龍谷 2007 No.64

龍谷人偉人伝 社会への貢献、人々の幸福−を貫く

カルピス創業者 三島 海雲 カルピス創業者 三島 海雲

文学寮本科生当時の三島海雲 (前列右端)
  文学寮本科生当時の三島海雲 (前列右端)

破天荒人生のはじまり

 三島海雲の97年にわたる生涯は、誰にも真似ができないほど濃密なものであった。1878(明治11)年、三島は大阪郊外の真宗の貧しい寺に生まれた。16歳になると、龍谷大学の前身・京都西本願寺文学寮に学び、卒業後は英語教師として山口の開導中学校に赴任する。
 しかし、間もなく24歳で※1東京仏教大学に編入。やがて、日露戦争の直前という時代背景のなか、青雲の志をいだいて中国大陸へと渡る。開戦後は蒙古(内モンゴル)に入り、終戦後も蒙古にとどまって、同地の畜産を盛りたてるために緬羊の改良に努めた。
 この蒙古で三島は、後に大発明となる「カルピス」の基と出合ったのである。蒙古の遊牧民は一様にたくましい。その源はどこにあるのかと探ったところ、※2酸乳を知る。そして、「この乳酸菌が人間の内臓に寄生する有害な細菌を駆逐するため、健康でいられるのだ」という考えに行き当たった。三島も酸乳を飲んでみたところ、すこぶる体の調子がよい。三島は蒙古にいる間、ずっと酸乳を愛用した。

※1 仏教大学…文学寮が大学に昇格したもので、当時は京都の仏教専門大学と東京の高輪仏教大学に分立。
後に京都に統合され、龍谷大学と改称される。
※2 酸乳…家畜の乳を乳酸菌で発酵したもの。


大衆のために――カルピス誕生

三島の人となりを語る中道健太郎さん
三島の人となりを語る中道健太郎さん
 38歳で日本へ帰国した三島は、人々の心と体の健康を願い、かねて着目した蒙古の酸乳の改良に踏みきる。困難に次ぐ困難を忍びながら、やがて脱脂乳を乳酸発酵させ、カルシウムと砂糖を加えた飲み物を開発した。日本で初めてという乳酸菌飲料「カルピス」の誕生である。発売は、42歳を迎えたばかりの1919(大正8)年の夏であった。
 「カルピス」という名前の由来は、カルシウムのカルと、サンスクリット語のサルピス(五味のなかの熟酥)のピスを取ったものだ。その爽やかな甘さと、「初恋の味」というキャッチフレーズが、子どもから大人まで幅広い層に受け入れられ、「カルピス」はたちまち人々の間に広まっていった。
 「カルピス」の成功は、商品の成功というだけでなく、大衆のために企業はあるという、三島の信念の勝利であったといえよう。

座右の銘


人生観を育んだ文学寮時代

 三島は文学寮時代を振り返り、「後の人生に多くの糧を与えてくれた多くの人を得た」と回想している。友人、先輩との厚い親交に加え、先生方にも、ことのほかかわいがられた。後に朝日新聞の有名なジャーナリストとなる、杉村楚人冠との縁もここからはじまる。
 杉村は国語と英語の担任であり、さらに寄宿舎の舎監を兼務していた。杉村と三島の師弟関係は、杉村が亡くなるまで50年間続き、三島は杉村を敬愛してやまなかった。
 「自然のような人間になれ」、杉村が三島によく話した言葉である。どのような場所で誰に見られても、決して恥ずかしくないような人間になれ――三島は、杉村の教えどおりの人間になろうとした。
 三島が晩年まで座右の銘としていた言葉、それが四書五経の易経に記されている「天行健」である。人間の動きはデタラメで変化の連続だ。それに引き換え、天体の動きは規則正しく、堅実そのものである。「その天行に近い生活をやり抜こう」という思いを持ち、何事においてもウソをつかず、正直に生きることを自分に課した。
 このような三島の人生観、世界観の大半は、仏教の世界に身を置いた文学寮時代に育まれたものである。


若者よ、私心を離れよ そして大志を持て

発売当初のカルピスの復刻版
発売当初のカルピスの復刻版
 「『国利民福』のために働くことを人生のモットーとし、強く正しく生き抜いた、私利私欲のない人間、それが三島海雲である」と語るのは、財団法人三島海雲記念財団の名誉理事である中道健太郎さん。中道さんは、三島とは遠縁にあたるというだけではなく、人生の師として敬愛し、三島の側近としておよそ30年、苦労を共にされてきた人物。三島を知る数少ない語り部であり、数々のエピソードにも熱がこもる。
 そして、「三島が財団を設立したのも、日本の将来、若者の未来を考えてのことである」と話す。「なにしろ全財産を投げ打つのですから、人格者の三島も財団設立を決心するまでには7日間、高野山に籠りました。けれど結局、自分の信念を貫き通したのです」。
 三島が若者に望んだこと。それは「私心を離れよ。そして大志を持て」ということであった。小さな私心ではなく、もっと大きく国家、社会に利福をもたらすような欲望を持てと説く。そして、「その理想に向かってまっしぐらに努力をすることだ」とも。
 三島は1974(昭和49)年、97歳で死去した。しかし、社会や人々の幸福を願う一途な想いは、三島財団が引き継ぎ、多くの若い才能を支援し続けている。

三島海雲の偉業を記す書籍や資料
三島海雲の偉業を記す書籍や資料
築地本願寺和田堀廟所にある中国の居庸関を模した三島海雲翁顕彰碑
築地本願寺和田堀廟所にある中国の居庸関を
模した三島海雲翁顕彰碑


三島の遺志を今も受け継ぐ

 財団法人三島海雲記念財団は、1962(昭和37)年、三島が85歳のときに、私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及にあるという思いから、財産のすべてを寄付して設立された。その趣意は二つ。

1. 自然科学、特に食料品の研究と、
人文科学の研究を助成すること
2. それらの研究結果を応用して、
人類の福祉に寄与すること

 自然科学のみならず、人文科学を含むところに三島財団の特色がある。
 運営委員には、元文部大臣・天野貞祐、日本石油株式会社相談役・栗田淳一、日本赤十字社社長・川西実三、京都大学教授・湯川秀樹(肩書は当時のもの)など、そうそうたる人物が名前を連ねている。
 かつて三島の部下であった三島財団理事長の小林公生さんは、「三島海雲は、すぐれた実業家というよりもむしろ人としてすぐれた宗教者であった」と、三島の本質について語る。そして、カルピスを開発したのも、「私心を離れよ」という信念どおりに、「自分によいものを人にも広めたい」という思いからだったのではないだろうかと、言葉を添える。
 財団設立から45年。今年もまた、自然科学部門19名、人文科学部門19名に学術研究奨励金が贈呈され、博士課程大学院生に対する奨学金も4名に授与された。明日の国家や人々の在り方を問い続けた三島の遺志は、現在も脈々と受け継がれている。

理事長 小林公生さん 理事長 小林公生さん
事務局長 中村長松さん 事務局長 中村長松さん

取材協力:財団法人 三島海雲記念財団
東京都渋谷区恵比寿西2丁目20番3号 代官山CAビル


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