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●今号から、従来のOB登場・OG登場・人短信を統合し、「龍谷人」として様々なジャンルで活躍する卒業生や在学生を紹介していきます。
以前の高木さんには夢が2つあった。1つは一度海外で生活すること。もう1つはフリーライターになること。 「希望の家の存在を知ったことで夢が一歩前進しました。行かないことの後悔と、行って失敗する後悔を考え、行くことを決断しました。やると決めたらスイッチが入るんです。僕は良く言えば有言実行タイプ、まぁカッコつけなんです(笑)。タイ語も話せないくせに」と日焼けした顔に笑顔が似合う。 カメラのファインダーをのぞき込むかわいらしい男の子の表紙をめくると、青ばなを垂らした男の子や国籍を取得したと喜ぶ少年の写真に思わず目が奪われる。しかし、本文を読み進めるうちに、彼らの置かれた状況が次第に分かってくる。 「エイズ孤児といえば暗くネガティブに捉える人がいますが、必ずしもそうじゃないんです。どんなに辛い環境にあっても強く生きて、笑顔を忘れてはいけないと逆に子どもたちから教えられました」 希望の家との出会い、そしてタイへ 希望の家は、貧困に苦しむタイ山岳民族の生活衛生や医療援助などを行なってきた国際看護士・大森絹子さんが創設したエイズ孤児施設。両親か片親をエイズや麻薬中毒、貧困などで失った子どもたちが養われ、教育を施している。 高木さんが希望の家に出会ったのは1998年、24歳の時だ。 「当時、『週刊ザテレビジョン』の新人記者で、テレビ番組の予告コラムを担当していました。ある日、大森先生のドキュメンタリー番組の資料を見つけ、記事にしたのですが…」 テレビに映る大森さんは、鬼神のような顔つきで険しい山岳を登って行く。その常人離れした仕事を成し遂げる姿を見て、自身のタイ旅行の経験を交えただけで安易に書き上げたコラムに自己嫌悪を覚えたという。 「それからいくら仕事に忙殺されても、大森先生の活躍する姿が頭から消えませんでしたね。『世間の反響があるのはテレビや雑誌などで取り上げた時だけ』と言う先生の嘆きもずっと耳に残ってました」 申し訳ない気持ちで寄付をするうちに、手作りの会報誌が届くようになった。遠い国の子どもたちが身近に感じるにつれて、彼らに会いたいという感情がどんどん高まってきた。 2001年、思い立って仕事を辞め、タイへ旅立った。 事態は思わぬ方向へ 「朝はタイ語の習得、昼は希望の家での生活、夜は取材ノートの整理と日々忙しく動きました。当初の滞在予定は1年。タイの子どもたちと僕の交流で1冊の本になればと思っていましたが、そんな矢先、頭が真っ白になる出来事が起こりました」 それは、希望の家創設者の大森さんがガンで亡くなった知らせだった。「希望の家を高木さんに託したい」という最期の言葉を伝え聞いた27歳の取材者は愕然とする。 「いきなり『タイの15人の子どもたちの面倒を見てください』と言われたようなもの。希望の家に関する相談相手もいないし、戸惑いというか恐怖を感じましたね。それと同時に自分の人生を見つめ直しました」 それでも何とか現地のスタッフと日本の関係者との調整をつけ、帰国した高木さんは、当初の構成を変更しながら8ヵ月かけて執筆。長編となった『スマイル!』は、「SMAP×SMAP特別編・サワディー!僕が旅で見つけた宝物」(フジテレビ系・05年3月28日放送)の参考図書に選ばれ、高木さん自身もSMAP・草g剛さんの案内役として番組に登場。いつの間にか、一取材者から希望の家には欠かせない存在になっていた。 まずは行動から
