いやはや、NHK大河ドラマの影響はスゴイ!今年の京都観光の目玉は、何といっても「新選組!」。市内各所に点在する“ゆかりの地”は今、多くの観光客で賑わいを見せている。中でも龍大・大宮学舎にほど近い壬生、そして西本願寺はいずれも屯所があったところとして名高い。そこで、幕末政治史が専門の文学部非常勤講師・前原圭介さんに同行していただき、大宮学舎周辺を歩いてみた。



新選組発祥の地・八木邸。ここで新選組は約2年間過ごした。八木家は現在、通りに面したところで和菓子屋を営む。名物は壬生菜を刻み込んだ「屯所餅」
 
スタート地点は阪急「大宮」駅。そこから新選組誕生の地・壬生へは徒歩5分程度。坊城通に入った途端、人・人・人。平日だというのに大勢の人が詰めかけているのにビックリ。特に八木邸では門前に見学待ちの列ができていた。
 「ここが伊東四郎(ドラマで当主の八木源之丞役)の家ね」という声が聞こえる。入場料1000円(抹茶・菓子付き)を支払う場所も特設テントだ。屋敷の中では芹沢鴨が粛清されたという部屋で説明を受ける。芹沢がつまずいたと伝わる机、当時の刀傷も残っていた。ガイドさんの「ここが140年間、残されてきたのは素晴らしいこと。新選組は武士よりも武士らしい、ラストサムライです」といった流暢な説明に拍手が起こる。
 坊城通沿いには同じく新選組が屯所とした前川邸、清河八郎が尊皇攘夷の演説をした新徳寺(現在は新徳禅寺)、壬生寺などが隣接している。ゆかりの地巡りに、やはり壬生は外せない。

 
  同寺に残る壬生塚には、近藤勇の銅像や芹沢鴨ら隊士の墓が並ぶ。池田屋事件のあった7月16日には毎年、慰霊供養祭が行なわれる

 
「壬生狂言」で名高い壬生寺。境内は格好の兵法訓練の場だったようだ   光縁寺の墓地には山南敬助をはじめ、自害させられた者、戦死者、敵対して殺害した者などが眠る。光縁寺前には新選組の馬小屋があった

八木邸の東側にある旧前川邸。近藤と意見が対立した新選組総長・山南敬助が切腹を命じられた場所。池田屋事件の発端となった古高俊太郎の拷問は土蔵で行なわれた。非公開
 
 





かつての繁栄を伝える島原大門
 
 壬生から島原へは、まっすぐ南に下がって1キロちょっと。当時、島原は幕府公認の格式の高い花街で、新選組の幹部はもちろん、勤王の志士たちも訪れた。
 全盛期には多くの置屋(太夫や芸妓の養成所と派遣所を兼ねたところ)や揚屋(宴席を設けるところ)などが軒を連ねていた。現在も当時をしのばせる古い建物が点在している。

輪違屋は現在も島原で唯一、営業を続ける置屋。非公開
 
角屋は当時の姿をほぼ残す揚屋。現在は「角屋もてなしの文化美術館」として公開(一般1000円)
 



太鼓楼は外から見ると2層だが、内部は3層の楼閣建築で宝暦年間(1751〜1764)に建てられた。最上部には太鼓が2張あり、第2次世界大戦中まで朝夕のお勤めの時刻を告げていた。元新選組隊士で晩年、本願寺の守衛となった島田魁は日記に「探索のために太鼓楼に泊り込んだ」と記している。内部は非公開(写真提供・西本願寺)
 
 島原から花屋町通を歩いて、10分足らずで西本願寺に着く。池田屋事件で名を上げ、隊士が増えた新選組は慶応元(1865)年、手狭になった壬生から西本願寺に屯所を移した。当時、西本願寺は長州と縁が深く、その動向を見張る意味もあったといわれる。
 屯所を設けたのは寺域の北東の場所で、太鼓楼と本堂横の北集会所。北集会所は畳500枚を敷く大広間で、これをいくつかに仕切って隊士の部屋にした。太鼓楼は当時のままだが、北集会所があった場所には現在、参拝会館が建っている。
 参拝会館で話を聞くと、「新選組に関する問い合わせが増えたので、3月に太鼓楼のそばに案内板を建てました。このブームを機にお参りの方が増えるのはとても良いこと。ぜひ参拝してください」と歓迎する。西本願寺ではNHKとJR西日本のタイアップキャンペーン「新選組を訪ねて」に協力。駅で配布するパンフレットを持参した人には聞法会館フロントで記念品がもらえる。
 このあたりは、天満屋事件跡や油小路事件跡、そして第3の屯所である不動堂村も近い。

