ・アミール川流域のクシャ・ゴラ石窟やムシュタック石窟の龕も同じ形状をしている。ムシュタック石窟のように、基台を二重にして仏龕の中にさらに仏龕を作るといった複式の仏龕構造もアフガニスタン中央部の特徴である。バンデ・アミール川流域チル・ボルジ城砦址の下にある石窟では、龕の中にさらに小さな龕を作っているさまがみてとれた。
  • ただしエケデシク石窟の場合、龕の形状は一様ではない。アフガニスタン中央部の石窟の龕とは様相の異なる龕も存在する。それは窪みが半円形ではなく、やや縦長の形状をしている。中央部に通路を有する構造といい、バンデ・アミール川流域の仏教石窟とは少し異なるたたずまいをみせているのも事実である。それが何を意味するかはもちろんまだわからない。
  • さらに、エケデシク石窟の特徴としては、窟の奥壁に人ひとり通れるほどの入口を作り、さらに奥に窟を作るといったことが行われている。これはバーミヤーン地区のフォラディー石窟第1窟にみられるように、古くなった仏龕を廃棄して、そこをくりぬき、さらに奥に窟を作り新たな仏龕をしつらえるといった発想に通じる。
  • エケデシク石窟のなかには階段を設けて2階を作っているケースもみられる。窟が階段で結ばれるというのもバーミヤーン石窟にみられる特徴で、いまはもう見ることのできない西大仏と東大仏もそれぞれ両側に階段を付設してあり、階ごとに横の窟に通じている。2005年にバンデ・アミール川流域で確認したサレ・スム石窟は4階建てで、階段及び通路で各窟が結ばれるという構造をはっきり示していた。
  • このように石窟の龕の形状や窟と窟を結ぶあり方などにアフガニスタン中央部の仏教石窟との類似点が見出せるところから、エケデシク石窟はほぼ仏教石窟とみて間違いあるまい。1885年にこの石窟を調査したレソー大尉から手紙で石窟のあらましを知ったシンプソン(W. Simpson)もこの石窟が仏教石窟であるとみなし、学術雑誌(JRAS)に掲載されたシンプソンの見解がアフガニスタン国境委員会のエケデシク石窟に関する知見となっている。ただし、19世紀にシンプソンがこの石窟を仏教のものとみなしたのはジャララーバード付近で発見されつつあった仏教石窟群に触発されてのことであり、詳しい根拠をあげて説明しているわけではない。

エケデシク石窟の特異性

  • エケデシクの最大の特徴である石窟構造に注目したい。エケデシク石窟に見られる、入口を入ると通路がのびており通路の両側に窟を配するという形式はいまのところアフガニスタンの他の石窟には見当たらない。しかし、遠く離れた中国・新疆ウイグル自治区クチャのスバシに類例がある。
  • その石窟はペリオ(Paul Pelliot)が報告しているもので、いわゆるスバシ故城といわれる遺跡の北側に位置する。エケデシク石窟ほど規模は大きくないが、写真でみてわかる通り、中央を通路が走り両サイドに龕室が存在する形式である(Mission Paul Pelliot, III, Douldour-Aqour et Soubachi, Planches, 1967, Pl.LXVI,132)。ただし、ペリオは詳しい報告は行なっておらず、現在この石窟が果たして存在しているかどうかも不明である。ここでは、わずかながらクチャに類例があるという点のみを指摘しておく。

ベシデシク石窟

エケデシク石窟以外にもアフガン国境近くには他にも石窟が残っていた。ベシデシクBeš Dešikと呼ばれる石窟で、西側の山を越えればそこはもうアフガニスタンというところ(アフガン国境2kmの地点)を流れるムルガーブ川右岸に存在していた。山の中腹、目測で約30m位のところに5群の窟が確認できた。石窟の前の部分は崩れており、原形をとどめていない。昨年は川を渡ることができず、対岸から望むだけであったが、本年は川を越えて調査を行なう予定にしている。レソー大尉の報告によれば、ガレビルと呼ばれる石窟も近くにあるという。

