龍谷 2009 No.67

RYUKOKU SPORTS│ボマグール・ハッサン選手

 

「外出はあまりしません。日本人の友達と一緒に音楽を聴いたり、インターネットしたり、室内で過ごすことが多いですね。走る時間になると走りに行きます」。
アスリートらしく、ハッサン選手の毎日は、走ることが中心。「課外活動を言い訳にしたくないので、レポートも手は抜きません。授業は仏教が興味深いですね」と、勉強と課外活動を上手く両立させている。


「新しい事をやってみたい」
チャレンジャー精神が来日のきっかけ


 早朝、くいな橋を南へと、鴨川沿いを走るアスリートを見かけたら、それはハッサン選手かもしれない。アフリカの北西端モロッコから来日して7年。2009年夏にはユニバーシアード大会において見事5000メートルのモロッコ代表に選ばれるなど、はるか遠い異国の地で、彼はアスリートとしての道をひた走っている。
 小さい頃から、足の速さには自信があったハッサン選手。小学校時代、優勝できると見越していた地元の大会で4位に終わり、悔しい思いをしたことが本格的に陸上を始めるきっかけになった。元オリンピック代表の陸上部監督の指導のもと頭角を現し、中学3年生の頃には、3000メートルでモロッコ全体の4位になっていた。
 来日のきっかけは、モロッコの監督と交流があった西出監督(現龍谷大学陸上競技部監督、当時京都外大西高等学校陸上競技部監督)に「日本で練習しないか」と、声をかけられたことによる。日本と言えば、経済大国であること、地理の授業で位置を習った事くらいの認識だったが、「新しいことに挑戦してみたい」という気持ちがハッサン選手を動かした。
 高校生活は休日返上で部活に励み、インターハイで数々の成績を残した。その実力が買われ、卒業後はトヨタ自動車九州陸上競技部へ所属するも、タイム更新へのプレッシャーから自身の走りに迷いが生じ、走る目的をもう一度見つめ直そうと、退部。帰国の意思を固めていた時に、再び西出監督の誘いを受け、龍谷大学留学生別科、短期大学部へと進んだ。
 「安心して自分のやれる走りをやりたかった。京都は私にとって故郷みたいな存在。特に、西出監督は高校時代から指導してくれた人。練習メニューも割と自由に任せてもらっています」。

練習は辛い・・だけど
勝利の瞬間は素晴らしい


 ユニバーシアード大会は彼にとって初めての国際舞台。モロッコ代表も初めての経験だ。
 「選ばれた時は、本当にうれしかったですね。結果は17位と悔しいものになりましたが、オリンピックと同じような国際大会を経験できたことは大きい」。
 もともと、「悔しさ」が彼の陸上を始めるきっかけだ。今はその悔しさの根本をいかに理詰めに考えて、練習に活かしてゆくかに重きを置く。
 「負けるのは、自分のせいです。何が足りないか?何を忘れているか?それをつきつめて、練習につなげてゆく。陸上の場合、結果を少し上げるにしても、大変な練習が必要です。体を絞って食事を取って走ってと、毎日の生活の中の、小さな積み重ねから結果が生まれてくる。少しでも手を抜けば全てが無駄になる」。
 2007年4月29日宮崎県延岡市でおこなわれた5000メートルの競技で、ハッサン選手は北京五輪金メダリストのワンジル選手とともに走った。結果は4位だったが、後半に数人を抜くという、納得の走りができた試合だった。日々の練習は厳しくても「強くなりたい」「勝ちたい」「もっと走りたい」と思わせる、原動力でもある。
 「優勝した時に、今までの辛い練習は全て忘れる。わずかな瞬間ですけど、素晴らしい。その瞬間をめざして、これからも走り続けたい」。




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