龍谷 2010 No.70


専門家に聞く5 村瀬 哲司 今回のテーマは「人民元の切り上げが意味すること」中国経済の動向と日本への影響
 
経済学部
国際経済学科 教授
むらせ てつじ
村瀬 哲司

●最終学歴・学位 一橋大学商業学部卒業 経済学博士(京都大学)
●専門分野 経済政策、財政学・金融論
●主な著書・論文など 『マルクの幻想』(独文翻訳・日本経済新聞社・1993年) 『アジア安定通貨圏』(勁草書房・2006年) 『東アジアの通貨・金融協力』(勁草書房・2007年) 『ユーロへの挑戦』(独文翻訳・京都大学学術出版会・2007年) ほか多数
村瀬 哲司
 
  今年6月、中国政府は人民元の実質的な切り上げを発表しました。発展著しい中国経済の動向は、さらに世界中の注目を集めています。約30年間にわたり銀行に勤務された経験を持ち、国際金融に詳しい村瀬教授に、今回の人民元切り上げが持つ意味と、今後の日本経済への影響を伺いました。
 
中国における 通貨政策のジレンマ
人民元 ○今年6月、中国政府は人民元の実質的な切り上げに踏み切りました。その背景にはどのような要因があるのでしょうか。

 これまで中国政府は、人民元相場を米ドルとペッグ(連動)し、1ドル=約6・83元で維持し続けてきました。しかし、経済成長著しい中国の輸出が拡大するにつれ、世界各国の通貨に対して低いこのレートに、人民元切り上げを求める声が上がっていました。長い間、「人民元のレートは過小評価ではない」と、切り上げには反対していた中国政府ですが、国内事情と米国からのプレッシャーに押されるかたちで今回、実質的な切り上げに踏み切ったのです。
 
○中国政府はなぜこれまで、切り上げに消極的だったのでしょうか。

 人民元の切り上げによって中国政府が恐れているのは、現在の中国経済を支える輸出中心の製造業が大きなダメージを受けることと、人民元レートの上昇を見越した海外からの投資マネー流入が加熱して中国経済が不安定になることです。だから今回、中国政府は「切り上げ」ではなく「弾力化」という表現を使い、必ずしも人民元が上昇し続けるわけではないことをアピールして、海外からのマネー流入を牽制しつつ、国内経済界へも理解を求めています。人民元の弾力化を決めた今も、中国政府は国内外の情勢によるジレンマを抱え続けているのです。
 
○これまで人民元の切り上げを拒否してきた中国政府が、
弾力化へと動き出したきっかけとしてどんな理由が挙げられますか。


 まずは、2001年に中国がWTO(世界貿易機関)に加盟したことが原点にあります。それまでWTOには非加盟だった中国との経済取引には不安要素が多く、リスクもありました。しかし、WTO加盟によって中国が国際的な貿易や投資のルールを遵守する意思表示をしたことで、世界各国が安心して取引ができるようになり、2000年代における中国の急激な貿易拡大と経済成長へとつながったのです。
 そして、中国政府が弾力化に踏み切る決断をした決定的な出来事が、アメリカのサブプライムローン問題を発端とする世界金融危機でした。それまでの中国の通貨政策は、人民元の米ドルに対する安定を前提としており、頑ななまでに米ドルとの連動相場にこだわっていました。また、中国の2兆4000億ドルを超える外貨準備預金残高の半分以上を占めているのが米ドル資産。世界でもトップクラスのお金持ちとなった中国でしたが、経済が米ドルに依存する体質になっていたわけですね。
 ニューヨークが震源地となった世界金融危機に直面した中国政府は、今後はアメリカ経済も安泰ではない、できるか限り米ドルに対する為替リスクを軽減しておく必要がある、と考えるようになりました。そして、それまでの通貨政策から180度方向転換して、人民元の国際化路線に踏み切り、今回、為替相場の弾力化を発表したのです。
 
中国における 通貨政策のジレンマ
中国
 
○人民元の「本格的な国際化」とは、どういった状態を指すのですか。

 人民元がドル、ユーロ、円のような国際通貨になるためには大きく三つの条件があり、中国はそのいずれもまだクリアできていません。
 条件の一つは、「しっかりとした国力を持ち、国際的な信認を得ること」。国際的な信認とは、その国の信用力と言ってもよいですね。例えば、現在、中国政府が経済統計を発表しても、「本当に信頼できるのか」、「情報が統制されているのではないか」と、世界中で疑問や不安を持って受け止められているのが現状です。そして、その不安が端的に表われているのが信用格付けなんです。現在、日本の信用格付けはAAで上から数えて3番目ですが、中国はA+。あれだけの経済成長を続け、世界トップクラスの外貨準備預金残高を持つ国が、日本よりもさらに二つ下の格付けなんです。これはかなり特殊な状態と言って良いと思います。中国政府が情報を透明化し、世界の信認を得ることは、人民元国際化への第一歩となります。
 もう一つは、「人民元に対する規制を減らし、自由な使用を認める」こと。現在、人民元は上海外国為替市場だけでしか取引がおこなえません。しかも、中国人民銀行の監視下という条件付きです。中国政府が全ての取引をチェックし、市場に積極的に介入することで為替相場をコントロールしているのです。このような通貨取引は世界中どこの国にも例がありません。
 最後は「流動的な金融・資本市場」を整備し、維持することですが、これはまだ発展途中の国においては仕方のないこと。最初の二つの問題がクリアされる過程で、自然と解決されていくでしょう。
 これらの問題は中国の経済問題であり、政治問題でもありますので、そう簡単に解決されることはないでしょうが、この三つの条件を満足しなければ、今後、人民元が本格的に国際通貨として世界から認められることはないでしょう。
 
○人民元の国際化は、日本経済にどのような影響をもたらすのでしょうか。

 中国経済が発展し、人民元の国際化が進むということは、国民の生活水準向上と内需拡大を意味します。このことは、中国とは異なる産業構造を持つ日本にとって大きなチャンスとなります。例えば、日本のコンビニエンスストアや宅配業などのサービス関連企業の中国進出は加速するでしょうし、元高によって中国に対する輸出のハードルも下がります。人民元のレートが上がると中国からの輸入品は価格が高くなりますので、これまで中国に生産拠点を持っていた企業は今後、ベトナムやインドなどへ工場の移転を余儀なくされるかもしれません。しかし、サービス業や製造業でも中国と補完関係にある日本経済にとっては、それを補って余りあるビジネスチャンスが生まれる機会でもあるのです。
村瀬 哲司

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