龍谷 2010 No.70


龍谷人偉人伝 卒業生をたずねて
考古学ブームを巻き起こした高松塚古墳壁画の発見
考古学者 網干 善教
 写真提供:井上 博道 氏
考古学者 網干 善教
「盗掘孔を少し広げて中を覗くと、西側に何か色のついたものがかすかに見えた。そこへちょうど陽光が差し込んで少し明るくなると、青い服に茶色の腰ひもをつけた人物が描かれていた」

網干善教著『高松塚への道』 
構成:太田信隆(2007年10月草思社刊)より
 
極彩色の壁画
写真提供:
明日香村教育委員会
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、 1972 (昭和47)年3月、極彩色の壁画が見つかった。壁画の中の女人群像、とりわけ飛鳥美人の姿が人気を呼んで、日本中に「飛鳥ブーム」「古代史ブーム」を引き起こした。
 この高松塚の古墳壁画を発掘したのが、龍谷大学卒業生の網干善教であった。網干は考古学の大家、末永雅雄博士に学んだ。石舞台の発掘に従事し、キトラ古墳やインドの祇園精舎など多くの遺跡を発掘調査して、大きな功績を残した。
 
末永博士の薫陶を受けた。
その教えのもと慎重に発掘調査を続け、高松塚と出会った。
 網干善教は1927 (昭和2)年、明日香村の石舞台古墳のそばの唯称寺に生まれ、幼い頃から石舞台古墳発掘の作業場で遊んだ。そこで生涯の師となる末永雅雄博士(1897ー1991、帝国学士院賞受賞、文化勲章受章)と出会う。末永博士が所長であった橿原考古学研究所へ中学の頃から通い、中学を卒業後は仏教専門学校(現・仏教大学)に学んだのち、末永博士が教えていた龍谷大学へ進学した。以降末永博士の講義を学部、大学院、その後と17年間聴き続けた。
 卒業後は龍谷大学や関西大学などで教える一方、1954(昭和29)年に末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となり、その後も飛鳥京の宮跡の発掘に従事する日が続いていた。1970 (昭和45)年の春、高松塚のそばで生姜用の穴を掘っていくと切石が見えたという話を聞き、自転車で現場に急行。竹藪を分け入って穴の中を覗くと、近くの古墳と同じ凝灰岩の切石が確認できた。網干は「これは掘らなければならない」と思った。
 改めて明日香村からの要請を受け、末永博士の指揮のもと学生を率いて本格的に発掘作業に入ったのは 1972(昭和47)年3月のこと。見つかっていた切石近くの盗掘孔に沿って掘っていった。すると、盗掘時に使われたと思われる灯明皿と、漆の破片が出てきた。漆の破片があるなら、古墳の石槨の中に立派な漆塗りの棺があるに違いないと網干は確信した。掘り進めると天井石のような分厚い凝灰岩に突き当たった。そして、21日の昼のことだった。直径10センチほどになった盗掘孔から石室の中を覗いていると、時折射し込む太陽の光に照らされてちらりちらりと見える壁に、何か色がついているのが見えた。よく見ると人の姿だった。高松塚の壁画発見の瞬間である。
 1300年前の極彩色の芸術。法隆寺壁画に匹敵する大発見、とマスコミが大きくとりあげ、地味な学問であった考古学が茶の間の話題を独占した。
 
 その物が語りかけてくることに五感を集中せよ。
で教える一方、1954(昭和29)年に末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となり、その後も飛鳥京の宮跡の発掘に従事する日が続いていた。1970 (昭和45)年の春、高松塚のそばで生姜用の穴を掘っていくと切石が見えたという話を聞き、自転車で現場に急行。竹藪を分け入って穴の中を覗くと、近くの古墳と同じ凝灰岩の切石が確認できた。網干は「これは掘らなければならない」と思った。
 改めて明日香村からの要請を受け、末永博士の指揮のもと学生を率いて本格的に発掘作業に入ったのは 1972(昭和47)年3月のこと。見つかっていた切石近くの盗掘孔に沿って掘っていった。すると、盗掘時に使われたと思われる灯明皿と、漆の破片が出てきた。漆の破片があるなら、古墳の石槨の中に立派な漆塗りの棺があるに違いないと網干は確信した。掘り進めると天井石のような分厚い凝灰岩に突き当たった。そして、21日の昼のことだった。直径10センチほどになった盗掘孔から石室の中を覗いていると、時折射し込む太陽の光に照らされてちらりちらりと見える壁に、何か色がついているのが見えた。よく見ると人の姿だった。高松塚の壁画発見の瞬間である。
 1300年前の極彩色の芸術。法隆寺壁画に匹敵する大発見、とマスコミが大きくとりあげ、地味な学問であった考古学が茶の間の話題を独占した。
 古墳の発掘と聞くと被葬者は誰かということに思いをめぐらせたくなる。しかし網干は人物が特定できる物的証拠がない限り決して推論はせず、実証主義を貫いた。特に一般に影響を与えやすい発掘担当者が被葬者問題を容易に口にしてはいけない、と慎重だった。
 その姿勢の根底には恩師・末永博士の「考古学は物をもって語らしむる学問である」という教えがある。明治期からの「好古学」ではなく科学的な「考古学」を追求した。『基本的なことは、どこに意味があるのか、出土品から何が考えられるのか、ということです(『高松塚への道』より)』それは、近代日本の考古学者として実にまっとうなあり方だった。網干は、高松塚古墳壁画やキトラ古墳壁画の価値は、その観察結果が古代日本と大陸との交流の原点を探るための貴重な手掛かりになることにあると考え、徹底的に壁画と対峙してそれが意味するものを考え続けた。
 
