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2024.04.16

【法学部企画広報学生スタッフLeD’s】落合 雄彦先生インタビュー

1.落合先生ってどんな人?

Q1.慶応義塾大学に進学した理由をお聞かせください。

後ろ向きかもしれませんが、単に受験勉強をするのが嫌だったからです。私の高校(神奈川県立希望ヶ丘高等学校)には当時、慶応義塾大学法学部政治学科の指定校推薦枠が1名分だけありました。受験勉強が嫌いだった私はあまり悩まずにそこに進学することにしました。私には双子の兄がいるんですけど、彼も自分の高校(神奈川県立鎌倉高等学校)から指定校推薦で慶大の同じ学部の同じ学科に一緒に進学しました。私たち双子は入学後、「受験勉強が嫌いだった自分たちは、勉強もせずに推薦で『阿呆学部御世辞学科』(頭が悪くて、お世辞だけで卒業できる学部学科)に入った」と自分たちのことを卑下していましたが、両親は喜んでいました。双子は何かと比べられたり、お互いのことを意識しますから、どちらか一方だけが受験に失敗したりすると卑屈になり、その結果、兄弟や家族の関係がギクシャクしてしまうかもしれない、両親はそんなことを心配していたのだと思います。

Q2. 大学時代、主に何をしていましたか?

最初は混声合唱団に入っていました。1年生の頃はよかったんですけど、定期演奏会などに向けた練習スケジュールがしっかりと決められていて、せっかく大学に入ったのに自由に行動できないことに次第に窮屈さを感じるようになり、3年生のときに退団しました。
そうした窮屈さを最初に感じたのは2年生のときです。私は2年生のとき、「東南アジア青年の船」という、いまでいうところの内閣府が実施している青年国際交流事業に参加しました。インドネシアやタイなどのASEAN諸国と日本の若者をひとつの船に乗せて東南アジアを航海しつつ、2カ月間にわたって国際交流をさせるという政府主催のプログラムです。船内で英語を使いながら歌を歌ったり、勉強したり、スポーツをしたり、集団生活を送ります。私は2年生の9月から11月までの間、この青年の船プログラムに参加していたため、大学の授業はもちろんのこと合唱団の練習も長期欠席しました。それで次第に「幽霊団員」みたいになってしまって、「こんな中途半端な状態はいけない、これからはもっと自分のやりたいことをやろう」と考えるようになったんです。その後、3年生からアフリカ政治のゼミに入り、3年生を終えてから休学して2年間ナイジェリアに行き、日本大使館で派遣員として働きました。帰国後、4年生に復学して、やはり日本政府主催の「世界青年の船」という事業に参加しました。活動の内容は「東南アジア青年の船」とほぼ同じですが、参加青年の出身国と航路が違っていました。「世界青年の船」では、南アジア、中東、ヨーロッパなどの青年たちと約2カ月間にわたって船上活動をしながら、インド、オマーン、ギリシャ、エジプトなどを訪問しました。
ですから、「大学時代に主に何をしていましたか」と問われると、私の場合、「ガクチカ(学生時代にもっとも力を入れたこと)」といえるものは特に何もないんです。中途半端に合唱団に入ってみたり、青年の船に乗ってみたり、アフリカ政治のゼミに入ってみたり、ナイジェリアで働いてみたり、とにかくいろいろなことをやりながらその後の人生の基盤を築こうと自分なりにもがいていた(模索していた)時代、それが私の学生時代だったと思います。

Q3.落合先生自身、大学時代はどのような学生でしたか?

