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今回からスタートした「古都(こと)・湖都(こと)歩く」は、 龍谷大学の3キャンパス周辺の史跡や民芸品など、 その土地ならではのさまざまなモノやコトにスポットをあてて紹介する新企画。 今回は、瀬田学舎のある大津市の伝統民画「大津絵」について、 大津市指定無形文化財大津絵師の四代目・高橋松山(しょうざん)さんを訪ねた。
現在は、紙に描かれたもののほか、絵馬やひょうたん、皿や掛け軸などもあり、大津市を代表する郷土みやげとしてよく知られている。 絵に取り上げられるモチーフもさまざま。代表的な「鬼の寒念佛」、「藤娘」をはじめ、仏画、美人画、武者絵…と多種多彩。その歴史は古く、1640年頃、寛永年間にさかのぼるといわれている。 「大津絵はあくまで大衆芸術。いわゆる『民画』ということです。もともとは、東海道を旅する旅人向けに売っていたもので、題材も最初は『仏』を描いていました。松尾芭蕉の句に『大津絵の筆のはじめは何仏(なにぼとけ)』とあるように阿弥陀仏、十三仏、不動尊など、徳川時代、大衆に求められるままに庶民の信仰の対象を描いていたということですね」と語る高橋松山さん(72歳)。 高橋さんは大津絵師であり、現在、大津にただ一軒残る「大津絵の店」の四代目でもある。 大津絵は、仏画のほか、モチーフは100種類以上にのぼる。平和な時代には美人画が、高度成長期には武者絵が飛ぶように売れたという。民衆に愛され、親しまれてきた歴史が、よく分かるエピソードだ。 「おそらく江戸の浮世絵と同じ経過をたどったと思います。その当時、大津は1万5千人ほどの町でしたが、東海道有数の宿場町として栄えていました。そこで、武士も町人もみやげものとして大津絵を買い求めて持って帰ったため、全国に広まったと言われています」 当時、徒歩の旅行者にとって“軽くて安くて珍しい”大津絵は、大変な人気だったのだという。そのころは絵を売る店も多く、逢坂山を越えた大谷・追分あたりで、道中を行き交う旅人に売られていた。しかし、明治20年に開通した鉄道の影響で客が減り、高橋さんの店も現在の三井寺参道に移らざるを得なかった。 「時代の流れですね。明治になり、西洋文化が急速に入ってきて、大津絵も衰退してしまいました」 今は一軒のみになってしまったという大津絵の店だが、初代・高橋松山が守り伝えた大津絵特有の技法は、今も、四代目松山さんと五代目の信介さんによって受け継がれている。
人の愚かさを描く「鬼の寒念佛」の精神
「大津絵の半数は強烈な『人間風刺』です。江戸中期から、人の愚かさや滑稽さを表した風刺画が描かれるようになりました。鬼の寒念佛はその代表的なもので、ここに描かれている鬼は人の心そのものを表しています。僧衣をまとう鬼は『偽善者』を表し、顔かたちは鬼なのに衣装と小道具だけまねても無駄だと言う意味。また、鬼の角は人間の我執(がしゅう)を表しています。片一方の角が折れているのは、『我を折れ』という教えが表現されているんですよ」 ほかにも、「瓢箪なまず」は、つかみどころのない人の心を表し、「猫と鼠」は、いつかは食べられる身なのに、猫と仲良くしようとする身の程知らずの鼠を描いている。いずれも、一筋縄ではいかない、人の心や人間関係を表現したものだ。 「大津絵は、社会風刺でなく人間風刺がテーマになっているので、時代が移っても変わらない普遍性があるのだと思います。だからこそ現代にも通じるものがあるのでしょう。絵の持つ精神が今も生きているんです。その精神がいつの時代も民衆の心をとらえたため、数百年も生き残ってきたのではないでしょうか」 一見庶民的でとっつきやすいのに、実はチクッと刺すようなユーモア感覚と、深い教訓が息づく大津絵の世界。高橋さんが主宰する大津絵教室でも、この奥深さに惹かれて通う人が多いという。人の心の奥底をとらえる風刺精神こそが、ほかの民画と一線を画す大津絵の最大の魅力かもしれない。
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