龍谷 2006 No.61
対談 「宮沢賢治の銀河世界」
宮沢賢治イメージ

おしゃれでユーモアのあった賢治さん

鍋島 私たちはテロ、凶悪犯罪、虐待など、信じられないような現実に直面しています。今、必要なのは宮沢賢治さんが見た美しい世界ではないでしょうか。その世界の背景には仏教が存在します。今日は、賢治さんの弟・清六さんのお孫さんで、賢治さんにまつわるさまざまな取り組みをされている、林風舎代表取締役の宮澤和樹さんに岩手県花巻市からおいでいただき、賢治さんの仏教観や宇宙観をお話いただきたいと思います。
宮澤 宮沢賢治というと、ストイックで暗いというイメージがあるようですね。私が甥の子どもだというと、「ああ、あの薪を背負っている人」と言われることがありました。二宮金次郎さんと間違えてるんですね(笑)。しかし、私の家では「賢治さんはユーモアのある面白い人だった」と伝わっているのですよ。
鍋島 うつむいて歩いているこの写真からきたイメージでしょうか。
宮澤 これはクラシック好きの賢治さんが、新しいカメラを買った友人にベートーベンの真似をして撮ってもらった写真です。
鍋島 おちゃめな方だったのですね。
宮澤 そうですね。それにとてもおしゃれです。歩くのが好きで体格もがっちりしていました。
鍋島 賢治さんは浄土真宗の篤信の家庭で育ち、子どもの頃から暁烏敏など、そうそうたる仏教学者の講義を受けていました。しかし、青年期には法華経の世界に入っていった。その理由はなんでしょうか。家への反発からでしょうか。
宮澤 私は研究者ではありませんので想像でしかありませんが、やはり父親との葛藤でしょうね。賢治さんは子どもの頃から常にお寺に出入りしていましたが、当時、花巻の真宗門徒には裕福な家庭の人が多く、賢治さんの家も質屋を営み、貧しい農民を相手にしていました。そのギャップを生活の中で感じ、仏教とは?という疑問が生じたのでしょう。
鍋島 なるほど、当時の花巻には豊かな人々のための浄土真宗というイメージがあったのですね。
宮澤 日蓮宗は現世利益、この世の理想社会を実現することを打ち出しています。賢治さんは岩手県を「イーハトーブ」、つまりドリームランドにしたかったのでしょう。当時、日蓮宗のお寺がなかった花巻にお寺を造ったほどです。いやあ、しかしこういう話を龍谷大学でするのは、なんだか抵抗がありますね(笑)。
鍋島 賢治さんはかなり反抗したようですが、お父さんの愛情も深いですね。
宮澤 そうですね、両親の愛情がなかったら、素晴らしい作品は生まれてなかったでしょうね。

宮澤和樹氏
■宮澤和樹
(みやざわ・かずき)
(株)林風舎代表取締役。宮沢賢治の弟・清六の孫にあたる。

「雨ニモマケズ」を記した手帳を復刻

鍋島 和樹さんは、あの『雨ニモマケズ…』が記された手帳を復刻されましたね。その中の「ヒドリノトキハ」の部分ですが、私たちは「ヒドリ」ではなく「ヒデリ」と習いましたが。
宮澤 これは作品として発表するつもりではなく、自分の心境を手帳に書いただけなのでしょう。手帳には確かに「ヒドリ」とありますが、祖父が高村光太郎氏らと一緒に編集するときに、「ヒデリ」と改訂したそうです。一説に「ヒドリ」とは岩手県のある地域の方言で「日雇いかせぎ」を意味するそうですが、祖父も「ヒドリ」という言葉は知らなかったそうですし、前後を考えて「日照り」とした。他の部分には方言が入っていなかったからということもあります。
 どっちが正しいか、というより僕はどちらでも良いと思います。それよりも「玄米四合」を戦時中は「二合」に直されたと聞いています。そうした改訂の方が問題だと思っています。
鍋島 何かに偏ってしまうと、イメージが損なわれてしまいますからね。仏教は偏りのない心を大切にしています。「ヒドリ」「ヒデリ」、どちらもそれぞれに深い意味がありますね。
宮澤 祖父は「中庸」という言葉を使いました。そのときの状況に合わせて柔軟に考えていけば良いということです。
鍋島 仏教では、一つの言葉にしがみつくのを「煩悩」といいます(笑)。
宮澤 齋藤孝さんの本『声に出して読みたい日本語』がヒットして以来、日本語ブームというか、賢治の作品もまたまた注目を集めています。それで『雨ニモマケズ』をコマーシャルに使いたいという依頼がしょっちゅうあります。リフォーム会社だったり、消費者金融だったり(笑)。
 私どもの林風舎は、宮沢賢治の作品、写真などのイメージを守るために設立しました。没後50年で著作権はなくなりますが、特定の会社のPR道具になるのは別です。賢治さんの人格を守るのは私たちの役目。写真にも必ずコピーライトのマークを入れてもらっています。

