AMERICA
アメリカ「マサチューセッツ大学アマースト校」講師 豊岡愛子さん
キャンパス内にある、チャペルとキャンパス・ポンドをバックに。
絶対にあきらめないこと! 学生時代からの夢を実現し、アメリカの大学で日本語教師に
卒業後、アメリカの大学へ

 アメリカ・マサチューセッツ大学アマースト校の専任講師として、初級日本語の2コースの学生90人ほどを教えています。日本語専攻だけでなく、コンピュータや経済、物理、人類学など多様な専攻の学生たちがいます。

 シラバスやスケジュールの作成、それにTA(ティーチングアシスタント)の指導も私の役割。授業は教師のワンマンショーにならず、学生中心、つまり、学生がしっかりと話せるようにと心がけています。キャンパスで学生と出会った時も、なるべく日本語で話しかけます。そんなわけで、私自身の英語は一向に上達しないのですが…。

 龍大を卒業してすぐアメリカに来ました。カリフォルニア州立大学とウィスコンシン大学で1年ずつ英語を勉強。ウィスコンシン大学東アジア言語文学部日本語学科大学院修士課程に入学しました。

 修了後は、ミシガン大学で日本語教師を1年間。そして、今の大学に2000年秋に赴任、現在に至ります。

 龍大で学部共通コースの『英語コース』を選択したことが、私の将来を決定づけたと思っています。英語力を身につけることができたのはもちろん、海外に目を向けることができました。


教え子たちと

夢を育んでくれた龍大

 龍大は、海外で勉強したいと思う学生にとって、とても協力的です。また、海外からの留学生も多く、私が日本語教師になろうと思ったのも、そうした留学生の友人を得たことが、直接のきっかけといえます。

 目標ができた私は、まず通信教育で(お金がなかったから!)、日本語教育・日本語言語学の基礎を学び、そして龍大から奨学金をいただいて、オーストラリアで行なわれた2週間の『日本語教育実習プログラム』に参加。私の中で夢が現実としてふくらんできました。

 「将来、海外で日本語を教えたい…」という私に、アメリカの大学に行くことを勧めてくださったのが、恩師のトーマス・ライト教授です。今から思えば、かなり“脳天気”な話で「とにかく行ってみよう!」という意気込みだけ。語学力も昔の基準ですがTOEFL510程度で、大学院に入学するには程遠い状態でしたね。

文化の違いを感じる時も

 先日、授業中に家族の語彙――父、母などの言葉を使って話をさせたのですが、両親が離婚している学生が多く、安易な質問ができず困ったことがあります。クラスメートの前で話したくないという学生もいますし。小さなことですが、やはり文化の違いを感じました。

 でも、アメリカでの暮らしは快適です。週末は大家さんが営む農場を手伝ったり、収穫した野菜を朝市で売ったり。マサチューセッツに来るまではアパートでひとり暮らしをしていましたから、ようやくコミュニティーの一員になれたような気がしています。

 日本語教師になりたいという人は大勢いるようですが、私が夢を実現できたのは、本当になりたいという思いを持ち続けたからだと思います。もちろん努力もしましたが、絶対にあきらめないこと! そして家族、先生、彼氏(今は婚約者)、友人など、いろいろな人の支援も大きな助けとなりました。

 念願の日本語教師になれましたが、もっともっと勉強して経験を積んで、自分自身が納得できる教師になりたいと思っています。

AUSTRALIA
オーストラリア・ゴールドコースト「GOSHU KAWARABAN PTY LTD」勤務 中村文子さん
同じオフィス内でリサーチの仕事をしているエイドリアンと。英会話の練習相手でもある。
「熱意」と「勢い」で海外就労を実現 オーストラリア発、生きた情報を日本に
仕事をしながら仕事を覚える

 生まれ育った京都を離れ、2年半あまり。現在は、日系の会社でWebページのデザイナーとして『豪州かわらばん』というホームページと、週1回発行のメールマガジンを任され、オーストラリアの生活や観光、それに留学・就職など盛りだくさんの情報を日本の皆さんにお届けする仕事をしています。

 オーストラリアで働くきっかけは、龍大卒業後に何気なく見た就職情報誌。免税店の求人募集が掲載されていました。応募条件のどれにも当てはまらなかったのですが、「海外で働きたい」という一心で、熱心に自分をアピールしたところ採用が決まり、2000年7月に渡豪しました。
 現在の仕事は、免税店を1年で退職し、語学学校に通っていた時に見つけました。Webデザインの経験など全くなかったのですが、この時も「熱意」と「勢い」です。

