龍谷68

シリーズ龍谷の至宝8│『龍谷大学 大宮学舎』

本願寺代二十一代明如宗主(大谷光尊)が、
仏教系大学構想の路線を歩み始める象徴として建てた大教校(大宮学舎)は
宗門の教育近代化の象徴であった。
1964年に国の重要文化財として指定されてなお、
学舎の中枢機関を担い、存在感を示している。
今年は大宮学舎が完成して130周年。
その堂々たる佇まいは、これからも守り継がれていくことだろう。

 明治初年。維新政府の神道国教化政策の流れを受け巻き起こった廃仏毀釈は、本山はもとより学林をも揺るがす宗教弾圧であった。同時に、明如宗主が学林の大改革を断行し、学林から大教校の道へ、さらには現在の総合大学へと突き進む、龍谷大学の第一歩となる契機となった出来事ともいうべきでもある。
 宗教的大混乱のなか、明如宗主は宗学以外の暦学、外国語、キリスト教研究などを講じさせて宗門の近代化をはかり、欧州の教状視察のために赤松連城らを派遣した。1875(明治8)年には学校制度が採用され、教学の展開に資するために普通学(西洋的学問)が推進されたが、視察の知見が活かされたのはいうまでもない。翌年、学林は大教校と改称、全国7か所に中教校、各県に小教校が設置された。そして本山周辺で幾度も移転した教学の中心は、ようやく新時代にふさわしい西洋建築の大教校に定まったのである。
 大教校建設は4万4千円強の巨費が投入される一大事業であった。1879(明治12)年、大教校大講堂(現本館)、生徒寮(現南黌、北黌)、守衛所、表門(現正門)が竣工。周囲鉄柵、北渡廊下、食堂も造られたが、残念ながら現在北渡廊下と食堂についてはその姿を見ることはできない。
 京阪神の大学としては初の洋風建築であり、仏教系教育機関がキリスト教のそれに先駆けて完成させた建造物として、大いに人びとの関心を引いたことはことは想像に難くない。
 さらに正確にいえば、大教校が洋に和の要素を織り交ぜた擬洋風建築であったという点だ。扉や上げ下げ窓に取り付けた鋳鉄飾りはゴシック風を呈しているものの、細部の文様には菊や幾何学文様が目立つ。柱やアーチ、純漆喰仕上げの白亜壁といった洋風然とした外観とは一転し、内観は和風意匠を残し、障子、畳敷き、竿縁天井が空間を支配する。その威風堂々とした佇まいから、明如宗主の学制大改革に対する意気込みを、窺い知ることができる。

『本願寺大教校 慶讃会舞楽之略図』

『本願寺大教校 慶讃会舞楽之略図』

明治12年(1879) 木版画

 『本願寺大教校慶讃会舞楽之略図』は、大教校新築を祝って、3日間おこなわれた式典のうち、初日の「慶讃会」の舞楽の様子が描かれた木版画である。式典後の3日間、一般公開時に一枚2銭(3銭?)5厘にてこの木版画が参拝者に配られた事から、慶讃会より以前に描かれたいわば想像図であるが、精緻な構図から、設計士などの指導を受けた絵師の手によるものと想像できる。
 慶讃会は、奈良東大寺の大仏開眼法要と同じ「四箇法要(しかほうよう)」にのっとっておこなわれた。建築と同様莫大な費用をかけ、新時代の幕開けを華々しく祝った様子が本作から読み取れる。本作は、創立300年を迎える1938(昭和13)年頃、名古屋市の古書店より入手したとされる。龍谷大学が所蔵する唯一のものであり、創立370周年に向けて本学が掲げる「進取と伝統」の象徴として、本館とともに守り継ぐべき貴重な資料である。




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