一言で形容すると、「無様」だったと思います。普通の人ならばできることが、当時の私には少なくとも最初は全然できなかったんです。学生時代の私は平均以下の人間だったし、いまもそうだと思っています。たとえば、学生時代に参加した青年の船事業では、他の参加青年は私よりも英語力やコミュニケーション力があり、リーダーシップもあり、何よりも他者に対する思いやりや配慮がある。でも、当時の私は自分のことだけで精一杯で、他者との関係で必要とされる人間力みたいなものが何ひとつ育っていなかったんです。ナイジェリアにある日本大使館で2年間働いたときもそうです。学生だった私には、社会人としての常識もなければ、仕事に対する姿勢もできていませんでした。ですから当然、外交官やそのマダムにしばしば叱られたり、注意されたりしました。仕事もろくにできないのに生意気なだけの若造だったのですから厳しく対応されて当然なのですが、当時の私は大人に叱責されるたびに落ち込んでいました。
私は大学卒業後に24歳で大学院に進学したのですが、大学院生時代も「無様」の連続でした。修士課程の学生のとき、国連ボランティアとしてイラク北部のクルド帰還民キャンプに2カ月間だけ派遣されました。当時はちょうど湾岸戦争の時期で、イラクからイランなどの近隣諸国に一旦流出したクルド難民が本国帰還を始めており、国連難民高等弁務官事務所がイラク北部にそうした帰還民支援のためのキャンプを複数設置していました。私はそのひとつのペンジュウィンというクルド帰還民キャンプで働きました。しかし、国際機関で働いたこともなければ、難民や帰還民の支援活動に従事したこともありませんから、私はスタッフとしてほとんど「使い物」になりませんでした。アメリカやデンマークなどの出身のベテラン国連職員や軍人が避難民キャンプでテキパキと働くなか、何もできない私はテントのなかで、イランからイラクへと国境を超えて帰還してきたクルド帰還民の数をただただ毎日パソコン入力する作業をしていました。「自分は国連ボランティアとしてイラク北部までやってきて、こんなことしかできないのか」と思うと悲しくなり、サソリがときどき出てくるテントのなかで寝袋に包まれながら毎晩のように絶望的な気持ちになりました。

Q4.バイトやサークルはしていましたか?また、何をしていましたか?

私が学生の頃は、アルバイトはいまほど一般的ではありませんでした。家庭教師を少ししたこともありますが、もっぱら親から毎月お小遣いをもらって生活していました。父は材木店を経営していたのですが、私が小学生の頃に倒産し、その後も我が家の生活は楽ではありませんでした。しかし、両親は双子のために私立大学の授業料を払い、かつ、私たちにお小遣いを毎月渡してくれました。両親がどうやってお金を工面したのかは私にはわかりませんが、いま思うと、申し訳なかったような、なんか切ない気持ちになります。親を助けるためにもっとアルバイトをすべきだったのかもしれませんが、両親は、「いまは働かなくていい。とにかく学生時代にしたいことをしっかりしなさい」という考え方だったので、私はそうした両親に甘えていました。

Q5.イギリスのバーミンガム大学大学院に進学した理由をお聞かせください。また、イギリスの大学院に通ってみてどうでしたか?

海外留学をしたいという気持ちは学部時代からありましたが、大学には優秀な学生や帰国子女などが結構たくさんいて、英語力のない私は学内の交換留学試験を受けてもいつも不合格でした。そうしたなか、大学院に進学し、地元のロータリークラブの奨学金に応募したところ合格することができました。この奨学金のおかげでイギリスのバーミンガム大学大学院に留学しました。すでに私は日本の大学院で修士号を取得して博士課程に在籍していたのですが、バーミンガム大学大学院では修士課程(1年間)に再び入りました。2つめの修士号を取得するためです。専攻は「西アフリカ研究」でした。
留学してみると、日本とイギリスの大学院では授業も試験も全然違います。イギリスの大学院では、試験時間は1科目3時間です。試験の解答用紙も1枚の紙ではなく、1冊のノートが渡され、それにペンで3時間解答を書き続けなければいけませんでした。そのとき、日本の大学の定期試験というのはとても簡単だったんだなぁ、と初めて気がつきました(笑)。当時の私は何をやっても「無様」だったので、バーミンガム大学大学院で年度末に受験した試験科目はすべて落第しました。その後、再試験を受験してなんとか合格し、最終的には修士課程を無事終えられましたが、いま思い出しても当時の自分の能力の無さと無様な姿に胸が締め付けられる思いがします。


Q6.先生は青年の船で東南アジア諸国に行ったのちに、どうして3年生からアフリカ政治学を選んだのですか?