 でも、入社してからが大変でした。原稿を書くことは好きだったのですが、画像処理やレイアウト、システムやプログラミングのメンテナンスなど全部ひとりでこなさなければなりません。仕事をしながら仕事を身につけていったようなもの。1年が過ぎた今もまだまだ勉強中です。

自宅前。向こうに見えるビル街がオフィスのあるサーファーズパラダイス。学生時代からの夢のひとつ「海を眺めながら過ごす」を叶えることができた。オーストラリアでは「仕事が忙しい」よりも「週末どれだけ楽しんだか」というのが自慢のタネ。休みの日は釣りをしたり、泳いだり、隣人たちとバーベキューを楽しんでいるという。

何も決まっていないから、人生はおもしろい

 初めて海外に出たのは、大学1年生の時。友だちとタイに出かけたのですが、その時に思ったのが「世界はなんて面白いんだろう!」。

 3年生からは文化人類学が専門の末原達郎先生のゼミに入りました。末原ゼミは旅好きの集まりで、それぞれが好き勝手に各地を旅した成果を、先生の研究室でコーヒーを飲みながら発表し合ったものです。

 私自身も、保護者でつくる「親和会」の海外研修費を頂いて、サモア島で大家族生活を体験したりしました。南太平洋地域の原始芸術に興味があったので、オーストラリアの「アボリジニ絵画」をゼミの研究テーマにしました。その頃にアデレードやシドニーの美術館や博物館を訪れたのが初めてのオーストラリアでした。気さくで明るいオージー、美しい大自然、のんびりとした生活スタイルの魅力にすっかりとりつかれ、いつか、この国で生活してみたいな、と思うようになりました。

 旅を通じて、いろいろな価値観や人生にふれたので、4年生になっても、自分にとって生きていく上で大切なものは何か、ということばかり探していました。就職活動は一切していませんでした。

 卒業後の進路で悩んでいた時、末原先生から「何も決まっていないから、人生は面白いんじゃないか」と言っていただいたことが、とても胸に響き、心に残っています。

人との出会いが何よりの財産

 龍大で思う存分好きな勉強をし、遊び、そして、自分の戸惑いや考えをぶつけられる先生や友だちに出会ったことが、私の財産だと胸を張って言うことができます。今もホームシックになった時の解消法は、龍大時代の親友たちとの長電話です。

 いつか帰るところは京都かも知れませんが、今はまだ、この国でしたいことがたくさん。まずは永住権を取得して、独立して仕事をするのが目標です。そして、オーストラリアに友人たちやリタイア後の両親を招待したいですね。
 大学時代、ふらふらと旅行に明け暮れて心配かけたお詫びに……。

ENGLAND
イギリス・シェフィールド「英国王立シェフィ−ルド大学」経営学修士コース生 中尾晃政さん
MBA準備コースのクラスで(前列左端が中尾さん)
充実した仕事を経験し ステップアップを目指してMBA留学
きっかけは仕事で感じた「力不足」

 龍大卒業後、4年間務めた蝶理情報システム株式会社を退社し、9月から英国王立シェフィールド大学の経営学修士コースで学んでいます。経営学の専門家として認められる学位、MBA(Master of Business Administration=経営管理学修士)取得のためのビジネススクールです。

 仕事に不満があったわけではありません。ソフトウェア会社は希望の職種ですし、企画部で責任のある仕事を任され、むしろ、充実した日々を送っていました。海外製品の調査のため、年1回はひとりでアメリカへも出張していました。

 新しいことを形にしていく難しさと楽しさを味わえた4年間でしたが、仕事の幅が広がるほど、自分の「力不足」を感じたことが留学のきっかけだといえるでしょう。基礎的な知識はもちろん、いろいろな観点からの分析力を身につけたいと切実に思ったのです。例えば、どうすれば商品が売れるかを考える際に、成功や失敗のセオリー、決まりごとなど多方面からの分析は、より論理的なマーケティング提案を可能にします。

 つまり、私にとってのMBA留学は、自分に足りないものを“一気に”習得するため。シェフィールド大学を選んだのは、カリキュラムやレベルが自分に合っていること。そしてイギリスでは、1年でMBAの取得が可能なので(アメリカは2年)、経済的にも楽だからです。

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(写真左端が中尾さん)


9時から授業 午前3時まで勉強

 現在、MBAコースには120人の学生がいて、今年はなんと119人が留学生。インド人と中国人が多く、平均年齢はちょうど私ぐらい、28歳程度でしょうか。

 朝9時から授業、午後はチュートリアル(グループに分かれてケーススタディ等の勉強)、下宿に帰って食事をしながら下宿のおばさんと世間話をして、午前3時頃まで勉強という生活です。