手帳「雨ニモマケズ…」
■手帳「雨ニモマケズ…」
手帳の51〜59ページに記入。
昭和6(1931)年11月3日の日付。病床での密やかな悲願自戒の記録。死後に発見された。

書くことは仏教の心を伝えること

鍋島 本当の賢治さんの心を守っていくということですね。もう一つ尋ねたいことがあります。その手帳の詩の最後に「南無妙法蓮華経」とあります。これはこの詩のまとめの言葉なのでしょうか。
宮澤 「南無妙法蓮華経」がたくさん書いてある、曼荼羅ですね。「南無妙法蓮華経」が『雨ニモマケズ』の作品に含まれるかどうかは、書いた本人にしか分からない。でも限定されないほうがいいと私は思っています。
鍋島 身近な仏さまを手帳に書きとめて、守ってもらいたいと思っていたのかも知れませんね。
宮澤 この詩で重要なのは、「東ニ病気ノコドモアレバ」「西ニツカレタ母アレバ」などの次に続く「行ッテ」という言葉だと祖父は言っていました。待つのではなく、行って実践するということです。
鍋島 お祖父様は賢治さんの死後、ものすごい努力ですべての作品を出版されました。
宮澤 賢治さんは37歳で早逝しましたが、その代わり祖父は97歳まで生きました。世の中に宮沢賢治を紹介しようという一念だったと思います。第2次世界大戦の空襲では、作品や手紙をもって防空壕に飛び込み、味噌や醤油をかけて火から守ったそうです。そして、実家が全焼した時は「せいせいした」と言っていましたね。やはり賢治さんと同じように、質屋や古着商の名残がある家が嫌だったのでしょう。祖父はずっと古道具や古美術が嫌いで、ガラスやプラスチックが好きでしたね。
鍋島 童話『どんぐりと山猫』では、比べられない命をテーマにしています。この作品には仏教の世界観が流れていると感じます。
宮澤 それを伝えたいために書いたのだと思いますよ。賢治さんは国柱会という宗教団体に入りたいと東京へ行きましたが、そこで「あなたができることで教えを伝えていきなさい」と諭されました。それが文章を書くことだったのです。賢治さんは思春期の人に読んでほしいと言っていたそうです。
鍋島 教えを伝える信仰の仕事がすなわち、童話だったのですね。僕は思春期が遅いのか(笑)、最近になって『注文の多い料理店』の序文が大好きになりました。「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます…」。
宮澤 教科書で習った時は、暗い印象で宮沢賢治が嫌いだったけど、大人になってから好きになったという人も多いですよ。年齢やその時の状況で受け止め方が違いますね。
鍋島 何度でも読めばいいのですね。ところで「桃いろの日光」は、岩手県には本当にあるのですか。
宮澤 ええ。花巻市は盆地で広い平野があります。朝もやの中、日が昇ってくると太陽の周りにモワモワと光の筋が見えてきます。これが、チンダル現象というものなのでしょう。賢治さんは「光のパイプオルガン」と表現しました。

鍋島直樹 法学部教授
■鍋島直樹
(なべしま・なおき)
法学部教授。人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター副センター長。専門は真宗学。

宇宙世界を知っていた科学者

鍋島 今日は『銀河鉄道の夜』に書かれている世界もお聞きしたいと思っています。タイタニック号で亡くなった人たちも登場してきますね。
宮澤 ちょうどその頃、タイタニック号が沈んだことがニュースになっていた時でした。ちょっと前にはアインシュタイン博士が日本にやって来ました。その相対性理論と仏教観を科学的に結びつけて、4次元、5次元の世界を構築していった作品です。タイタニックで亡くなった人が銀河鉄道に乗り込んでくるわけですが、ハレルヤが聞こえる途中の駅で降りていく。天国はそこにあるが、仏教はまだまだ先にあるということを言いたかったのではないか、と思っています。
 ますむらひろし氏が漫画化したものがアニメになり、その音楽を元YMOの細野晴臣さんが担当した。細野さんのお祖父さんは、タイタニック事故で日本人でただ一人助かった人ですが、大変なバッシングを受けたそうです。それで細野さんはこの仕事は偶然じゃないと喜ばれました。
鍋島 なるほど。自分だけが生き残った罪責感もあったでしょう。孫が偶然、作曲にかかわったとなるとうれしいでしょうね。『銀河鉄道の夜』では、どこまでも続いている循環している命や、相互に支え合い自分と他人の区別を超えた世界が感じられますね。そして、農民の幸せを願って書いた『農民芸術概論』も印象的です。
宮澤 祖父は『農民芸術概論』が賢治さんの作品の“根っこ”だと言っています。そこから童話などに枝葉が広がったのだと。
鍋島 思想の根源がそこにあるわけですね。「まずもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばろう」という部分は、特に大切にしていた言葉だそうですが。
宮澤 微塵というのは肉体が死ねば宇宙に散らばり、再び、混沌として散らばっている状況から核になることを繰り返す、エントロピーの法則のようですね。
鍋島 相互相関の世界ですね。
賢治さんと弟・清六さん
■宮沢賢治さん(右)と弟・清六さん
陸軍大演習を終えて。(大正14(1925)年10月頃、仙台にて)