 

当時、新選組の屯所があった北東部を望む。境内で空砲を轟かせたり、豚や鶏を飼って食べるなど傍若無人の振る舞いに門主をはじめ参詣者、付近住民は大変迷惑したとか


幕末政治史が専門です。明治維新は坂本龍馬に代表される下級藩士の活躍ばかりがクローズアップされていますが、決してそれだけではありません。特に越前藩は将軍と縁戚にあるにもかかわらず、お殿様自身が薩長と手を組んでいます。そうした動きを中心に研究を進めています。
 大学の授業のほかに、一般の方々を対象にしたREC講座の講師もしています。昨年は「新選組―幕末を駆け抜けた男たち」、今年は「幕末期の京都―新選組をめぐる政治状況」という新選組関係の講座を担当したところ、多くの方の参加をいただいています。受講者の皆さんは本当に熱心ですね。
 実は、新選組は当時の史料ではほとんど出てこなくて、唯一「池田屋事件」関連に登場するくらい。お抱えだった会津藩の文書にもあまり出てきません。小説や映画、いわゆるメディアに取り上げられたということが脚光を浴びた理由でしょう。隊士1人ひとりの名前も残っていますから、親しみが持てます。ただ、新選組に関するバイブルといわれる子母沢寛著『新選組遺聞』は昭和4年に書かれたもの。新選組が駐屯していた八木源之丞の息子である為三郎さんへの聞き書きがもとになっていますが、幕末期に少年だった為三郎さんも高齢になっておられるので、真偽のほどは疑問です。
 新選組は逆賊、いわば罪人です。ようやく昭和になって再検証されるようになったということでしょう。赤穂浪士が事件後100年ほど経ってから歌舞伎に取り上げられ、人気を博したのと同じ。とにかく最終的に「負けた」ということが、日本人の「敗者の美学」「判官びいき」に結びついたのだと思います。
 研究者としては、正直に言って新選組だけをテーマにするのは難しいです。新選組のことを明らかにしても明治維新史が変わることはありません。「事実」だけで終わって広がりがないからです。ファンの方は不満でしょうが、私はあくまで幕末の動乱期に京都の治安維持をした1団体にすぎないと思っています。
 とはいえ、私が歴史を好きになったのは、小学生の時に日本史のマンガで新選組を知ったのがきっかけ。くしくも私の誕生日は近藤勇が亡くなった日です。こうして新選組のことをお話するのもきっと不思議なご縁があるのでしょう。ちなみに新選組による経済効果は166億円とのこと。私自身も講座や講演を依頼されるようになり、その恩恵を少しは受けているかも知れませんね。

 
壬生から本願寺へ、そして3番目の屯所となったのが不動堂村。現在はリーガロイヤルホテル前にある碑がそのことを伝える。大名屋敷にも劣らない豪華な造りで、1度に30人が入浴できる風呂もあったそうだ。しかし、新選組がこの屯所を使ったのはわずか半年。京都最後の屯所となる伏見奉行所で激戦を迎える   天満屋跡の隣にある「美好園」もタイアップキャンペーンに協力。パンフレットを持参すると、冷たい煎茶の接待と天満屋事件の詳細を書いた資料がもらえる。座敷ではのんびりと抹茶(500円・菓子付き)もいただける


ゆかりの地巡りのゴールは龍谷大学大宮学舎。夕暮れからライトアップされる姿を見ながら新選組に思いを馳せてみては。新選組活動期の、龍大については18ページの「龍大歴史散歩」で紹介
 

本願寺のある堀川通から東へ一筋の油小路通には、坂本龍馬暗殺の疑いをかけられた紀州藩士・三浦休太郎を、海援隊隊士らが討ち入った「天満屋」の跡がある。また新選組を離党した元参謀・伊東甲子太郎が闇討ちに遭い、息絶えた「本光寺」も近い
     

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