 授業のペースが予想以上に速い上、ケーススタディ(事例研究)を重視した内容なので、その準備が大変。というのも、討論になると英語が苦手な日本人にはつらいし、もともと日本人は、論理的・批判的なものの考え方に慣れていないですから。

 これだけ厳しい生活ですが、MBAを取得できる保証はどこにもありません。毎日が不安とプレッシャーとの戦いです。

3年次にアメリカ、4年次にイギリスへ留学

 龍大では、経済学部で、学部共通コースの『英語コース』を選択しました。英語コースで欧米文化の理解や英語の特訓を受けて、次第に海外へ視野が広がりました。3年次にアメリカ・ノースリッジ大学に短期留学、4年次には1年間、イギリスのウエストミンスター大学へ留学しました。

 あの頃はとにかく「異文化吸収」という大義名分がありましたから、勉強ばかりの今の生活とは大違い。よく遊んで海外生活を楽しみました。日本社会というものを外から見ることができたのは大きな収穫でした。私自身、大学時代の経験が今回のチャレンジを可能にしたと思います。

 忙しい勉強の合間の楽しみは、日本で待っている彼女と電話で話すこと……。無事、MBAを取得して、龍大の後輩の皆さんの励みになるような結果を出したいと思っています。

 そして、将来は職務経験で培ったITの知識を生かし、海外との橋渡しができるIT系コンサルタントの仕事やマーケティングリサーチの仕事に就きたいと考えています。

AFRICA
アフリカ・ギニア共和国からの留学生大学院理工学研究科電子情報学専攻 クマサドゥノ・ファヤさん
しっかりとした日本語ではなしてくれた。
文・短同窓会の招きが縁 母国でのインターネットのパイオニアを目指す
2度目の龍大留学

 現在、21カ国、416人の留学生が学び、国際色豊かな龍大キャンパス。

 遠くアフリカのギニア共和国出身者はクマサドゥノ・ファヤさんが初めて。

 龍大には2度目の留学。1度目の留学は、コナクリ大学在学中の98年4月から2年間。龍大OB初の大使(ギニア・恒川賢友氏)誕生を記念し、文学部・短期大学部同窓会が「特別留学生」としてファヤさんを招いた。

 初めての日本、そして龍谷大学の印象は――

 「キャンパスがきれい、学生がみんなコンピュータを使っていたこと、女の子がタバコを吸う、そして授業料が高いこと!」に驚いたそうだ。

 そして、今年1月、日本国文部科学省の国費留学生として再び龍大へ。ファヤさんが学ぶ理工学研究科電子情報学専攻の回陽博史教授の推薦によって認められた。

 「回陽先生には言葉がわからない頃からお世話になっています。龍大では私を理解してもらえているので、勉強に専念できます」と、本当に嬉しそうな笑顔で話す。

 出身のコナクリ大学は、ギニアにある3つの国立大学で1番の難関。大勢の希望者から選ばれて龍大に留学した秀才だが、前回留学時は言葉の壁は厚かったようだ。ギニアの公用語は、日本では話す人が少ないフランス語。

 「日本語が難しくて大変でした。午前中は龍大の留学生別科に通って猛勉強しました。目標があったから頑張れた。今はもう大丈夫!」と胸を張る

大学院を修了し親孝行を

 電子情報学専攻では、主にコンピュータネットワークを学んでいる。

 「コナクリ大学にはコンピュータはありましたが、インターネットはつながらなかった。高校時代はコンピュータに触ったこともありませんでした」

 現在は特別留学生だが、来年、2月の大学院入試を受けて、さらに2年間龍大で学ぶつもり。

 ギニアでは就職難で、ファヤさんが希望する仕事には、大学院修了の資格が必要だそうだ。

 「早く修士の学位をとって、父を楽にさせてあげたい。ギニア人の代表として日本で勉強しているのだから、学んだことをギニアで先生になって教えたい」というのが目標。

 真面目でおだやかな人柄。すっかり堪能になった日本語で、ゆっくり言葉を選びながら話す。性格は? と尋ねると、

 「僕の家は首都に近いので、学校や仕事に通うため、田舎からの親戚や一族の誰かがいつも寄宿しています。時には15人以上にもなるので、やさしくないとやっていけない」と笑う。

 ファヤさんが“日本の父”と慕う回陽教授は、

 「インターネットのパイオニアになって、人材を育て、彼が核となって国を動かせるようになればいいですね。ファヤ君は人間的にしっかりしているので、ギニアのために働ける人材だと思う」と高く評価する。

 大宮学舎のそばの龍大の留学生寮「大宮荘」に住む。

 「勉強が面白くなってきました。前の留学の時は、友だちに誘われて遊びに行ったりしましたが、今は勉強ばかりしています」という。「息抜きはしない」ときっぱり。


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