広報誌「龍谷」

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テレビ朝日の「報道ステーション」のコメンテーターとしても注目される北海道大学公共政策大学院・准教授の中島岳志氏。「リベラル保守」を宣言する若手の政治学者だが、その言葉にはどこか謙虚さや他者を許容するゆとりが感じられる。それは学生時代に出会った親鸞の思想への傾倒からくるようだ。インド研究や近代政治思想を専門としつつ深い仏教観を持つ中島氏と、赤松学長が語り合った。

グローバル化の課題解決のヒントがアジアの思想にある

多文化共生でこそ日本文化の底力を知れる

赤松:グローバル化してきた現代において、様々なことがボーダーレスになっていくことについては喜ばしい面もあると思います。しかし、同時に、一定のスタイルに同調していくようなかたちでの国際化は、危惧すべき点もあると思います。ある力関係のなかで生まれてきてしまった基準という意味では、失われるものも多くあるからです。この動きについて先生はどうお考えですか。

中島:真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を、同時にいかに追求できるか、ということを、京都学派など、近代日本の様々な哲学者が考えてきました。アジアの様々なところー、ガンディーもまさに同じ事を言っているし、またはヴィヴェーカーナンダという人も同じ事を言っています。そして、この人の「アドヴァイタヴァーダ」つまり不二一元という考え方に影響を受けて「アジアは一つ」と書いたのが岡倉天心だったりします。このような19世紀末から20世紀にかけてのアジアの存在論、認識論があります。
 多元性について、欧米は、それぞれがただ並び立っている、それを認め合いましょう、という相対主義的な考え方。でもアジアの哲学では、最後のところのメタレベルは一つなんだと言っている。こういった一元的な多元性をみとめる枠組みが、アジアの長い伝統のなかで出てきた思想にあります。これをいかに位置づけ直す事ができるかですよね。どうしても「文明の衝突」みたいな議論のなかで、イスラムのテロなど対立構造ばかりが煽られるのですが、その底にある唯一真理はどのように考えられるのか、というのがテーマなんですね。


赤松:おっしゃるように、日本にも明治以降の東洋の思想や哲学の蓄積があります。にもかかわらず、世界進出や経済社会の転向のなかで表面的に動いてばかりで、必ずしも本当のパワーになっていないんじゃないかなと感じますね。欧米への暴走的な同調だけじゃなくて、もっとアジアを意識したネットワークを考えていきたいですね。歴史をみると6世紀に朝鮮半島から仏教が伝わり、 7世紀には中国からも入ってきて、その後文化芸術は仏教とともに栄華を極めてきました。そういったなかで培われてきたものが、明治以降も基本的には引き継がれていると思うんですが、現代でももう一度、仏教を軸におき、日本を起点にしてどのようなネットワークが再構築できるかということも考えてみたいですね。日本の戦前の国体論とは違った、先生のおっしゃる多元主義的一元論のようなあり方も、構想できそうですよね。それによって外交面で もすこしは視野が広がっていくような気がします。仏教界も積極的に現代へ提言をしていくことが必要かなと思っています。

新しい「縁」を捉えることで 仏教はその可能性を発揮できる

中島:ぜひ龍谷大学の学生には、現代の大谷光瑞になっていただいて、どんどんアジアに出ていって、日本との関係性をしっかり考えてもらいたいですね。彼のスピリットを受け継いでほしいと思います。また、仏教が持っている現代性は非常に大きいと思います。今の時代、自己のアイデンティティを構成しにくいですよね。共同体がバラバラになってしまっていたり、家族のあり方も多様 化している。そのなかで「自分」が浮遊している状況です。私自身も20歳前後の学生のときに、「私という存在は一体何なのか」という事について悩みました。しかし、そのときに肩の荷が下りたのは、仏教の考え方に出会ったからです。仏教は簡単に言うと、「そんな私なんていませんよ」と言ってくれている。縁によって自己がどんどん変わりゆく、その現象を引き受けるのが私なのだ、というのが、おそらく仏教の一つのエッセンスだと思うんですが、これで私はとても楽になったんです。絶対的な変わりようのない私はいないんですよね。今、就職活動をすると、学生は一生懸命エントリーシートを書いて、私はどういうものかというのを伝えていこうとするんですが、そんなことでわかる私があるなら、西洋哲学もプラトンから苦労していないわけですよ。そんなもので汲々となって皆悩み込んでいる。でも、仏教というのはもっと大きな視野で私を捉えてくれます。

赤松:多くの若者は、立派な自分をつくり上げなくてはいけない、と競争のなかで求められるんですよね。それに応じていこうと、自分自身を苦しめ閉鎖的になったり、立ち行かなくなったり。一方で、経済的なシステムのなかでは、欲しいものが欲しいという消費欲とその挫折がある。そのあたりも、仏教を起点にすることで、人間の欲求を見つめ直し、自己の実体化をやわらかく見つめ直すことができる。現代人にとっての考え方の切り口として、仏教は一つの有効なものではないかと思っています。