(参考)バラ・ムルガーブ石窟(アフガン領)
ムルガーブ川中流域のアフガン領の方にはさらにバラ・ムルガーブ石窟があるとレソー大尉は報告している。この石窟は二つの石窟が通路で繋がれるという構造をもっているとのことだが、複数の窟を通路で結ぶという構造は上で指摘した通り、アフガン中央部の石窟にみられる特徴である。残念ながら、情勢悪化によりアフガニスタンの遺跡調査は当分見通しがたちそうにない。

さらなる展開

  • 仏教遺跡を探求する立場からみて、19世紀のアフガニスタン国境委員会の活動は極めて貴重である。現在のアフガニスタン問題の元凶をつくった覇権国家の国境画定という試みが、皮肉なことにわれわれに新たな情報をもたらしてくれる。なんとも複雑な思いである。
  • 現在、トルクメニスタンではムルガーブ川が新たな光をあびている。いまのメルヴが建設される以前のムルガーブ下流デルタがメルヴの西方で明らかとなり、前3千年紀の文明の跡が明るみに出されたのである。沙漠地帯にみられる川の方向変化はムルガーブ川にもみられる。発見されたゴヌール遺跡からは印章や地母神像などインダス文明やメソポタミア文明に共通する文物が出土している。ゾロアスター教の原型とおぼしき火の宗教施設も姿を現した。メソポタミアとインダスの中間にある、世界第5の文明として注目されつつある。マリーの博物館で知りえたことだが、ムルガーブ下流域から出土した先史時代の文物と同じものが、エキデシク石窟に近いタフティ・バザールからも出土している。遺跡分布からみてムルガーブ流域は古来より南北を結ぶ主要な道であったことがわかる。
  • そえゆえ、メルヴとエケデシク石窟を結ぶ線上にも注意を向ける必要がある。いまトルクメニスタンのムルガーブ川流域はいくつものテペ(丘陵)が横たわる。その中のひとつアク・テペはレソー大尉も注目したようだが、ここもまた詳しい調査は行なわれていない。ムルガーブ川流域の考古についていえば、下流域のメルヴと中流域のタフティ・バザール周辺しか調査が及んでいないのである。
  • 現段階では、トルクメニスタン南部の石窟の年代を特定できるものは何もない。それゆえ、メルヴのギャウル・カラ寺院址とエケデシク石窟の関係を論ずるのは時期尚早である。いまはムルガーブ川流域にメルブ以外にも仏教が及んでいたという事実に注目したい。これまで仏教西限の地=メルヴとしていた眼差しをさらに西方へ向ける必要がある。何故なら、ムルガーブ川流域の支流沿いを通じて仏教がさらに西に行き渡っていた可能性が考えられるからである。

イランへ

  • イランのニシャープール(マシャドの西)博物館には明らかに仏像であるとわかる文物が所蔵されている(高さ約8cm)。このような小型の仏像はメルヴのギャウル・カラ寺院址からも出土している。ニシャープール周辺の徹底調査が望まれる。
  • アフガニスタン中央部の険阻な山岳地帯でも交易路を伝って仏教は西へと伝播した。海上交易路であればなおさら伝播しやすかったであろう。実は、ペルシア湾沿岸イランのブシェール(ブーシェヒル)近郊に石窟が確認されて、アフガン考古学の専門家ボール(Warwic Ball)は仏教石窟であると報告している。インダス河口から海上ルートでこの地に仏教が伝わったとみているようだ。ボールの指摘した遺跡も含め、イランに仏教の痕跡がみられるかどうか、今後詳しい検証が必要である。

そこで、第4次調査を行なうこととする。



→ TOP→ 第3次調査→ 第4次調査→ これまでの経緯


個人情報保護について アクセス・キャンパスマップ 採用情報 このサイトについて 更新履歴 お問い合わせ先
龍谷大学(本部)〒612-8577 京都市伏見区深草塚本町 67
TEL 075-642-1111 FAX 075-642-8867
E-mail:
webmaster@ad.ryukoku.ac.jp
Copyright(C) 1996- Ryukoku University All Rights Reserved