龍谷 2008 No.66

龍谷人偉人伝 最小の効果のために最大の努力を惜しまない 大衆とともにあり 伽藍再興に生涯を賭ける

木村 睦 薬師寺管主 高田 好胤

 「この塔はなぜ美しいか、あなたたちの目で、よく見てください。
ほかの寺の塔と形が違うでしょう。屋根が三層ありますが、
その屋根と屋根の間に、裳階(もこし)というのがついています。
それで六階のように見えますが、三重塔です。どうか誤解(五階)のないように」
  生徒たちには、坊さんの洒落が、すぐにはわからなかった。しばらくして笑った。 
太田信隆著 『まほろばの僧 高田好胤』草思社より

「凍れる音楽」とかつてフェノロサが賛美した薬師寺東塔の説明も
ユーモアの溢れる語りで人々を魅了した。
そのユーモアは、6百万人という子ども達の笑いに変わり、8千回の講演で親達の笑顔を誘った。
そして、百万巻写経勧進への道を開き、白鳳の大伽藍を現代に蘇らせる布石となった。



薄膜トランジスタ
写真提供:高田 都耶子
橋本凝胤と深浦正文
好胤を育てた二人の師


 高田好胤は1924年、大阪に生まれた。父親の貞明は証券会社に勤めていたが、好胤が小学校4年生の時に肺結核で他界。母方の叔父の聖準(しょうじゅん)が住職を務める東大寺龍蔵院に引き取られたが、ほどなくして法相宗大本山薬師寺の橋本凝胤の弟子となった。好胤は、“20世紀最後の怪僧”といわれた凝胤の容赦ないスパルタ式教育で鍛えられた。朝は5時に起きお堂に参った後、1時間ほど掃除をおこない、全速力で学校に駆けつける。学校から帰ればお経の稽古が待っており、間違えれば火箸で叩かれ、居眠りをすれば殴られ、声よりも涙が流れた。庭掃除、水撒き、風呂炊き、晩ご飯が終わっても、くつろぐ暇はない。就寝の挨拶に行けばその日に学校で習った内容を復唱させられる。つまずけば、覚えるまで眠らせてもらえず、夜通し凝胤の枕もとに座っていることもあったという。厳しい修行の日々に師匠を恨み、自らの運命を呪いもしたが、「愛情とはいかなるものか、おやじは身をもって教えてくれた(※1)」と後に好胤は語るほど、その師弟の絆は固く結ばれていたのだった。
  もう一人、好胤を育てたのが龍谷大学時代の恩師、深浦正文教授だ。深浦先生は、仏教学の泰斗で難解な唯識思想を、わかりやすく紐解いた。好胤は、朗々と語る深浦教授の講義に引き込まれ、その髄を吸収した。人を引きつけてやまない好胤の判り易く説かれた独特の説法は、深浦教授の感化を受けているといえるだろう。凝胤の厳格さと深浦教授の懇切さと。対照的な二人の師が好胤の魅力の礎となったのである。


多くの人に仏法の種をまく
青空説法と百万巻写経勧進


 1949年、好胤は副住職に就任した。敗戦の暗闇が日本を覆い、多くの人が行く先を見失っていた混沌のさなか、好胤は「日本人のために、佛法の種をまくのが自分の使命である」と決意した。それは、未来を担う青少年へと向けられた。好胤は、薬師寺に参拝にくる修学旅行生に向けて、説法をおこなったのである。薬師寺や仏像、日本の歴史の事、ユーモアを交えた好胤の説法は修学旅行生を笑いの渦へと巻き込み、魅了した。「靴の脱ぎ方で、君たちの学校の躾がわかりますよ」。「仏さまの前に立ったら、ご挨拶をしましょう」。マイクを使わず、一人ひとりに話しかけ、来る日も来る日も好胤は語りかけた。18年間このような“青空説法”をし、耳を傾けた生徒は6百万人に及ぶ。
  1967年、好胤は薬師寺の管主、翌年に法相宗管長に就任した。それは師匠から言われ続けてきた「金堂再建」への第一歩でもあった。室町時代の戦乱での焼失以来、仮金堂のままであった金堂の再建は薬師寺の悲願であったが、費用をどう賄うかが問題だった。10億円という厖大な金額をどう捻出するか。好胤はこれを「できるだけ多くの人々が参加することによって、多くの人々が仏心に触れて幸せになってもらうことに意味がある(※2)」とし、写経勧進によって達成しようと考えたのである。写経1巻につき千円の納経料。つまり、百万巻が集まらないと目標には達しない。その遠大な計画に、好胤を始め一山の僧侶らは挑んだのである。好胤は、写経を呼びかけて全国を講演に駆け回った。点滴を打ちながらの疾風怒濤の全国行脚は、「最小の効果のために、最大の努力を惜しんではならない」という橋本凝胤の教えを体現していた。ミリオンセラーとなった好胤著の『心』『道』『情』の出版や、東京日本橋三越での月光菩薩展の大盛況も追い風となり、写経が一日5百巻、千巻と集まり、ついに1975年11月、予想を大きく上回り7年で百万巻に到達した。
  1976年4月1日、金堂の落慶の法要が厳かにおこなわれた。
  「このご恩返しは、私が仏法の案内者として今後もみなさまの心の喜び、幸福のお手伝いをしていくしかありません。本当にありがとうございました」と好胤が挨拶をすると、参集者から万雷の拍手がおこり、白鳳の金堂再現を祝うどよめきとなった。


