広報「龍谷」50号 23年前の創刊時を振り返る谷エクステンデョンセンター(REC)設立、10周年さらにREC京都も始動
 創刊以来50号を迎えた広報誌「龍谷」。今や発行部数12万部をこえ、年3回、龍谷ファミリーである学生、校友会(卒業生)、親和会(保護者会)はもとより、全国の大学や高校、企業、マスコミなどに配布・郵送されている。
 そもそも、大学広報誌の発刊は、当時の二葉憲香学長の号令ではじまった。長びいた学園紛争も終焉を迎え、文社系総合大学として再スタートをせまられていた78(昭53)年春のこと。第1回編集会議は、元進駐軍司令塔(棟)だった旧1号館図書館2階の部屋で開催された。集まったのは、“広報7人衆”と呼ばれる面々。開催にあたっては大掃除を要した。そこは“物置部屋”だったのである。
 今日の広報誌の“下積み時代”を支えたメンバーが往時を振り返る。
池本 委員は、ヤル気がある人ということで選ばせていただきました。内容については、大学執行部の意見を中心にしたオピニオン誌にするか、もっと幅広い情報誌にするかの議論をしました。結局は、はっきりしないままに出発し、試行錯誤しながら進めました。

寺本 表紙を何にするかも、意見がわかれました。本学独自のものということで、大谷探検隊将来品のシリーズでいこうとなった。その後にやってくるシルクロードブームのさきがけでした。

西山 将来品を使うことについて、大事に所蔵している図書館サイドから猛反対を受けた。印刷物として、いろんな人の手に渡った時点で、足で踏みつけられたりするのが許せないと。ただ、創刊号の伏羲・・アスターナ古墳出土)については、企業向けの冊子にすでに用いられたりしていたので、許可されましたが、その後は苦労しました。大学執行部からも掲載許可の依頼をしてもらったり…。
 また、現在の広報誌の裏表紙にISSNからはじまる国会図書館の番号がついていますが、これは創刊号から、当時の事務局が国会図書館に納め、3号目で認知されて承認番号をもらったものです。創刊号からずっと国会図書館で保存されているのです。
  
島田 裏表紙のの文字は、親鸞聖人の字だという人もいますが、実は私が書いたものです。私がたまたま書道部の蟠龍会OBだったから、“お前書け”と(笑)。あのロゴはその後、大学の記念品の灰皿やキーホルダーにも用いられたこともありました。

戸上 創立340年を迎えるため、深草学舎に礼拝堂を建設しようという計画があり、その協力支援を募る趣意書を、私が筆と墨で書きました。それが創刊号には縮小されて掲載されています。何度も間違い、そのつど書き直したもので、当初はなぜ私が? という思いでしたが、今では光栄なことだと思っています。

寺本 今日のようにプロの編集者がいるわけでなく、すべてが素人集団の手作りでした。企画から執筆、執筆の依頼、そして写真撮影は西山さんが担当し、編集、校正とすべて皆でやった。それぞれ本来の仕事がある中、夜遅くまで作業をしました。

島田 とにかくよく議論して、よく飲みました。勤務終了後に皆が集まってきて、夜遅くまで作業をして、終わったらどこかの飲み屋で反省会(笑)

寺本 その飲み代は、どこから出たのだろう? 広報予算からは、ビタ一文出なかったから。結局、池本先生にお世話になったということです。池本先生の家が傾いたのではないかとも思った(笑)
  
 単に大宮学舎の文学部事務室の一職員にすぎなかった私は、広報誌制作の一員に加えてもらうことで、視野が大きく広がりました。大学全体を巨視的にみることができるようになったのは、大きなプラスでした。

由本 私は龍大OBではないので、この委員会に入って、愛校心というものを寺本さんや西山さんに圧倒されながら勉強させてもらった。また、私立大学とは何か、そして、私立大学のありようというものを学ばせてもらった。
 また、それまでは職員のかたとあまり接触がなかったが、おかげで多くの友人を得ました。ずっとのちに瀬田学舎に行ったとき、ズボンのベルトを忘れたことに気付いて、たまたまそこにおられた職員の 松さんにお願いしたら、龍大のマークが入ったベルトを1本下さった。今日、そのベルトをつけてきました(笑)
   
