明治初年。維新政府の神道国教化政策の流れを受け巻き起こった廃仏毀釈は、本山はもとより学林をも揺るがす宗教弾圧であった。同時に、明如宗主が学林の大改革を断行し、学林から大教校の道へ、さらには現在の総合大学へと突き進む、龍谷大学の第一歩となる契機となった出来事ともいうべきでもある。
宗教的大混乱のなか、明如宗主は宗学以外の暦学、外国語、キリスト教研究などを講じさせて宗門の近代化をはかり、欧州の教状視察のために赤松連城らを派遣した。1875(明治8)年には学校制度が採用され、教学の展開に資するために普通学(西洋的学問)が推進されたが、視察の知見が活かされたのはいうまでもない。翌年、学林は大教校と改称、全国7か所に中教校、各県に小教校が設置された。そして本山周辺で幾度も移転した教学の中心は、ようやく新時代にふさわしい西洋建築の大教校に定まったのである。
大教校建設は4万4千円強の巨費が投入される一大事業であった。1879(明治12)年、大教校大講堂(現本館)、生徒寮(現南黌、北黌)、守衛所、表門(現正門)が竣工。周囲鉄柵、北渡廊下、食堂も造られたが、残念ながら現在北渡廊下と食堂についてはその姿を見ることはできない。
京阪神の大学としては初の洋風建築であり、仏教系教育機関がキリスト教のそれに先駆けて完成させた建造物として、大いに人びとの関心を引いたことはことは想像に難くない。
さらに正確にいえば、大教校が洋に和の要素を織り交ぜた擬洋風建築であったという点だ。扉や上げ下げ窓に取り付けた鋳鉄飾りはゴシック風を呈しているものの、細部の文様には菊や幾何学文様が目立つ。柱やアーチ、純漆喰仕上げの白亜壁といった洋風然とした外観とは一転し、内観は和風意匠を残し、障子、畳敷き、竿縁天井が空間を支配する。その威風堂々とした佇まいから、明如宗主の学制大改革に対する意気込みを、窺い知ることができる。
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