学林があった場所を今に伝える町名看板
左は本願寺国際センター前の親鸞聖人像

「学黌万検雑牘」(学林の様子を記録した貴重な資料)天明8年の京都大火や元治元年の火災による焼失をまぬがれたが、黒く焦げた個所や水に浸かった痕跡が生々しい(大宮図書館蔵)
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元治元年の「池田屋事件」で名を上げた新選組は、隊士が増え続け、壬生の屯所では手狭になってきた。慶応元(1865)年、会津藩は新選組の新たな屯所として本願寺に北集会所の貸与を申し入れ、3月10日には屯所を移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げた。
一方、講義の場を新選組に横取りされた学林は、南集会所を仮講堂に移した。南集会所は現在の西本願寺書院・虎之間付近だと伝えられ、大宮学舎の北東部に隣接したあたり。慶応3(1867)年6月、2年余りの間居座った新選組は、本願寺が用意した不動尊村の新しい屯所へと移っていった。
幕末の政治闘争が最後の山場を迎えようとしていた頃、廃仏運動も高まる同年8月、20世広如上人は学林創立以来、異例の消息(最も権威ある文書)を下付した。いわく、「近年この比の時勢、何とも迷惑千万の折ふしに候へとも、四海一同学業いよいよ増進せしめ、面々の才不才を論せす、日夜に聖教を拝見し……」という激励文で、学業の振興を呼びかけるとともに、講堂および寮の再建を促している。 |