「バイトで忙しく、大学時代は勉強した記憶はないです(笑)。でも、あの時代が今の僕の土台になっている。1年生のゼミの教授から聞いた『学生の数だけ生活がある。勉強だけでなく胸を張れる学生生活を過ごしなさい』という言葉をずっと意識していたのを覚えています」 出版の仕事にどうしても就きたかった高木さんは4年生の時、学生不可のところを強引に頼み込み、雑誌社の編集部でアルバイトをしていた。その働きが認められ、卒業後、角川書店に入社する。 「就職もタイへ行くのも、身一つでできることは諦めたくなかったんです。やりたいことがあるのなら、自分から飛び込んでいかないと始まりません。まずは行動を起こすことが大事ですから」 現在は、アジア関連から国内の事件事故取材など幅広く活動する高木さんだが、その忙しい合い間をぬってはタイを訪問。希望の家の子どもたちを温かく見守っている。
14歳で能楽・金春(こんぱる)流シテ方・金春晃實(こんぱる・てるちか)師に入門後、17歳で初舞台を踏むが、伝統芸能を女性が続けることに限界を感じ、21歳で断念。その頃から、オリジナル曲を作るようになった。このことが、後に大きな財産となる。 大学卒業後は、家業の寺で僧侶として働きながら、ライブハウスを中心に活動を行なっていた。その頃は、カバー曲を歌ったり、ゴスペルやアカペラなどのジャンルにも挑戦した。しかし、曲作りをするうちに、洋楽を歌うことは“人の服を着ているような”違和感を感じるようになり、オリジナル曲を作ることにこだわりだした。 それがプロを意識したきっかけだ。それからは、プロの音楽家になりたい一心で自作のデモテープを各社に送った。その数100本。そんな中、ある人に「あなたの好きなアーティストが、あなたを理解してくれる最良の人かも」と言われた。ずっとファンだったアーティスト、黒木千波留(「着信アリ」でサウンド担当)との出会いで、目指す音楽がハッキリ定まり、シンガーソングライター「やなせなな」の誕生につながった。 「学生時代から自分が“これだ”と思えることには力を入れました。本格的に音楽活動を始めたのは卒業後。在学中と卒業後では、見えるもの、目指すものも、考え方が変わるんです。学生生活は、社会に出てからどんなことにも順応できるような柔軟性を学んでください。在学中に将来が決まらなくても、長い目で見てゆっくり、焦らずに。本当に自分が何をしたいのか、その時は見えないことも多いから」と、歌姫は学生時代を振り返り、静かにそう語った。
最近よく耳にする「知的財産」。政府は先頃、「知的財産推進計画2005」を発表するなど、「知的財産立国」実現に向けてさまざまな取り組みを行なっている。つまり、国の政策として、知的財産戦略が重要視されているのだ。そんな今、弁理士が注目を集めている。 弁理士とは、特許・実用新案・意匠・商標の出願手続きや登録のほか、特許庁への異議申立や訴訟など幅広い業務を担う国家資格者のこと。特許庁の発表によると、04年度は、受験者8899人に対し、最終合格者633人と合格率はわずか7%にすぎない。働きながら受験する人が多い弁理士の資格だが、西原さんも同様、現在勤務する永田特許事務所で技術者として働きながら合格をつかんだ。 「最初の仕事は、簡単な実用新案登録出願でした。考案の内容を説明する明細書や図面を初めて書くのですから、非常に苦労しました。その時、指導をしていただいた先輩から『文章や図面などの形式面はまだこれからだが、ポイントを見抜くセンスはとても良い』と言っていただいたんです。とてもうれしい一言でしたね。今では、企業の知財部の方からも大変高い評価をいただけるようになりました」 弁理士の仕事は、発明の特許出願やデザインの意匠登録出願、商標登録出願など幅広い知識が要求される。西原さんは現在、これまた国家資格である「情報セキュリティアドミニストレータ」の知識も生かし、主にソフトウェア関係や電気系・機械系分野の特許出願を担当。ビジネスモデルや自動改札機、ATM、プリクラ機、携帯電話機など、企業の出願を中心に活動する。 「クライアントから発明の特徴を聞いて、その陰に潜む隠れた技術上のポイントを引き出し、強い権利が取れるようにブラッシュアップする仕事にやりがいを感じます」と楽しそうに笑った。
