特集「仏の来た道」集大成
探検隊100周年、西域文化研究会50周年現代科学を駆使して進む研究 百済 康義 教授
探検隊100周年、西域文化研究会50周年現代科学を駆使して進む研究 百済 康義 教授
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―百済先生は3年間にわたる一連の行事の実行委員長であり、西域文化研究会の代表メンバーでもありますから、両方の立場を織り交ぜて振り返っていただきたいと思います。まず、大谷探検隊100周年事業はいつ頃から、どのような形で計画されたのですか
ドイツ探検隊も大谷探検隊と同じく、1902年に始まり14年に終了しています。ですから10数年前から共通の年には日独共同の大展覧会を京都・東京・ベルリンで開催してみよう、日本での展覧会には今は韓国ソウルや中国旅順にある大谷探検隊収集の美術品も借り出そう、との夢を描いておりました。
しかし実際に外国の博物館に当たってみると、借り出しは金銭面の他に種々の条件がついて非常に難しい。だからこの共同展覧会の計画は10年前に早々と取り止め、日独で別々に開催することにしました。
記念事業の集大成といえる研究集会(国際シンポジウム)は、2002年春と秋にベルリンと京都で行なうという案も出ましたが、これも日程的に忙し過ぎる。結果的に、2002年はドイツ側に譲り、日本側は翌2003年に行なうことになったのです。

―2003年は龍谷大学にとって意義深い年でもありますね

そうです。ちょうど100年目というと2002年なのですが、実は龍谷大学にとっては、2003年の方が意義が大きいのです。
というのは、龍谷大学はもともと探検隊収集品を持っていたわけではありません。探検隊の指揮者であった大谷光瑞師は、昭和23(1948)年に別府でお亡くなりになりました。やがて本願寺で遺品整理が行なわれたとき、探検隊収集品が納まった2つの木箱が見つかりました。ときの門主・光照師のご好意で、これらは宗門校である龍谷大学に研究委託されました。その時が昭和28(1953)年でした。ちょうど50年前です。
その当時の龍谷大学は文学部だけの単科大学でした。学長・森川智徳教授が指揮を取り、学の内外から20数名の学者を集めた「西域文化研究会」を結成し、文部省から大型の研究費を獲得し、以後、10数年間の研究を支援しました。
研究会は大著『西域文化研究』6巻7冊を出版し、一応の役目を終えました。とにかく本学において西域あるいはシルクロードの仏教研究が始まったのは、50年前の資料の研究委託が機縁でした。

―探検隊派遣から100年、あるいは西域文化研究会発足から50年、この歳月をどのように評価されますか。また今後の研究はどのように進むべきでしょうか
この50年は、基礎研究・目録編集の時代であったと思います。実際に研究が進むと、日本だけでは研究の手の及ばない問題(言語・宗教)が多いことも分かり、外国の研究機関との共同研究が必要となってきました。
とりわけドイツ探検隊収集品とは資料が接合するなど関係が深かったので、東西冷戦下にあって未だ日本と国交のなかったドイツ民主共和国(東ドイツ)の研究所と共同研究を開始しました。深刻な経済情勢や国際情勢を乗り越えて、共同研究は本年で36年の歴史を刻んでおります。
また時代はコンピュータ時代を迎え、科学分析・情報科学の発展は、私たちの学問の在り方にも、種々の問いかけをし、新たな研究分野の開発を促してきました。本学でスタートした「古典籍デジタルアーカイブ研究センター」では、理工学部の先生方が、そうした新たな学問的地平の研究・開発に挑戦されています。
探検隊は100年前の国際常識に従って調査を行ないましたが、その調査方法や資料の取扱いについては、種々の問題点が指摘されています。今、そうした問題を解決する方法の一つは、イギリスやドイツが大規模に行なった、あるいは行ないつつあるようなインターネットによる資料公開でありましょう。
龍谷大学も小規模ながら、インターネット公開を進めております。しかし、こうした文書類のインターネット公開は、学者にとっては朗報ではありますが、一般市民には馴染みの薄いものです。
解決するもう一つの方法として思いついたのが、現代科学を大いに利用して遺物を復元することです。そうした復元の例として、今はもう地上に存在しないベゼクリク壁画を選んで陶板で復元しました。現代科学の先端技術を利用して遺跡を復元することが、けっして不可能ではない例としてご記憶ください。
探検隊100周年、西域文化研究会50周年現代科学を駆使して進む研究 百済 康義 教授
大きな成果に、“新たな始まり”を実感 入澤 崇 教授
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―実行委員会副委員長として3年間を振り返っての感想は?
本当に実りの多い3年間でしたね。とくに今年9月の国際シンポジウムは、この事業の集大成ともいえるもので大きな成果を得ました。これまで共同研究を行なってきたドイツはもちろん、大英博物館、新疆ウイグル地区、インドなどからも研究者が来学し、中央アジアの出土品を収蔵している研究機関が一堂に会しました。世界の学者から注目を集めたシンポジウムでした。
シルクロード出土品の調査は、昨年、文部科学省の助成を受けた「旅順プロジェクト」が発足して以来、大きく飛躍しました。探検隊の収集品は、主に日本(本学図書館、東京国立博物館など)、中国(旅順博物館、北京国家図書館)、韓国(国立中央博物館)に分散されています。旅順博物館には「新疆出土資料」と呼ばれるもの、とくに仏教経典が多く残されているのですが、これまで門外不出でだれも見たことがなかった。どのような経典があるのか、まだ全貌をつかめていませんが、大切に保管してくれていたことに感謝したいですね。
龍大では10年ほど前から旅順博物館と友好関係を築いてきましたがようやく総合的に調査・研究体制を整えることができたということです。
9月のシンポジウムでは新疆地区の研究者による発表も行なわれ、今後共同研究が進むことで解明が進むはずです。もっと目が離せなくなりますよ。