私は2年生のときに「東南アジア青年の船」に参加してアセアン6カ国を訪れ、帰国後に3年生からアフリカ政治のゼミに入ったのですが、その選択にはやっぱり東南アジア訪問の影響が大きかったです。いまの東南アジア諸国はとても発展していますが、当時はまだ発展途上でした。そんな東南アジア諸国を訪問して、どうせ政治を学ぶならば、欧米のようにある程度成熟した先進諸国ではなく、これから発展する東南アジアのような国々の政治を研究しようと思うようになりました。それでアフリカ政治のゼミに入りました。アフリカ政治のゼミには25名の学生が所属していて、勉強だけではなく合宿をしたり、ソフトボールをしたり、スキーをしたり、毎月のようにコンパもしたりして楽しく過ごしました。

Q7.大学の教授になろうと思ったきっかけは何ですか。

私は学生時代に2年間休学してナイジェリアで過ごしていたので、学部を卒業するのに6年かかってしまいました。他方、双子の兄は同じ大学を4年間で卒業し、政府系金融機関に就職していました。なので、私は4年生になって就活をするときに考えました、「待てよ、このまま卒業して兄と同じように就職したら、自分は兄より2年間遅れただけになってしまわないか。それよりも、いままでの自分の経験や知見を活かせる職業に就く方がいいのではないか」。私は、アフリカ政治のゼミに入り、アフリカで2年間働いていましたから、「一般企業に就職するのではなく大学院に進学してアフリカ政治の研究を続け、将来的には研究者になろう」、そう思うようになりました。

Q8.大学教員として嬉しいことはありますか?

あまりないですね(笑)。私は、「研究」は好きなのですが、「教育」は苦手です。ですから、「研究者」としての喜びを感じることはあっても、「教員」としての充実感を感じることはあまりない、というのが正直なところです。不謹慎かもしれないけれど、いま「教員」として充実した日々を過ごしているかといわれると、そんな感じはしないです。でも、どのような仕事も「ひとつの塊」みたいなものではないと思うんです。企業に就職しても、仕事は「ひとつの塊」ではなく多様なパーツから構成されています。たとえば営業職であっても、営業だけをしているわけではない。事務作業もあれば、顧客対応もあり、上司や同僚との打ち合わせもあれば、研修もあります。ひとつの仕事はいろいろな部品から構成されているんです。私の場合、「研究」という部品は得意なのですが、「教育」という部品が苦手なだけです。でも、大学で教員をしている以上、その苦手を克服しなければいけませんから、いまも日々悪戦苦闘しています。

Q9.学生やゼミ生と関わるときに意識していることはありますか?

学生と接するときに意識することですかぁ。うーん、学生には大人のルールを早く身につけてほしいとは思いますね。日本では、若者は子供の頃から自分と同級生か、1~2年位上の先輩か、1~2年位下の後輩としか主に接しないと思うんです。だから「自分たち子どもの世界」みたいなものができてしまっていて、そのなかだけで考え、そのなかだけで互いに影響し合い、そのなかだけで成長する。そして、そのまま大学生になってしまうんです。もちろん高校や大学でアルバイトをすることで「大人の世界」に接することはあるでしょうが、その影響はしばしば限定的です。すると、大人のルールを身につけていない大学生が増えてしまう。学生には、子どもだから、未成年者だから、学生だからという甘えを「卒業」して、大人のルールを身につけた人になってもらいたい、そう思いながら学生に接することはあります。そしてそのために、学生時代からキャンパスを飛び出すことを推奨しています。

Q10.先生のご趣味は何ですか?

私はつまらない人間で、趣味といえるものはこれといって何もありません。趣味ではないけど、寝ることは大好きです。私の人生、半分位は寝ているかもしれない。本当によく寝ます。寝ると、頭の中がすっきり整理されたような気分になるんです。また、余った時間に何をするかという風に考えると、余った時間はだいたい論文を書いています。もしそれが趣味であるというならば、趣味なのかもしれません。

Q11.龍谷大学の好きなところはどこですか?

龍谷大学は「人に優しい大学」だと思います。冷酷な大学、抑圧的な大学、権威主義的な大学、官僚主義的な大学などなど、日本にはいろいろなタイプの大学がありますが、龍谷大学は人に優しい。私が龍谷大学の「従業員」のひとりとして感じるのはそのことです。それが一番好きなところです。
うまく言えないですけど、あえて欲を言えば、学生のなかに「誇り」みたいなものがもっとあったらいいのになぁ、と思うことはあります。「誇り」というのは、誰かから与えられるものでもなければ、押し付けられるものでもなく、自分たちのなかに自然と湧きあがって共有されるものだと思うんです。それが龍谷大学に集う者たち、特に学生の心のなかにもっと生じたらいいなぁと思います。人間にとって「誇り」というのはとても大切です。それは、他者と比較して優越感に浸ることとはまた少し違っていて、龍谷大学に集うことの喜びみたいなものです。龍谷大学に「誇り」を感じる学生って、どれくらいいるのでしょうか。


2. 落合ゼミってどんなゼミ?

