龍谷 2010 No.70

今昔 古都・湖都 歩く 大宮学舎物語 大宮学舎の地の歴史をたどる
 
 68号では、大宮学舎が現在の地にたどり着くまでの歴史をひも解いた。今号では、大宮学舎の地が元来どんな土地であったかにスポットを当てる。1879(明治12)年に大教校が落成されるまで、どのような人々が行き交い、生活を営んでいたのか。歴史をできる限りさかのぼり、その変遷をたどってみよう。
 
平安京の経済の中心  東市として賑わう
 794(延暦13)年、桓武天皇が長岡京から遷し、新たな都とした平安京。東西約4・5 キロメートル、南北約5・2キロメートル。中央を南北に通じる朱雀大路(現在の千本通)より左京、右京に分かち、両京に大路小路を碁盤の目のごとく張りめぐらした都は、律令制のもとに官設の市が東西に置かれ、庶物百貨の交易の場として人々が往来し賑わいをみせていたという。
 この東西の市のうち、東市は元来、北は七条坊門、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路の4町を限界とした。現在地に当てはめてみると、正面通以南、七条通以北、堀川通以西、大宮通以東の地となる。本願寺及び興正寺、龍谷大学大宮学舎(清風館をのぞく)全て、この域内にすっぽり包まれる。東市はその後、8町が加わり東市12町となったことから、清風館の地も東市外町の一部となった。
 東西の市は半月交代で、月の前半は東市、後半は西市が開かれていたとされる。正午には市が開かれ、日没になれば太鼓を三度鳴らして閉める合図とした。
 『延喜式』(927年完成)には、東市に51店舗、西市は33店舗あると記されている。市の内部は細かな区画に分割され、そこに小さな店舗が並んでいたようで、大宮学舎界隈もそういったいくつもの店に埋め尽くされていたのだろうか。
 また、米、塩、針、魚、油、櫛などは両市で売られていたが、布、麦、木綿、木器、馬、馬具などは東市の専売品であった。逆に、土器、牛、綿、絹、麻、味噌などは西市でしか売られていないなど品物の棲み分けがなされ、両市の繁栄が保たれていたようである。
 
●平安時代初期
平安時代初期
 
本願寺京都移転に伴い  下間家の屋敷に
 中世になると、官制の市は乱世により廃絶してしまう。これにより東市は姿を消し、室町時代には、上京の上立売、中立売、下立売、四条立売といった市が代わりに立つようになる。さらには応仁の乱により、京都の3分の1が焼失。大宮学舎の地は被災こそ免れたようだが、戦乱の影響を長きにわたって受けたことは想像に難くない。
 戦国時代の混乱を経て、天下統一に乗り出した織田信長。その信長が本能寺の変で倒れてのち、機を逃さず天下人となったのが豊臣秀吉である。秀吉は1590(天正18)年、信長との間で度たび戦火を交え、天満に移転していた本願寺に対し、京都へ移転するよう命じた。下鳥羽・下淀から北の範囲で自由に土地を選択せよとの秀吉の意向に、顕如上人は、実地検分のうえ、七条堀川の地を選んだ。これにより、秀吉は1591年、本願寺あての朱印状を下付し、約9万坪にも及ぶ広さの土地を認定した。家臣をはじめ多くの天満の人々は本願寺の移転とともにこの地に移住。たちまちのうちに本願寺を中心とする寺内町が形成され発展していく。
 寺内町の人口は次第に増え、僧侶、町民、使用人などをあわせて約1万人にも及んだという。大工、絵図師、仏具師といった商工業者が過半数を占めて居住。土地の約4分の3は一般町民や下級家臣などの屋敷に使用され、残りの4分の1の土地は、本願寺、興正寺、末寺、坊官など本山関係の敷地となっていた。
 では、大宮学舎は誰の地であったか、1631(寛永8)年の『本願寺寺内町絵図』をたどっていくと、下間家の屋敷となっている。下間家は、加賀一揆や本願寺と信長との抗争などにおいて功名を立て、本願寺の繁栄とともに、一族も隆盛を極めた家柄である。門跡の格式に付随する地位である「坊官」につき、本願寺内部では、年寄、家老として要職を取り仕切っていた。現在の大宮学舎の本館、南北両黌、正門、旧守衛所、西黌、西黌別館、守衛所、清和館は「下間治部卿」と「下間数馬」の屋敷、東黌の位置には「下間少進」の邸と記されている。
 それから約130年を経た1760(宝暦10)年の『京西六条本願寺御大絵図』では、「黒門御やしき」「御作事小屋」「下間兵部卿」「下間御やしき」に分かれ、西の一角には土蔵があったようだ。さらにその後、30〜40年を経たと考えられる『本願寺境内明細図』と仮称される絵図では、「下間兵部卿屋鋪」と、町家に細かく区分されており、数ある町家のうち11戸は本願寺臣属の名が記されており、東黌の地は引き続き前代の下間少進邸を受け継いでいた。
 
●江戸時代中期
江戸時代中期
【京西六条本願寺御大絵図】
龍谷大学大宮図書館蔵 縦75・5p 横81p 1760(宝暦10)年の本願寺周辺の絵図。東黌付近は130年前とさして変化なく下間少進邸となっているが、本館の区域は塀によって五分され、北側は「黒門御やしき」、「御作事小屋」の2区画、南側は、土蔵と思われる建物、「下間兵部卿」、「下間御やしき」がある。
 
明治維新を経て大宮学舎誕生へ
 本願寺の京都移転以来、下間家をはじめ本願寺の家臣らが、長らく居住していた土地。それが明治維新とともに、大きな変化を遂げる。明治政府の上知令により、1871(明治4)年正月、下間家らの土地は政府に返上させられることとなり、同時に坊官職も廃止されたのである。  同年9月、広如上人の葬儀がこの地で営まれたことから、すでに建物はほとんど取り払われていたことがうかがえる。
 そして1877(明治10)年、明如上人が学林の改革に乗り出し、大教校建設に着手。その土地に下間家屋敷跡を選び、1879年、大宮学舎へと生まれ変わった。擬洋風建築としては西日本最大級であり、鹿鳴館(東京・1883年築)よりも4年早い落成である。下間少進のものと推定される屋敷は残されていたようで、1885(明治18)年4月に修理され、普通教校として使用されていた。それが後に現在の東黌となったのである。
 現在の大宮学舎に、平安京あるいは下間家の片鱗を示すような遺構はない。しかしながら、大宮学舎誕生までの歴史は変化に富み、往時の人々を偲べば歴史の浪漫に興をそそられるであろう。

1879年の姿を現在に伝える大宮学舎
1879年の姿を現在に伝える大宮学舎
<参考文献> 
『図録 顕如上人余芳』編纂:本願寺史料研究所 発行:浄土真宗本願寺派(1990年) /『重要文化財 龍谷大学正門 −解体修理にともなう事前発掘調査報告書−』  編著代表者:網干善教 発行:龍谷大学校地学術調査委員会(1977年)/『龍谷大学三百年史』発行:龍谷大学(1939年)/ 『讃仰明如上人』発行:明如上人五十回忌法要事務所(1951年)
※いずれも龍谷大学図書館で閲覧することができます。

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