寛永16(1639)年、本願寺境内に開設した教育施設「学寮」を起源とする龍谷大学。「学寮」は「学林」と名を変えて、江戸期最高の教育機関として歩み続ける。がしかし、新選組が活動した幕末期、龍谷大学も大きな渦に巻き込まれていった。『龍谷大学350年史』をひもといてみると――



 年々、増え続ける学僧たちのため、学林では敷地の拡張と寮舎の整備が着々と進められてきた。ところが、元治元(1864)年7月19日に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)によって類焼してしまうのである。
 「禁門の変」は、京都における地位を失った長州藩が勢力回復のため、藩主父子の冤罪と尊皇攘夷派七卿の赦免を願ったが許されず、御所を警護していた会津・薩摩などの藩兵と蛤御門付近で乱戦となり、長州藩が敗北した戦い。この時、長州藩邸でまず火の手が上がり、火勢が京都市中に広がったといわれている。仏光寺や東本願寺をはじめ、多くの民家が類焼。学林も20日夜には講堂・経蔵・寮・食堂などをことごとく焼失してしまった。当時、学林は本願寺より東側に位置し、本願寺は何とか難を逃れている。
 28日には早くも阿弥陀堂の北にあった北集会所を学林講堂に、興正寺境内の南地にあった巽屋敷を学寮にと決まり、講義再開の準備が進められていた。学林が火事に遭うのは今回で2度目。1度目の火災は天明8(1788)年。京都市中の大火によって類焼している。その時も本願寺の北集会所を講堂として代用し、講義をただちに再開している。



学林があった場所を今に伝える町名看板
左は本願寺国際センター前の親鸞聖人像



「学黌万検雑牘」(学林の様子を記録した貴重な資料)天明8年の京都大火や元治元年の火災による焼失をまぬがれたが、黒く焦げた個所や水に浸かった痕跡が生々しい(大宮図書館蔵)
   元治元年の「池田屋事件」で名を上げた新選組は、隊士が増え続け、壬生の屯所では手狭になってきた。慶応元(1865)年、会津藩は新選組の新たな屯所として本願寺に北集会所の貸与を申し入れ、3月10日には屯所を移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げた。
 一方、講義の場を新選組に横取りされた学林は、南集会所を仮講堂に移した。南集会所は現在の西本願寺書院・虎之間付近だと伝えられ、大宮学舎の北東部に隣接したあたり。慶応3(1867)年6月、2年余りの間居座った新選組は、本願寺が用意した不動尊村の新しい屯所へと移っていった。
 幕末の政治闘争が最後の山場を迎えようとしていた頃、廃仏運動も高まる同年8月、20世広如上人は学林創立以来、異例の消息(最も権威ある文書)を下付した。いわく、「近年この比の時勢、何とも迷惑千万の折ふしに候へとも、四海一同学業いよいよ増進せしめ、面々の才不才を論せす、日夜に聖教を拝見し……」という激励文で、学業の振興を呼びかけるとともに、講堂および寮の再建を促している。



新選組がつけたといわれる刀傷(写真提供=本徳寺)
 
 消息の下付と同時に、学林再興は元の敷地で拡張も含めて計画された。明治2(1869)年には新選組が使っていた北集会所の木材・石・瓦などを、学林の講堂に再利用するための解体工事が始まった。解体された用材はいったん本願寺台所門の前の仮小屋で保管されていた。
ところが、当時の本願寺は累積の借金が積もり、その返済のため今でいうところの“リストラ”が行なわれることに。学林の講堂用に予定されていた北集会所の古材は、播磨亀山の本徳寺に下されることになった。さらに、敷地拡張のために購入していた土地も蓮光寺に返却され、建てられていた建物も取り払われた。
 明治4(1871)年には、新政府からの命令で学林の敷地も上地として召し上げられ、学林は本願寺の境内へ移転されることになった。
 「禁門の変」による火災から、学林は学びの場を転々とすることになったが、一方で学制の近代化を図った大改革を着々と進めている。島地黙雷・赤松連城らを近代教育視察のためヨーロッパに派遣し、明治2年に破邪学(キリスト教研究)を開講。明治5(1872)年には、初めて洋学「独乙語」を開講している。そして明治9(1876)年、学林を大教校と改称し、全国に7カ所の中教校、各県に小教校を設置して、総合的な教育システムを作り上げた。
 この進取の気風はやがて、明治12(1879)年、洋風建築による大教校落成につながる。大教校は当時“海内無比”と呼ばれた大建築物で、京都市民の度肝を抜いたといわれた。 新選組・土方歳三が函館・五稜郭で戦死を遂げたわずか10年後のことである。

 
北集会所を移築した本徳寺本堂(兵庫県姫路市亀山)   「本願寺大教校慶讃会四箇法要の図」一般市民5万人に校章(六ツ藤)を押した紅白の餅が配られたと記録されている





←トップページへ戻る