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2005年度後期から始まった 東京での生涯学習講座。第1弾となる講座(全3回)では、20世紀初頭の中央アジアで、 仏教伝播の調査を行なった大谷探検隊の軌跡を追う。 今回、入澤崇教授による第1回の講座を訪ねた。
探検隊の隠れたリーダー・藤井宣正
この日開催されたのは、西本願寺第22代宗主・大谷光瑞師(鏡如上人)が組織した学術調査隊・大谷探検隊の軌跡を追う講座シリーズの第1回。1902〜14年にかけて中央アジア・インド・東南アジアへ3度にわたり仏教伝播の軌跡を追う調査へ向かった同隊は、特にシルクロード研究を推し進めることとなる調査成果を残し、貴重な遺物・古文書を日本に持ち帰ったことで知られる。 しかし今回、入澤教授が取り上げたのは、これまで光が当たることが少なかった同隊とインドとの関係と、光瑞師の陰に隠れがちながら第1次のインド調査で実質的リーダーであった藤井宣正(1859〜1903年)の役割についてだ。 藤井宣正は、西本願寺からの内地留学生としては初めて東京帝国大学(現・東京大学)に入学。卒業後、西本願寺文学寮教授となった人物。日本で初めての仏教通史となる『佛教小史』(1891年)を著すなど、仏教学のエキスパートだった。 1900年、彼は本願寺の命を受けロンドンへ赴く。当時、日本ではまだ考古学という学術分野が未熟だったが、宣正はこの分野が発達した同地で、大英博物館やサウス・ケンジントン博物館(現・ヴィクトリア&アルバート美術館)に通い、仏教美術研究の最新動向に触れることになる。この最先端の知識を吸収した宣正が加わったのが、第1次大谷探検隊(1902〜04年)の中でインドを中心とする調査隊だった。 一般にもよく知られるインドの石窟寺院エローラやアジャンターを、日本人として初めて本格的に調査したのが宣正らだったという。しかし、200日以上に及ぶ行程のレポートが日本へ送られた後に紛失してしまったことで、彼らの調査は正当な評価を受けることができなかった。
島崎藤村との不思議なかかわり 学術レポートは失われたものの、隊の様子は宣正が記していた日記である『印度霊穴探見日記』(霊穴は石窟寺院のこと)などに垣間見られる。もともと体が弱かった彼は劣悪な環境の中で腸を患いながらも、昼夜を惜しんで同地での研究・調査に打ち込んだ。しかしこれがたたってか、1903年に再びロンドンに向かおうとする直前、45歳という若さで命を落としてしまう。 意外なことに、藤井宣正の存在にまず光を当てたのは、島崎藤村の研究家だった。実は、藤村の短編小説『椰子の葉陰』の主人公のモデルが宣正なのだ。藤村が「破戒」で描いた蓮華寺のモデルは、宣正の妻の実家であり、宣正がインドから日本へ送った絵葉書や彼の書き残したものを見て、藤村は小説の着想を得たのだった。 今回の受講者の中には藤井宣正の親族の姿もあった。講座終了後には、入澤教授に熱心に質問する受講者の姿が見受けられ、大谷探検隊に対する強い関心が伺われた。
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