―最近は新聞や雑誌など一般のメディアでも、大谷探検隊の記事をよく見かけるようになりましたが
大谷探検隊がクローズアップされているのは、明治時代の志高く、情熱ある男たちの姿が共感を呼んでいるのでしょう。「何でもみてやろう」精神のあふれた人たちがやり遂げた。
仏教者が、仏教の遺跡を調査したという点が特徴で、当時、ヨーロッパの国々が国家プロジェクトとして中央アジアを調査したこととは、まったく性格が異なるわけです。探検隊の収集品は「その時代の仏教はどうだったのか」「当時の社会はどうだったのか」を明らかにする貴重な資料です。西域学、敦煌学という学問が成立し、発達したきっかけが探検隊の収集品であり、東洋史や考古学の面からも貴重だといえます。
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旅順博物館所蔵の大谷探検隊収集品の調査が2002年8月より本格的に始まった。竺沙雅章京都大学名誉教授の話に耳を傾ける日中双方の若手研究者たち(旅順博物館で)


―先生ご自身にとって大谷光瑞とは?

こんなエピソードがあります。橘瑞超(第2・3次大谷探検隊)隊員に光瑞師が「砂漠はどうだった?」とたずねた。橘隊員が「砂ばかりでした」と答えたところ、「どんな砂だった?」と聞いたそうです。何も答えられなかった橘隊員はその後東京大学で地質学を勉強するのですが、とにかく徹底して物事を追求した方ですね。
伏見区桃山に、もと大谷家の別邸「三夜荘」が現存していて、先日、調査をする機会があったのですが、床下からヨーロッパ製の養蜂機材や東南アジアの鉱物資料が出てきました。地質学、教育学、言語学など多岐にわたって本物を求めた方ですから、人物像の全容も捉えきれていないのでは。探検隊が収集した植物標本も、専門家の方が見たらすごい価値があるものだとわかりましたから、今後も新たな発見があるでしょうね。

―ところで11月、龍大の山田明爾名誉教授と写真家の中淳志さん(龍大OB)が、バーミヤンより西にある遺跡を発見し、シルクロードの新ルートと話題になりましたね
シルクロードはインドから日本へ通じる“東”の研究は進んでいましたが、アフガニスタンのバーミヤンより“西”は確認されていませんでした。今回の発見は、仏教の伝播ルートを解明しようとした大谷探検隊の意志をつぐもの。光瑞師はアフガニスタンにも関心をもっていて、1896年ロシア留学に向かう渡辺哲信(第1次大谷探検隊)隊員にアフガニスタン調査を命じたのですが、国情が悪く入れなかった経緯があります。まだまだ“西”の遺跡はいくつか残っているはずですよ。

―今後の研究のゆくえ、そして龍大の使命は?