まほろばを求めて
大衆とともに生きた生涯


 金堂再建を果たした後も写経勧進は絶えることなく、1981年には西塔が、1984年には中門、続いて回廊と薬師寺の堂宇は次々に蘇った。現在までに奉納された写経は7百万巻を超えるという。
  「大和は国のまほろば 畳なづく青垣 山籠れる 大和しうるわし」という『古事記』の歌がある。大和の美しさを讃えたこの歌にちなんで、好胤は後年、「まほろば運動」と称して、評論家の村松剛、作曲家の黛敏郎、万葉学者の犬養孝らと日本のふるさとを思う心、日本の伝統、文化を大切にする心を訴える講演活動をおこなった。それは、高度経済成長の波に乗り、物質主義に従属し、心を置き忘れつつある日本人への警鐘でもあった。「親孝行とお米を大事にしなさい」が、好胤の晩年の講演の中心となった。
  11月17日、薬師寺での法話中に、好胤は脳梗塞の症状が現れて、緊急入院となった。一時は持ち直したが、持病の胆石が腫瘍となり、再入院。1年半の闘病の後、1998年6月22日、好胤は遷化した。  
  大衆の中にあり、大衆とともに白鳳伽藍を蘇らせ、大衆のために生きた。74年の生涯だった。好胤には第9回龍谷賞が贈られている。


薬師寺 薬師寺 薬師寺

龍谷人偉人伝 高田好胤に寄せて
太田信隆 龍谷大学客員教授
太田信隆 龍谷大学客員教授

 好胤さんは、なぜ、こんなに様々な人の心をとらえたのか。薬師寺という名刹の坊さんであった事もあろうが、それだけではない。鍛えられ努力をし、持ち前の才覚を生かした。好胤さんは、「和顔愛語(穏和な顔つきで、相手を思う優しい言葉)」の人であった。この人と出会い接した人は、通俗な言い回しではあるが、男も女も、その人柄に「惚れた」と言ってよい。
  ある時、私は「管長が一番好きな歌は、どんな歌ですか」と尋ねた。すぐさま、「恩徳讃や」と、答えが返ってきた。好胤さんの薬師寺は法相宗であるが、親鸞聖人の和讃に曲がつけられた讃仏歌の恩徳讃が大好き、というのである。龍谷大学の学生であった頃に覚えたのであろう。「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても 報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」-。作曲は幾つかある。浄土真宗本願寺派では、清水脩の曲で歌うことが多い。法要の後などに合唱する。好胤さんは言った。「真宗の人は、歌うだけではなしに、この親鸞聖人の和讃の心を、噛みしめてほしいなぁ」。こう語った時の顔が、今も目に浮かぶ。


安田暎胤 現 薬師寺管主
安田暎胤 現 薬師寺管主

 私が高田と出会ったのは12歳、薬師寺に坊主としてやってきた時でした。兄弟子の高田は26歳で、第一印象は綺麗で美しい人。話し上手でたちまちに高田ファンを作ってしまう、特異な魅力をもった人物でありました。
 百万巻写経勧進は、高田を中心に、薬師寺の僧侶が一致団結してなし得た大事業でした。当初、目標の百万巻は「太平洋を裸で横断するようなものだ」と揶揄され、到底不可能な事と思われていました。しかし、高田は臆する事なく、ひたすら全国講演に回りました。一つの事に誠心する不屈の精神が、百万巻写経勧進を成功させた要であったと感じています。
 薬師寺では高田の遷化後も、多くの方の写経をいただいております。現在まで7百万巻に達する写経勧進は、2003年に大講堂を復興する柱にもなりました。
  それは、高田の精神を現在に受け継いだ、薬師寺の僧侶達による絶え間ない努力ゆえでありましょう。高田が遷化して10年、一人では高田に及ばずとも、総合力で高田に足る力を培ってきました。高田ほど一般大衆にわかりやすく仏教を説いた人はいません。そんな仏法伝道の最大の功労者を、薬師寺が今に守り継いでいく事が使命であると思っています。



※1・※2 高田好胤著『心』/徳間書店  <参考文献> 太田信隆著『まほろばの僧 高田好胤』/草思社、高田好胤著『心』/徳間書店


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