中島:無縁社会と言われますが、例えば一人暮らしのご年配の方が1日にどれぐらい他者と話しているかを調べたデータでは、平均値がたった3分なんだそうです。いろんなところで他者との関係性を喪失した、底の抜けた共同体のなかに皆生きています。仏教は、そのなかにもう一度「有縁」、家族とか昔の共同体とは違う、もっと開かれた関係性をつくっていくヒントを持っていると思います。そのためには、お寺や、そこにつながっていく仏教系の大学が存在感を放つことが、これから大変重要になってきます。新しい共同性のあり方を、仏教の考え方からつくっていける人材が現れてほしいと強く思います。

赤松:本学では、今年度から「世界仏教文化研究センター」がオープンしています。アジア仏教文化研究センターと現代インド研究センターのこれまでの成果を受け、もう一度、大学として広い視野で、国内外の仏教研究者に本学を一つのプラットホームにしていただいて、仏教研究交流をする。また、研究者だけではなくて、仏教を軸に人が交流するあり方へのメッセージを積極的に出しいきたい、ということでスタートします。

中島:私は現代インド研究センターの長崎暢子先生にとてもお世話になっているんです。研究会にも参加してきました。インドや中国や中央アジアとの関係性のプラットホームという点と、現代社会の課題解決への試みみたいなものが、仏教という柱によってうまく融合することができるならいいなあと強く思います。

暗い下宿で膝を抱えて「私とは何か」と悩んだことが 10年後にいきてくる

日本の「農」と「食」は、世界に発信する価値がある

赤松:近年、機能優先で大学の質が評価されるケースが多くなっている気がします。大学はいかなる役割があり、学生はいかに過ごすべき時期か、改めて問われている面があると思うのですが、先生はどのようにお考えでしょうか。

中島:よく「役に立つこと」というのが大学に要請されますが、役に立つことって、あっというまに役に立たなくなると思います。今の細かい政策は、おそらく10年もたない。10年経つと人口比など様々なことが変動し、政策も変わる。さらに、人間にとって重要な場面に遭遇したとき、例えば自分のパートナーと、まさに今ちゃんとものを言わないと関係が切れてしまうとき、目の前に今にも自殺しそうな友人がいるとき、そういうときにTOEFLのスコアなんて何の役にも立たないですよ。 逆に、暗い下宿で膝を抱えて「俺とは一体何なんだ」と考えたりすることが、10年後役に立ってくるんですよね。本当に役に立つことって、根源的な問題を考えること。それを理解していなくても、「あ、あのとき西田幾多郎を読んで考えた」というインデックスがあること。何が重要なのかという自分なりのマップを持っていること。その要素を集める場が大学です。簿記や資格ばかりやっていると、20年後とか30年後に全く役に立たない人材ばかり送り出すことになる、と産業界の人に言わなきゃいけない。仏教とは何なんだと考えている、サンスクリット語の細かい事をやっている、そこに実はすごく重要な大学の叡智があると思うんです。リベラルアーツといわれるものについて、もう一度その意味を見つめてもらわないと、日本の産業界もやせ細っていくでしょうね。


赤松:情報社会のなかで、ものを調べる場合のツールも変わってきていますね。書き取ったりして吸収した時代もあったわけですが、ネット検索によって、テキストをじっくりと読み下し解読するという時間の過ごし方もずいぶん失われつつあって、資格を吸収すればいいんだという風潮もありますよね。でも伝統的な、こつこつ積み上げていく学び方も重視しなくてはいけないと思うん です。学生には、半日でいいから書庫に入って、目に留まったところで立ち止まり、1時間とか30分でも、探している本の周辺で、こんな本がある、こんな本があるというのに視線を注いで、手に取って開いてみなさいと。その瞬間の自分の些細な関心でも、背表紙を見てめくってみると「こんな事が書いてある」と興味が喚起されて読んでみる、というふうに連鎖的に知の広がりが生まれてくるから、学ぶ手法として、ぜひそういう場所に自分の身をおい てみたほうがいい、と伝えたりするんですけれども。

中島:データで検索したものしか見つからないって、非常にやせ細った世界ですよね。自分で縁を狭めている。古本屋さんや書庫に入って本を眺めてみる、その手触りが、説明できないところですごく活きてくる。そういう身体性を捨てないでほしいと思いますね。私は『親鸞と日本主義』という連載を以前やったんですが、そのきっかけも大阪の古本屋で、右翼思想家の三井甲之の『親鸞研究』を見つけたのが始まりだったんです。「なぜこの人が親鸞研究なんだろう」と。自分の人生の重要なテーマになっていることは、今の検索システムでは出会えなかったでしょうね。

広報誌「龍谷」2015 No.80(Ryukoku University Digital Libraryへ)


