今から17年前に亡くなった母は、晩年父に「私は子どもを育ててきましたが、自分を育てることをしてこなかった」と述懐したそうです。私はその母の言葉を借りて、「私は他人(ひと)の子は育てたが、自分の子は他人(ひと)に育ててもらった」とよく話しています。
長年中学校で教職に就いていましたので、数多くの子どもたちを教えてきました。そこで知らされたのは、いかに子どもから多くのことを学ばせてもらっているかということです。その学びが、自分の「子育て」に直結したらどんなにいいかと、思ったことも度々です。
今、子どもに関わる事件や事故が頻繁に報道されています。痛ましい事故や、事件の報道に接する度に、たとえ子どもが加害者であっても「子どもは犠牲者である」と思わざるを得ません。
親子ともに追いつめて、追いつめられて生活をしていると「ムカついたり、キレたり」して暴走し、あげくの果て虐待行動に走ってしまうのではないでしょうか。もっとゆとりを持って子どもと向かい合いたいものです。
子育て真っ只中の最近、つくづく思い知らされるのは、やはり自分の親と同じことをしているということです。子どもを叱っているとき、ハッとさせられる場面に出くわすことがあります。それは、私の父も同じ叱りかたをしていたなということです。
私は比較的厳格な父に育てられたこともあり、また、昔のようなこわい父親では、子どもはついてこないという、世の中の価値観の変化もあって、子どもにはやさしく接してきたつもりです。そのことが、どのような結果に繋がるかは、今後を見守っていくしかありません。
私は子どもの前では、いつも毅然としていたいのですが、ついついだらしなく振る舞ってしまっていることが多いようです。そのことに対して、子どもから鋭い指摘を受けます。でも、「それでいい、それがいい」と自分に言い聞かせてきました。子どもは他の親や理想の親像との表面的な比較を、常にしますし、私がそんなに立派な人間でないことを、自分自身が一番解っているはずだからです。
「子育ては親(自分)育て」ではなかろうかと思っています。子どもの成長に一々喜怒哀楽し、よかれと思って子育てをしているつもりですが、それは実は「自分育て」をしているのだなと思い知らされます。
私の子どもは、お寺の子どもとして、また、学校の教員の子どもとしての軋轢(あつれき)を感じながら育ってきているはずです。だから、萎縮した子どもになったらどうしようかと思っていましたが、幸い快活に育ってくれました。
勉強をしろと、強くは言ってきませんでした。しかし、勉強をしなかったら後悔するぞとは言ってきました。
長男は大学を今春卒業し、本人が長年追い求めていた待望の職業に就きました。就職難の時代にあって、希望の職種に就職できることは贅沢であると、周囲から言われているようです。
ことさら厳しくもなく、甘くもなく、平々凡々とした子育てしかできなかった私ですので、子どもたちの元気な笑顔と接するたびに、ほっとしているような昨今です。