龍谷人偉人伝 先をよみ、人の和を大切にしたあたたかい先輩、たのもしき先輩 溪間 秀典

溪間 秀典

 1時間19分、試合が中断した。
1978年10月22日、阪急ブレーブスとヤクルトが対戦した日本シリーズの最終戦。ヤクルト1点リードで迎えた6回裏 ヤクルトの攻撃。4番打者が放った打球は、レフトポール際を通過し、ホームランと判定された。
 ブレーブスの上田利治監督はファールであると主張して、選手をグラウンドから引き揚げさせた。
 試合再開を求めるスタンドの声にも監督は全く動じない。
 そうしたなかで、監督を説得し、試合再開へと導いた人物がいた。監督とともに3年連続日本一というブレーブス黄金時代を築いた球団代表、溪間秀典であった…。


龍谷大学時代をともに過ごした松林宗恵との出会

 溪間秀典は1920年9月24日、大阪は天満の万福寺の次男として生まれた。多感な少年時代を過ごし、青年時代は龍谷大学文学部へと進学。溪間はここで無二の親友となる同級生、松林宗恵(※1映画監督)と出会う。意気投合した二人は、週末は溪間の実家に松林が泊まり、平日は松林の下宿に溪間が泊まったりと、毎晩夜が明けるまで語り合った。
 学生時代の松林の日記に「親友はあれど真友は得難し、我が友 渓間秀典は、真友にして信友なり(※2)」とある。
 溪間もまた後に産経新聞に「数多い交友録の中から一人選ぶならば、映画監督の松林宗恵君ということになる(※3)」と示している。お互いに強烈に影響を受けあった事がうかがえる。
 そんな充実した学生時代を過ごした二人も太平洋戦争へと駆り出される。渓間は海軍航空隊に志願。零戦乗りとして海軍士官を務め、若い隊員から慕われたという話を残している。
 復員後、溪間は大阪の阪急電鉄に、松林は東京の東宝映画撮影所に就職した。どちらも日本の大実業家、小林一三が創設した会社であった。
 「オイ、溪間」「オイ、松林」の関係は生涯にわたり続いた。

※1 松林宗恵(1920年7月7日〜2009年8月15日) 映画監督。代表作に、森繁久彌主演の「社長シリーズ」、戦争大作「連合艦隊」など


「人間関係が事業の成否を決める」小林一三が託した阪急ブレーブス


  阪急電鉄では車掌、運転手など様々な業務をこなし、溪間は社内でも一目置かれるような存在となった。
 1960年代、北千里駅に日本で初めて自動改札機が導入されて話題になった。また、それまで個別に設けられていた上下線のプラットホームを1カ所にすることにより、駅の勤務者数のスリム化が図られた。  これら現在の鉄道のスタンダードとなる改革が実現した背景にも、溪間の努力があったという。
 そんな実績が認められたのだろう、ある時小林一三が職場に訪れ、溪間にこう言った。
 「君は坊主なんだろう、仏の教えを聞いたものは『人間』と言うものが、いつか判って来る、内の会社に人間だけが寄って仕事をしている宝塚歌劇団と阪急ブレーブスがある。機会がきたら、そのどちらかをやりなさい。人間関係が事業の成否を決めるものであることが、坊主である君にはきっと判かる時が来る(※5)」
 それから15年後の1968年、その話は現実になり、溪間は阪急ブレーブスの球団代表に。就任当時のブレーブスは、「灰色のブレーブス」と揶揄された弱小球団を、闘将と言われた西本幸雄監督が初のリーグ優勝へと導き、常勝球団への基礎が固まってきた頃である。
 溪間は、仏教者としての視点を野球に活かした。「日本一になろうと思ったら、日本一の練習(因)を積まねばならない。日本一になれたら、俺達が(我)俺達の力で日本一になったのではなく、主戦投手がケガもせず、皆んな、それぞれの力が結集して、優勝(果)が出来たのだと言う(縁)を喜び、見えざるものへの恩恵を想え(※6)」と、選手に釈尊の説かれた教えを交えて話した。ある試合で投手が完全試合を達成した時は、「本人をほめるよりバックの選手たちのおかげだよ(※7)」と語りかけた。
 1973年、西本監督の跡を継いだ上田利治監督もまた、溪間と同じような事を選手に度々働きかけていた。
 「自分がチームを先導して引っ張って行くのでなく、ともに試合を戦う仲間の気持ちで、ゴールまで走って行こうじゃないか」。
 そんなチーム一丸の勝利は、阪急ブレーブスを3年連続日本一へと導いた。
 「1時間19分の空白」は、阪急ブレーブス4連覇なるかという時に起こった出来事であり、その試合に敗れてV4は幻と消えた。
 試合再開を求めるスタンドの声にも動じない上田監督を、溪間があの時、どう説得したのだろうか。どんな圧力にも屈さなかった上田監督が渓間の説得に応じたのは、二人がいかに信頼しあっていたかを物語っていると言えるだろう。
 ブレーブス一筋で活躍してきた選手がトレードの危機に直面した時があった。その選手なりの野球人生を考えた結果、残留を決定し生涯ブレーブスとして引退の花道が用意された。このような事も溪間の尽力があったからと言われる。 そういった采配も、小林一三の「人間関係が事業の成否を決める」という言葉に対しての溪間自身が出した答えであったのだろう。


