特集「仏の来た道」集大成
3年間にわたった大谷探検隊100周年記念事業 今年9月、大成功のうちに幕
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復元された「ディーパンカラ佛授記」。ディーパンカラ佛に対し、自分の髪の毛を泥たまりに敷いて歩くことを乞うたバラモン青年は、佛から授記を与えられた。壁画にはこれらの数場面が描かれている。なお、対面には、「船上の佛と隊商主」の陶板も飾られている。
世界の学者が注目!!「仏の来た道2003〜シルクロード文物と現代科学」
 9月5日〜12日、記念事業の最後を飾る「仏の来た道2003〜シルクロード文物と現代科学」が開催された。期間中、海外からの研究者が一堂に会した記念シンポジウム「シルクロード文物と現代科学」、展覧会「書と表現の跡」のほか、ニヤ遺跡方形仏堂遺構が再現されるなど、一般入場者を含め多くの人々で賑わった。
仏教壁画を陶板で復元
 埋もれていた寺院(トルファン・9号窟)から掘り出した仏教壁画は、ドイツ隊最大の成果であったが、第2次大戦末期のベルリン大空襲で灰燼に帰した。研究者たちの昔年の夢であったこの壁画の復元がようやく実現した。
 本学の古典籍デジタルアーカイブ研究センターでは、残された図板を手がかりに、2面の仏教壁画を質感のよく似た陶板によって原寸大で復元。シンポジウムの開催に合わせて大宮学舎清和館の階段踊り場に展示し、多くの人々から感嘆の声があがった。
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「書と表現の跡」と題し、本学所蔵の大谷探検隊収集品、藤井有隣館所蔵資料、四天王寺執事長出口順得氏所蔵資料、天理図書館所蔵のものなど約70点を展示。書の変化でシルクロードをたどった。 教室内に「ニヤ遺跡方形仏堂」を再現!
シルクロード西域にあるオアシス国家の遺跡・ニヤ。中央に仏像を安置し、周囲の壁面に仏・菩薩像を描き、観仏三昧行が営まれていたとみられる。会期中、天台声明の流儀に則し僧が念仏を唱えて歩く「五会念仏作法」も再現された。
ドイツ、イギリス、フランス、インド、中国から研究者が参加し、国際色豊かな催しとなった。講演は「中央アジア研究の五十年の回顧」井ノ口泰淳本学名誉教授【写真右下】、「中央アジア研究の今後の課題」ペーター・ツィーメ氏(ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミートルファン研究所)【写真右上】。
 
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デジタルアーカイブ・アウォード受賞 堀賢雄隊員の遺品が龍大へ

京都市デジタルアーカイブ研究センター主催の「デジタルアーカイブ・アウォード賞」に本学の古典籍デジタルアーカイブ研究センターが選ばれた。
 この賞は、デジタル技術で文化資産などの保存、活用を目指す全国の事業を表彰するもので、本学の取り組み――中国古代製紙技術と和紙との相関から得られた科学的分析データと、超高精細画像データを連携させるデジタルアーカイブシステムへの道筋を示したことや、多種多様なシルクロード収集資料のデジタル化における先進的な試みが評価された。
 12月11日にはキャンパスプラザ京都で表彰式が行なわれた。
※ 龍谷大学古典籍デジタルアーカイブ研究センター=文部科学省学術フロンティア推進事業として2001年に採択。本学のもつ古典籍や貴重資料をコンピュータなどの最先端の電子情報技術を利用してデジタル化し、保存・整理・分類した上で世界に公開できる新システムの構築を目指している。
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探検当時に身につけていたもの。
寄贈品には大谷光瑞が亡くなったときに身につけた白衣もある。
堀 賢雄(左)と渡辺哲信
  
堀賢雄(ますお/けんゆう)は、第1次大谷探検隊員として1902年から1904年にかけて内陸アジア、河西・西安地域の古代遺跡の調査活動に従事。今回、 遺族から「形見として所有するより、100周年という節目に研究資料として提供したい」と申し出があった。
 寄贈された資料は、将来仏像、探検用具・服、70余枚のガラス乾板、焼き付け写真、絵はがき、私信、メモ、図書の他、幼少期から晩年の諸記録におよぶ。これらの資料は、新たな歴史的事実や背景を研究する重要な裏付けとなる貴重なもの。
 

大きな成果!実り多い3年間を振り返る
 大谷探検隊100周年記念事業では、西本願寺第22代門主・大谷光瑞が組織した調査隊が、中央アジアに向けて出発してちょうど100年目にあたる2002年を中心に、前後3年間にわたってさまざまな取り組みが行なわれた。

【2001年】
5月に大宮学舎で、シンポジウム「現代シルクロードのイスラーム復興」を開催。
11月の3週間、(財)仏教伝道協会との共催事業で中国・新彊ウイグル自治区踏査へ出発。この様子が毎日新聞元旦特集号で紹介された。また、故佐藤健記者の「阿弥陀が来た道―百年目の大谷探検隊」が2002年4月から半年にわたり連載、出版された。
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 『阿弥陀が来た道─百年目の大谷探検隊』(2003年3月刊/196頁/毎日新聞社/1524円)