法科大学院で学ぶ小谷さんは、有期雇用者の権利を求めて裁判で争った経験を持つ。残念ながら結果は敗訴。裁判後、「問題解決には共通の悩みを持つ原告同士のつながりが必要」と実感した小谷さんは、雇用問題について同様に裁判で争っていた原告たちと6月に「有期雇用全国ネットワーク(有期ネット)」を発足させた。 「パートや契約職員など有期雇用で働く人は、今や1500万人以上、その多くは女性です。基本的労働権も保障されず、『雇い止め(契約更新拒否)』などで泣き寝入りしている人も多い。有期ネットで同じ境遇の人と情報交換し、雇用制度について提言していきたい」と意欲を燃やす。 小谷さんは大学卒業後、海外からの研修生などを受け入れる神戸市の外郭団体に1年契約で最長6年までという条件で勤務。4年目の契約更新の時、新規応募者と同じく採用試験を受けることを一方的に通告された。「再試験制度は職員のやる気をなくす」と労働組合に加入し、撤回を要求。だが、彼女を待ち受けていたのは雇用期間満了による失職だった。 「契約打ち切りは労働組合に加入したことが理由で、不当な解雇だと訴えました。しかし、司法は理由を検討する必要もないとの判断。このままではいけないと考えた末に生まれたのが有期ネットなんです。そして、専門家として問題に取り組むために法科大学院進学を決めました」 将来は「労働問題だけでなく、女性や外国人の人権問題などにも取り組みたい」と語る小谷さん。「“弱者”と呼ばれる人たちも、一人ひとりが素晴らしい力を持っています。その力に私の経験や法律の知識をプラスして、同じ目線で、共に悩みながら行動する弁護士になりたいですね」と力強く語ってくれた。
二人は、NOMOベースボールクラブのメンバー。代表最後の切符をもぎ取って初出場した都市対抗野球。クラブチームとしては27年ぶりの快挙だ。惜しくも一回戦で敗退したが、彼らの活躍は多くのメディアで紹介された。その後、9月に開催された第30回全日本クラブ選手権では、雪辱を胸に挑み、見事クラブチーム日本一の栄冠を勝ち取った。 “どうしても野球を続けたい”そんな思いを抱きながらも企業チームの相次ぐ廃部などで、思いが遂げられない選手のために設立されたNPO法人の同クラブは、日本人メジャーリーガーのパイオニア・野茂英雄投手が設立したチームだ。現在、クラブ会員の会費などをもとに活動しているが、選手の多くはアルバイトなどで生計を立てている。 富田さんは、3年次に野球部を辞め、4年生の7月に入団した。野球部との二重在籍が認められないからだ。「今の野球部には自分は必要ないと感じ、迷ったあげくテレビで知ったクラブの門をたたきました」と振り返る。一方、柿原さんは、企業チーム入りを目指したが夢は叶わず、野球を続けたい一心で、「後悔したくない。今を大切にしよう」と今年2月に入団した。 「皆さんのおかげで野球ができることに、ホント感謝してます」と富田さん。「大学時代は、野球をするのは当たり前。今は野球ができる喜びで一杯です」と柿原さん。 平日の練習は、午後7時から12時までみっちり。家にたどり着くのは午前1時過ぎだ。数時間後には仕事が待っている。そんな過酷な毎日を送っている彼らだが、「好きな野球ができるだけ幸せ」と口をそろえる。 後輩たちへは、「今しかできないかもしれない野球を、思いっきり楽しんでほしい」と柿原さんが語ると、「やっぱり神宮へ出場してほしい」と富田さんが願いを加える。 現役プレーヤーにこだわる柿原さんは、「目標を持ち続けることが大事。それがなくなったらキッパリやめる」と決意のほどを語る。 プロ入りを夢に、彼らの挑戦は始まったばかりだ。
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