国際社会で活躍できるコミュニケーション能力を育む

国際社会で活躍できるコミュニケーション能力を育む

自分の目で丁寧に観察することで、ものを見る目を磨く

様々な計測器具を使って、年季の入った重厚な瓦を測っては方眼紙にスケッチしているのは、考古学実習を受講する学生達。曲がっていて手も差し込めない内側の部分はどう測るか、ある角度でキープしてスケッチするにはどうするか、試行錯誤で取り組んでいる。「この角って本当にこんなにまっすぐだった?よく見て」「ここにうっすらヒビのようなものも描いてるね。継ぎ目だね。見逃さなかったね」と声をかけながら見守るのは國下多美樹教授。この日は西本願寺の大屋根の改修で出た瓦を使って、考古学現場では欠かせない実測の訓練をおこなっていた。


生物の秘密に挑む

 「実測は、形の輪郭を測っていくということと、拓本を取ることです。見たものを表現する訓練になります。綺麗に描けとは言いません。よく観察をして描こうと言っています。例えば瓦なら、模 様や製作技法を観察する。パーツをどのように接合しているのかや、表面の仕上げ方などは、職人の技術系統や製作年代を示す。茶碗なら、口の部分に職人の癖が出る。観察のポイントがわかると、ぼんやりしていた絵も変わってきます。興味が持てるようになり、すると知識も頭に入ってくるようになり、ものを見る目が肥えてくる。机上の書籍などで見ていても、実物を見ると全然違うということは意外に多いんです。遺物そのものと対峙して観察して記録に残し、考える、ということを大事にしたいと思いますね。考古学は地に足がついた学問であるべきなので、足下をすくわれないように、一歩一歩踏みしめていく必要があります」

2016年度から文学部歴史学科に新設される文化遺産学専攻では、「文化遺産」のキーワードに目的意識を持って集まってくる学生達に対して、これまでの文化財コースでは補えなかった、専門知識の体系的な習得の機会を提供する。國下教授はフィールドワークを中心に、遺跡や遺物に直接関わって、地域に刻まれた歴史を読み解く、そのノウハウを伝えていく。

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研究発展に貢献するデータを世界へシェアしていく

より実践的な英語教育をめざして

今春、開設された国際学部グローバルスタディーズ学科では、国際舞台でリーダーとして活躍できる人材育成をめざして、実践的な英語教育がおこなわれている。

1クラスあたり15名程度の少人数制を主体とした英語の授業は、スピーキングやリスニングといった基礎的な学習のみならず、論理的思考やグローバルな知識など、英会話コミュニケーションの幅を広げ るためのものとなっている。

1年次には英語でおこなう授業が週8回以上あり、翌年度に控えた海外提携校への留学(必修)に向けた英語力を養う。また、2年次以降も約8割の講義が英語または英語と日本語併用でおこなわれ、留学から帰国後も英語に日常的にふれる環境が用意されている。
3年次からは、卒業後の国際的な活動を想定して、「グローバリゼーション(グローバルな視点からの知識と思考力)」「コミュニケーション(議論ができる英語力)」「エシックス(世界で通用する倫理観)」といった三つの専門学問領域を学んでいく。

専任教員のおよそ6割が海外の大学で博士号を取得していることも、グローバルスタディーズ学科の特色の一つ。日本以外のバックグラウンドを持つ教員陣が、物事を複合的に捉える視点を伝える。

心をつかむプレゼンテーション

体感する異文化コミュニケーション

言語学を専門とするジュリアン・ピゴット講師による「Writing」の授業では、学生がそれぞれの関心事に沿って英語でエッセイを執筆する。また、エッセイの内容をほかの学生の前でプレゼンテーショ ンすることで、英語で自身の意見を伝え、他者と論理的に議論する能力を鍛える。

1年生の村田健斗さんが発表したテーマは「戦争について」。歴史的経緯だけを論じるのではなく、現在の国際情勢などについても自身の見解を交えて発表した。授業中の発言は全て英語だ。プレゼ ンテーションが終われば、先生やほかの学生から次々と質問があがり、村田さんの回答がさらに議論を深めていく。

村田さんは、この授業について「同じ英語でも文章と会話では言葉選びに工夫が必要。その違いを知るだけでも大きな経験です」と話す。

 「エッセイは、関心があるテーマを見つけてその内容を掘り下げ、文章として結論へと導くことが大切。一方で、プレゼンテーションでは自分が想定していなかったような質問があったり、議論が展開するなかでテーマから離れていくこともあり、発想力やコミュニケーション能力が求められます。同じクラスの仲間の発表を参考にして、話し方や声の大きさ、身振り手振りなども工夫して『心をつかむプレゼン』をめざしています」


この日、ほかの学生が発表したテーマは「LGBT(性的少数者)」「ジェネリック医薬品」など、いずれも簡単に結論を出すことができない社会問題だ。難解なテーマについて議論をすることは、異なる立場や視点を持つ人の意見を受け入れることでもある。

「自分の考えを英語でうまく話せずにもどかしい思いをすることも多々あります。同じ大学、同じ学科で学ぶ仲間でも意見が違うのだから海外ではなおさら。今後はさらに自信を持って自分の意見を伝 えられる能力を伸ばしたいですね」


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広報誌「龍谷」2015 No.80 最新号

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