Q1.落合先生のゼミではどのようなことが学べますか?

簡単に言えば、アフリカ地域研究ゼミです。ところで、ボリウッドやノリウッドって知っていますか?ボリウッドというのは、インドのボンベイ(現ムンバイ)で作られている映画のことであり、ノリウッドは、私が学生時代に2年間を過ごしたナイジェリアで制作されている映画を指します。ナイジェリアは映画産業が盛んで、ハリウッドの何倍もの本数の映画が毎年制作されています。ノリウッドは一例ですが、私のゼミでは、そうしたアフリカに関する多様なテーマについて勉強しています。

Q2.落合先生のゼミにはどのような学生に来てほしいですか?

 私のゼミは国際関係コースで開講されているのですが、アフリカに興味がある人であれば誰でも大歓迎です。あえていうならば、他者に対して関心がある人、つまり自分と違う文化や社会に興味や関心を持っている学生に来てもらいたいです。自分と違うものに嫌悪感を抱いて排除してしまうのではなく、自分とは違う民族や文化を積極的に知って受容しようとする人に来てもらいたいと思います。
欧米がジュースとすれば、アフリカはビールです。欧米に行くと、綺麗なものや楽しいことが沢山あるけれど、アフリカに行くと、暑いし、道路はガタガタだし、ときどき停電するし、不快なことが多くあります。でも、たしかにジュースのように甘いものは病みつきになりますが、ビールのように苦いものもまた「中毒」になります。苦いものは、その良さを一度知ると離れられなくなるのです。「アフリカの水を飲む者は、またアフリカに帰る」といいますが、私のアフリカ研究のゼミに来て、アフリカから離れられない人になってもらえればと思います。

Q3.落合先生のゼミのイベントについてお聞きかせください。

12月に国際関係コースの交流会でプレゼンテーションをします。そのほか、アフリカのビデオを観たり、アフリカ関連の展覧会に行ったりしています。また、かつてはゼミの学生をエチオピアやシエラレオネに連れて行ったこともあります。特にシエラレオネでは、龍谷大学の女子学生2名を、日本人シスターのいる修道院に預けてボランティア活動をしてもらったこともあります。機会があれば、学生をまたアフリカに連れていきたいです。


3.学生に向けて

Q1.好きな言葉などを含め、学生に向けてメッセージをお願いします。

内村鑑三を知っていますか。内村鑑三は日本を代表するキリスト者で、明治から大正、そして昭和初期までの時代を生きた人です。内村鑑三は次のように記しています、「誠実、心の真のありのまま、これ常にいかに貴きかな。実際に自己の心の中に存することを語る者は、その方法いかに拙劣なるも、必ずや、彼に聴かんと欲する人あるべし」。心のなかにある本当のことを言えば、たとえその伝達の仕方が上手ではなくても、その人に耳を傾けてくれる人がいる、というのです。
学生時代の私は「無様」でした。しかし、よく考えてみると、それは、大学のキャンパスを飛び出し、青年の船に乗って東南アジアや中東を訪れたり、ナイジェリアで働いたり、イギリスに留学したり、イラクの帰還民キャンプで国連ボランティアをしたりしたからです。つまり、自分の能力では対応できないような環境にあえて自分を置くことで、私は「無様」になったのです。当時の私には、自分で自分を成長させる方法が他に思いつきませんでした。私は、自分が挫折し劣等感に苛まれてしまうような厳しい環境にあえて自分を置くことでみごとに「無様」になり、そこから惨めに這い上がることで成長してきたのです。
「井の中の蛙大海を知らず」といいますが、若い人には「身近で安全な世界」に安住せず、「遠くの厳しい世界」に向けて航海をしてほしいと思います。そこには、失敗や挫折が待ち受けているかもしれない。しかし、失敗と挫折は私たちが能力以上の環境に挑戦したことの証し(勲章)なのです。私は学生時代を通じて失敗や挫折を経験し、それらになんとか耐えてきましたが、挑戦しないことにだけは耐えられなかったのです。今回のインタビューでは、私の心のなかにあることを率直にお話ししました。このインタビューを読んでくれた人が、私と同様、「無様」な学生時代を過ごす人になってくれることを願ってやみません。


【取材・記事】
法学部学生広報スタッフ LeD's
柴田 美怜(法学部3年)
高橋 尚人(法学部2年)
中川 波音(法学部2年)