【2002年】
5月、東京と京都で日・中・韓の研究者による国際学術講演会「仏の来た道〜シルクロードの文物〜」を開催。

9月、広島市立大学と共催で国際シンポジウム「チベットの芸術と文化」を開催。

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【2003年】
6月、名古屋の中日新聞社ホールで講演会「仏の来た道―いま甦る幻のシルクロード―」を開催。

 
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龍谷大学が所蔵する貴重な大谷コレクション
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青銅製の荘厳具・装身具など
出土はトルファンのものが主。
年代:7〜8世紀頃のものが中心。
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渡辺哲信(わたなべてっしん)日記 全10冊
第1次隊員の渡辺哲信の中央アジア旅行日記。明治35年8月20日より同37年4月19日の、中央アジア・中国など旅行先における調査・見聞を詳細に記録している。この日記帳は、イギリスのロンドンで購入されたもので、紙の透かしには“BISHOPS BOURNE”の文字と商標がある。
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文部科学省「特色ある大学教育支援プログラム」に採択!「ボランティア体験」から広がる、実りある福祉実習への可能性(ふくぎじょかず)
死者の棺覆いの帛画。中国古代神話の二神で上半身は人、下半身は蛇で互いに交接している。トルファン、カラコージャ出土。
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新疆(しんきょう)ウイグル自治区 天山(てんざん)植物
第3次大谷探検隊、吉川小一郎の
採集した天山植物の標本類。
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「青龍」の復元
土地制度関係文書で、数枚の二次利用廃紙を重ねて切り抜き、貼り合わせて作製されたものである。一番上の紙に絵画が描かれている。青龍の出土墓は不明。収集者は第3次探検隊員吉川小一郎の可能性が強い。
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第3次吉川小一郎隊員の写真機
ソレイトンピッカード
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ブラーフミー字碑文拓本
103×35cmm
第1次隊員の渡辺哲信と堀賢雄は、1903年、クチャ地区のクムトラ千佛洞を調査した。「ベシケラム千佛洞の五大窟」と呼ばれる洞窟内で、壁に刻記された6種の碑文の拓本をとった。
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吉川小一郎撮影の敦煌大佛涅槃像
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李柏尺牘稿( りはくせきとくこう)
(重要文化財)

ローラン(楼蘭)出土
大谷探検隊第2次探検隊員の橘瑞超が、1909年にロプ湖北岸のローラン古址より発掘・収集した文書。一般に「李柏文書」と呼ばれ、前涼国の使者が西域諸国を歴訪するにあたり、西域長史李柏がもたせた訪問先の各国王に宛てた書簡の草稿と考えられている。紙が普及し始めた極めて初期の遺品であり、書写年代も前涼太元5年(328)と考証されている。
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右:旅行教範(りょこうきょうはん)
大谷探検隊を派遣するに先立ち、大谷光瑞が隊員に対して与えた探検遂行上の詳細な注意事項・指示要項を記録したノート。第1部「多数旅行」以下、「単独旅行」「旅行日誌の形成」「書籍及器具・飯食品」「調査要項」「附表」の6部構成。
左:高昌吉利銭(こうしょうきつりせん)
トルファン出土 径2.5センチ 唐〜宋 約12g
墓室の中の死者の傍もしくは、口中にあった1枚は、墓誌から貞観16年(642)頃埋葬された、死者の副葬品の一つであることも判明した。唐に併合される前の高昌という国のもので、l氏高昌国時代に鋳造された可能性を示している。
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菩薩頭部像
10.5×8.8cm 粘土製m
端正な顔立ちから古代ガンダーラ仏の影響を受けたことがうかがえる。6〜7世紀頃のものとされる。
 
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 今からおよそ100年前。中央アジアの砂漠地帯に日本の若者たちの姿があった。
 当時、ヨーロッパの列強は国策としての天然資源調査や、地理学や考古学の学術調査のため、競って探検隊を中央アジアや中国北西部に送り込んでいた。まさに探検時代といわれた頃である。
 ロンドンに遊学中の大谷光瑞(1876−1948)が探検隊を計画したのは、そうした熱い時代であった。光瑞は1902年から1914年にかけて3次にわたり中央アジアに向けて調査隊を派遣。第1次には光瑞本人も同行した。
 ヨーロッパ諸国の探検隊と違うのは、国の支援を受けることなく、考古学という学問も日本にまだない頃に、専門の探検家ではなく若い僧が中心となった急ごしらえの組織だったことである。
 その目的も大きく異なる。「仏教東伝の経路を明らかにすること」「中国の僧がその昔インドに入ったルートをたどること」を通して仏教の近代化を図り、キリスト教と対抗できる学問やシステムを構築しようとした。そして「イスラム教化した土地で仏教が被った圧迫状況を調べること」で、荒廃した仏教遺跡から、経典や仏像、仏具を収集し、仏教の教義研究や考古学、地理学、地質学、気象学に役立てようとする狙いもあった。
 日本人の目がまだ中央アジアに向いていない時代に、偉業を成し遂げた大谷探検隊に対する再評価の気運がますます高まっている。
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