キトラ古墳のふもとに設置したファイバースコープのモニターで石槨内を探索する網干善教。(『高松塚への道』より)
時を経て語る物を愛した。
文化財を、土地ごと、
国ごと愛した。
キトラ古墳のふもとに設置したファイバースコープのモニターで石槨内を探索する網干善教。(『高松塚への道』より)  
 その「物を観察すること」を大切にする姿勢から、文化財の保護・保存問題とも真剣に向き合った。文化庁に管理をゆだねてから30年後、2004(平成16)年に壁画の劣化が明らかになった時、そして解体保存という道がとられた時は、文化庁の対応を一貫して批判した。石室解体という結論は容易すぎる。文化財はその場所に昔のままあってこそ意味がある。その前に取るべき方策があったはずだ、と――。  
  『高松塚の壁画が大切なのは、たんにきれいな絵だというだけではなく、そこに古代の日本人の「こころ」が表現されていると感じられるからです。その「こころ」、表現された思想は東アジアの文化を凝縮したものでもあります。天文図、日月図、四神図、こうしたものが、高松塚の古墳にある、ということが大切なのであって、だからこそ現地保存をしなければならない、と僕らはこれまで主張してきたのです(『高松塚への道』より)』
 キトラ古墳の壁画剥ぎ取り、高松塚の解体準備、と文化庁の保存作業が進められるなか、網干は2006(平成18)年7月29日に胆管癌で世を去った。享年78歳。当時の文化庁長官が明日香村を訪れ、村民との懇談会で高松塚壁画保存をめぐる一連の対応について陳謝したのはその12日後だった。
 物が語りかけてくること、そこから人間が受け取れることにきっと価値があると信じ、掘り続けた。網干の研究者としてのひたむきな姿勢と人情味のある人柄にふれて育った学生達が、今、考古学界の最前線で活躍している。
 石舞台、高松塚などがある網干の故郷・明日香の里に、今年も、彼岸花が咲いていることだろう。
 
島田 隆昌さん
橿原市立今井小学校 校長
島田 隆昌さん
1975年 龍谷大学大学院
文学研究科修了
頑固で人情味のある人。
硬軟あわせ持つ魅力的な先生でした。
 高松塚の調査に参加したのは、私が龍谷大学4年生に進級しようとしていた頃。当時網干先生は関西大学で教えながら、週に一度、母校である龍谷大学でも講義されていました。その講義で名前を覚えていただき、私が明日香村の出身ということもあって高松塚の調査に参加させていただけたんです。
 初めて飛鳥美人を目にした時には星座や彩色よりも先に「ずいぶん胴長短足だなあ」と感じたことを覚えています。他に類を見ない発見ですから、一見するだけでは価値が判断できなかったんですね。網干先生も当時すぐに明言することは避けて、毎晩たくさんの資料と格闘して確信を導いていました。非常に慎重で、軽はずみな発言や行動は決してされない方でした。
 網干先生にはずいぶんと目をかけてもらい、よく「隆昌、来い。めしを食べさせてやる」と、大宮学舎近くで昼食をごちそうになりました。研究者としては頑固一徹でしたが、プライベートでは非常に人情味のある方でしたね。本当に、魅力的な先生でした。
 私の結婚式で仲人をしていただいた際には、「夜になってお酒を飲んで寝ていたのではいけない。人が寝ている時間にこそ勉強をしなさい」とお言葉をいただきました。ほかにも、一つの物事を徹底して追求すること。安易に妥協しないこと。先生から教わったことは数多くあります。教育の現場に身を置く今、先生の教えを一人でも多くの教え子達に伝えていけたらと思っています。
 
関 義清さん
明日香村 村長
関 義清さ
明日香村を
"日本の飛鳥"にしていただいた。
 網干先生はうちの檀那寺の住職でしたし、兄が先生と親しくしていましたので、小さい頃からよく知っていました。本格的に先生とのお付き合いが始まったのは平成4年私が村長になってからです。考古学のことだけでなく、行政の人脈づくりから何から全般的に助けてもらいました。
 ある時先生がおっしゃいました。「研究成果をあげるまで大変な努力と時間が必要なのが考古学の世界なのに、この村の技師は注目されるものをすぐに発掘できてしまう。でもそれで簡単に先生と言われるのはおかしい」と。「普通何十年も下積みした後で、ようやく名前が知られていくもの。明日香村の考古学関係者も同じであるべきだ。ここだけは別やと思われちゃいかん」。 先生もご自身で気にしておられたところがあるのでしょう。だから私は言いました。「では先生、どうか村の考古学の顧問になって、指導やルールづくりをしてやってください」と。それで明日香村文化財顧問をお願いしたのです。私が文化財行政で間違いなくやれているとすれば、その恩人の一人が網干先生だと思っています。常に近くでアドバイスしていただくことで、安心して仕事ができました。そして、文化財に関するルールづくりができた後、平成17年には名誉村民になっていただきました。
 高松塚によって明日香村は日本中に紹介されました。そして今、村は世界文化遺産への登録申請の準備をしています。網干先生が掘り起こした明日香の文化財の魅力を、次は私達の手で世界に伝えていきたいと思っています。

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