宮澤 賢治さんは科学者でしたね。ある日、宇宙飛行士の毛利衛さんが岩手に来られました。『銀河鉄道の夜』を読んだことが宇宙飛行士になるきっかけになったそうです。「私はスペースシャトルに乗ったけれど、賢治さんはなぜ宇宙の姿が見えたのでしょう」と祖父に聞くと、祖父はじっと考えてから「たぶん、見えたのでしょうな」と答えた。すると毛利さんも「ふんふん」とうなずかれました。
 賢治さんはゴッホの絵が好きなんですが、ゴッホの作品に空が渦巻いた絵があります。それが銀河系の渦と非常に良く似ているのです。ゴッホはなぜ空に渦があることを知っていたのでしょう。ゴッホも生前は作品が売れず、没後に弟の手によって世に出ました。賢治さんと非常に似ていますね。
鍋島 清六さんが書かれた文章に、賢治さんは晩年、衰弱した身体で「もう大循環の風の中に溶け込んでしまいたい」とつぶやいたとあります。それが以前よりも明るい顔だったと。
宮澤 「風を感じていなければいけない、世の中が風で動いている」と賢治さんはよく言っていたそうです。童話『グスコーブドリの伝記』では、火山を爆発させて冷害を防ごうという描写があります。CO2を噴出させることで気温が上がることを知っていた。つまりは温暖化を防ごうという知恵を賢治さんはすでに持っていたといえます。これからもアッと驚くことが次々と分かるかも知れませんね。
鍋島 火山を爆発させるには人が一人必要。そこでブドリという子が手を挙げる。自分自身は宇宙の微塵になって……いつ読んでもいい物語ですね。
宮澤 賢治作品もある時期が来れば忘れ去られると思いますが、ここ100年ぐらいは読み継がれるでしょう。曲げたり、変な利用のされ方をせずに、ニュートラルに伝えていきたいですね。その窓口として、いろいろな方に助けていただいています。今日も貴重な機会をいただいたことに感謝しています。

宮沢賢治プロフィール
■宮沢賢治(みやざわ・けんじ)
明治29(1896)年岩手県稗貫郡(現・花巻市)に、質・古着商を営む父・政次郎、母・イチの長男として生まれる。幼い頃から父の始めた「我信念講話」に参加。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)在学中から同人誌で著作活動を始め、花巻農学校教諭時代に多くの童話を書く。昭和8(1933)年に37歳で没。
 
林風舎
■(株)林風舎
宮沢賢治の作品展示をはじめ、作品をモチーフにしたグッズを販売するショップやカフェも併設。多くの賢治ファンが訪れる。『北守将軍と三人兄弟の医者』のリンプー医師から名付けられた。
〒025−0092 岩手県花巻市大通り1丁目3−4
TEL:0198−22−7010
林風舎ホームページ

宮澤和樹さんとの特別対談を収録した
DVDの発売が決定!
『宮沢賢治の銀河世界』宮澤和樹・鍋島直樹編
(2006年6月刊行予定/方丈堂出版)

「いのちへの慈愛 宮沢賢治・民家の世界」展を開催

宮沢賢治・民家の世界  
 仏教生命観に基づく人間科学の総合研究を進めている人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センターは、昨年11月14日から12月21日と今年1月12日から2月10日にかけて、「いのちへの慈愛 宮沢賢治・民家の世界」をテーマにした展覧会を深草学舎至心館の研究展示館パドマで開催した。
 この展示会は、宮沢賢治の童話や詩には、殺生してしか生きられない“いのちの悲しみ”と、それがゆえに願う“いのちの尊さ”があふれていることに注目し、宮澤家や花巻市、宮沢賢治記念館などの協力のもとに開いた。
 会場には、『永訣の朝』『銀河鉄道の夜』『春と修羅』『雨ニモマケズ』などの賢治直筆原稿や手帳(いずれも複製)のほか、宮澤家ゆかりの「バタグルミの化石」などを展示。同時に、国際的な造形作家の内山正一氏が『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』『よだかの星』など賢治の童話風景を立体的に表現したミニチュア作品も並べられ、会場を訪れた人たちは、宮沢賢治の仏教的生命観と世界観を感じ取っていた。
注文の多い料理店
『注文の多い料理店(二人の紳士と料理店)』内山正一氏作

←トップページへ戻る