溪間 秀典
球団社長の職責を終えた後、溪間は自坊の職務を全うしつつ、ボーイスカウト大阪連盟副コミッショナーとして、民生委員保護司を務め、青年の育成に奔走した。


「お念仏だけが子孫へと伝え残す唯一の財産」


  住職としては「人々の中に入って、人々と共に」が信条の溪間。「社会の荒波にもまれてこそ、はじめて人間ができあがり、真の伝道者たりうる」というメッセージを残している。
 「私にとって野球は『青年大衆と仏道』を結びつける方法としてであったのである。事実、法座に呼ばれて、野球を例話に引くと若い人が興味をもって仏教を理解してくれたことがどんなに多かったことか(※8)」と溪間は自らをこう振り返っている。
 溪間自身が激しい社会の荒波の中で、堂々と逞しく活躍してきた経験は、地位や名声を得るためでもなく、手柄をひけらかすためでもない。仏道を実践し、真の伝道者になるための道のりであったのかもしれない。
 1989年7月1日、溪間は闘病の後、68歳の生涯を閉じた。
 同人雑誌『仏と人』の中で溪間は最後、こんな文章を残している。
 「土地も、金も、地位も、名誉もすべて百年の後にあとかたも無くなってゆくに違いありません。お念仏だけが、子孫に伝え残して行ける人間の唯一の財産なのでしょう」。



※2〜8 無名会同人編集『渓間秀典師を偲ぶ 「仏と人」特別号』(永田文晶堂)より





溪間さんと松林宗恵監督

龍谷大学客員教授 前校友会会長 太田 信隆


  熟年の紳士が二人、京都・堀川通りの西本願寺の前を連れ立って歩いていた。在りし日の溪間秀典さんと、映画監督の松林宗恵さんであった。

 二人が龍谷大学に入学したのは、太平洋戦争が始まって間もない頃であった。一緒に寄席に行ったり映画を見たり、夜が明けるまで、文学や仏教、恋愛を論じたこともあった。
 戦争が激しくなった。学生が軍隊に駆り出された。溪間さんは、海軍の航空隊に入り、主力戦闘機「零戦」に乗って、南方戦線を飛んだ。松林さんは、海軍士官として、中国の廈門島に向かい、米軍の襲撃を受けた。それぞれに、戦場で終戦を迎えた。
 溪間さんは復員して、阪急電鉄に入社し、さまざまな職種を経て、弱小球団といわれていたプロ野球の「阪急ブレーブス」の代表になった。在任期間の十年に、リーグで八回、日本シリーズで三回、チームを優勝させた。ファンは熱狂し、海千山千のライバル球団の関係者も「溪間の采配は見事や」と一目置いた。
 一方、松林さんは、映画会社の東宝に復帰した。上原謙主演の「東京のえくぼ」で監督デビューした。海軍に在籍した自身の経験と仏教の無常観をにじませた「人間魚雷回天」で注目を集めた。「連合艦隊」「太平洋の嵐」など戦争映画も手掛けた。森繁久弥主演の喜劇「社長シリーズ」のうち二十三本を監督し、日本映画の黄金期を支えた。
 溪間さんは阪急球団「ブレーブス」。松林さんは東宝。ともに、近代の大実業家、小林一三翁が創設した会社であった。
 溪間さんは、入社の際の面接で、小林社長から「紹介状を持ってきたか」と聞かれ、「紹介状が要るのですか。私は、戦争で国に命を捧げたものです。」と言って、社長を唸らせたという話が残っている。  溪間さんと松林さんの長男は、ともに「天平(てんぺい)さん」である。二人は若き日に、「男の子が生まれたら、同じ名を付けよう」と、約束していたのであろう。
 松林さんは、溪間さんの訃報を聞いて、東京から大阪へ駆けつけてきた。平成元年七月一日であった。刎頸の友を失った悲しみをこらえ切れなかったのであろう。通夜の席で顔に腕を押し当てて号泣した。私は「男泣き」というのは、こういうものかと思った。その松林さんも、今年の八月十五日、終戦記念日に、八十九歳で、生涯を終えた。

 二人が、球場のスタンドで並んで座っている写真がある。月刊雑誌『文芸春秋』の昭和四七年六月号に載ったグラビアの「同級生交歓」である。松林さんが「溪間との写真でこれが一番いい」と言って、見せてくれたことがあった。

溪間さんと松林宗恵監督



←トップページへ戻る