中国、韓国、ドイツと共同研究をさらに進めていきますが、それぞれの国同士はあまり交流がありませんから、龍大がイニシアティブをとって進めていかなければならないでしょうね。国際的な共同研究で飛躍的に解明が進むことが期待できます。そして、中国・韓国・日本の大谷コレクションが一堂に会し、公開できるようにしたい。この3年間はまさに“新たな始まり”を実感させてくれました。龍大は「中央アジア出土の生の資料」をもつ日本で唯一の研究機関ですから、その責任は大きいと感じています。

 

探検隊100周年、西域文化研究会50周年現代科学を駆使して進む研究 百済 康義 教授
最後の秘書が語る晩年の光瑞師 吉田 せつ さん
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大谷探検隊というと遠い昔の出来事のように思われるが、生前の大谷光瑞を知る人がまだまだご健在なのである。光瑞最後の秘書といわれ、激動の晩年を支えた吉田せつさんを大阪のご自宅に訪ねた。
光瑞猊下に初めてお目にかかったのは昭和16年、ちょうど20歳の時です。嫁入り前の“行儀見習”という軽い気持でした。
当時、築地本願寺の中にお住まいがあり、側近の男性たちや私のような行儀見習の女性が一緒に暮らしていました。冬は台湾の農園・逍遥園で過されていましたので、お伴の当番以外は京都へ帰ったり、銀座へ遊びに出かけたりして自由に過させていただきました。
その頃、日本郵船の研修所で料理を習わせていただいたことが印象に残っています。猊下はたいへんな食通で、ご自分で毎日の献立を決められるほど。格式の高い研修所で最先端の料理を教えてもらい、猊下がお好きだったスパゲティもその時に習いました。また猊下が発疹チフスに罹られた折には、欧風の病人食も習いに参りました。
戦火が激しくなるにつれて、お傍にいた方も兵隊にとられるなどご身辺が淋しくなり、昭和19年頃には私ひとりになってしまいました。母が心配して何度も大谷家へ「お暇をとらせてください」とお願いに上がったそうですが、代わりがいないのでどうしようもありません。とうとう昭和23年のご遷化までお仕えした次第です。
19年頃は本願寺別院のある上海にお住まいで、映画に出てくるような素晴らしいお屋敷でした。猊下は後日、「王侯貴族から乞食まで経験しました」と仰っていましたが、まさにその通りだったのでしょう。戦後は大連に抑留され2冬を過しましたが寒い上に物がなく大変な思いをしました。
いろいろな方から「よく辛抱されましたね」と言われますが、私がお仕えした頃の猊下はとても穏やかな方でした。ニックネームをつけるのがお上手で、私は「チュー」と呼ばれていました。アゴが細くネズミに似ているということからでした。
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数少ない猊下とご一緒の写真。

●橘隊員や堀隊員の訪問を喜ばれて

昭和22年には病気のご静養のため、別府の鉄輪へ。とても小さな家でしたから「普通の生活とはこんなものか」と仰りながらも楽しんでおられる様子でした。まだまだ物資が乏しい頃で、猊下は身長182センチの居丈夫で足のサイズが27センチもありましたから、ハワイの本願寺から大きな靴下が届いた時にはホッとしました。
「過去のことは聞いてくれるな」というのが猊下の口癖でしたが、探検隊のメンバーだった橘さんや堀さんがお見舞いに来られた時は、それは嬉しそうでした。
ふだんは主に漢書を読んで過されていましたが、よくおしゃべりもされました。私たちの様子を見た方が「よくお話が続きますね」と驚いておられたほど。ふだんは少し早口な京言葉でお話されましたが、時々、わざと悪い言葉を使ったりお茶目なところのある方でした。若くして亡くなられたお裏方(夫人)の思い出話をよくされていました。
お傍に仕えた8年間は、本当にいろいろな経験をさせていただき、いろいろなことを教えていただきました。猊下の先見の明は、ちょうど今この時代を当時歩んでいらした感があります。
現在、私は82歳ですが、行動的な猊下の後を小走りでついて行く生活をしていたせいか、何より足が丈夫で元気に過しています。
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