寺本 春から取り組んで、9月下旬に創刊号が完成しました。いくら遅くなっても届けてほしいと、夜の10時頃まで待っていました。手にしたときは、何ともいえない気持でした。池本先生はその夜、創刊号を抱いて床につかれたと、当時の意気込みを象徴するエピソードとして、今も語り継がれています。

戸上 とにかく在学生の数だけは印刷してもらいました。学生が出入りする事務室の窓口に置いてもらい、授業のときに教員から学生に配ってもらいました。

島田 朝、校門に立って、皆でやってくる学生に配ったこともありました。

寺本 電車に乗ったら必ず2、3冊座席や棚に置き忘れたり、行きつけの飲み屋で、お客さんやママさんに配ったり(笑)、手作り、手渡しでした。
 学長はじめ執行部全員が集まって、師団街道をすこし下った寿司屋さんで、私たちスタッフを慰労して下さった。そんなこと、今日では、考えられないことです。ゲテモノ好きの某先生の趣味で、ネタの長さが50cmもあるようなにぎり寿司をごちそうになりました。
  
戸上 年2回の広報誌を出す一方で、学生向けの学内版を、ひんぱんに出しました。これは会社でいえば、社内報的な一定の役割を果たしたと思う。とくに寮の廃止に際して、学生に学内版を出して訴えました。

池本 教育寮として出発した学生寮が、一部の学生のアジト化していました。寮にかなりの資金を投入していたので、廃止して一般学生に対してその資金を使いたいという学内版の内容でした。

寺本 たった2日間で、学内版を印刷せよという執行部の要求。どの印刷所も、とても無理という。そこを、OBの藤沢覚樹さんがおられた印刷会社にOKしてもらって何とかできました。

池本 大学の「公告」という1枚の紙ですまさないで、表紙と解説を入れ印刷配布したのです。経理公開のときも同じでした。必要にせまられて出したのが、学内版です。
  
寺本 印象に残る企画や記事といえば、何といっても浄土真宗本願寺派の大谷光真新門主とのインタビューでしょう。第5号で、15ページにわたって掲載していますが、すでに池本先生が本誌45号の「三百五十年史秘話」で書かれています。
 広報誌の記事がきっかけで、龍大ボート部(正式には端艇部)の新しい合宿所ができたということもありました。職員の広報委員が、琵琶湖畔の艇庫(合宿所)を泊まりがけの体当り取材をして、言語を絶するほど部屋がきたなくて、今にもつぶれそうだという報告をしたからです。

西山 取材旅行もありました。最初は日帰りで、初代広報委員で経営学部助教授の福田徹先生(故人)による「深草紀行」(4号)。続いて「親鸞聖人ゆかりの地をたずねて」(6〜8号)では、寺本さんの愛車で越後や関東に出かけ、小田義久文学部教授が文章を担当。この頃になると私の写真の腕も上がっていて、中面の見開きでカラー写真をのせていただいた。

寺本 次のシリーズが、文学部教授の中川浩文先生(故人)に執筆してもらった「深草野文芸散歩」(9号)。次いで「源氏物語点描」(10号)が中川先生の遺作になりました。
 また、1泊2日の研修旅行にも、いかせていただいた。嵐山の温泉や北陸の芦原など。年2回の発刊で5年目のこの頃になると、広報誌もそれなりに市民権を得ていました。
  
由本 僕は平成7年から13年3月まで、小さな大学に関わっていましたが、その大学に「龍谷」が送られてきます。で、ページを開けるたびに、やっぱり大手は違うなと、嫉妬心ばかりが先行するのです。今回の会合に出るにあたって、大学の図書館の課長にコメントを求めたら、「うちなんか作ろうと思っても、これだけのものは作れない。龍谷さんには、お宝があるからよろしいね」と。
 その小さな大学で、ホームページを作ることになりました。それでわかったことは、ホームページはプロにまかせれば、すぐにでも動く。しかし、問題はその中味。大学に中味がなければ何もできないと思いました。
 ホームページでは、まっさきに建学の精神が登場します。アメリカの大学のホームページを開けると驚かされるのが、非常に簡単明瞭な内容だということ。たとえば人種差別はしない、身障者も差別しないというところからスタートしている。そして次へと進んでいく。内容が充実しないと、二度とホームページにきてくれません。そこで、大学の中味が問われるのです。広報誌も同じだと思う。

池本 ほんとうに、その通りだと思います。
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