2026.03.30
【龍谷大学のあゆみ】1876~ 海外の英知がこの学舎へ 新たな挑戦が始まる
1876 近代化に向けて 学林から大教校へ
1872年に角坊本堂を学林講堂として使い、初めて洋学を開講。「独乙語」が科目に上がった。そして1876年に学制の近代化を図るべく大改革を断行した。学林は大教校と改称、これを頂点に全国7か所に中教校、各県に小教校が設置され、総合的な教育システムが整った。それは明治政府の学制改革よりも早く、改革が実現できたのは本願寺第21代宗主・明如上人の仏教復興への思いの強さによるところが極めて大きい。
1879 大宮学舎、落成
明如上人は、学林の大改革に着手すべく、島地黙雷や赤松連城らをヨーロッパに派遣し、現地の教育制度を視察させ、上述の学制改革に至った。そして、1879年に擬洋風建築による大教校の校舎(現在の大宮キャンパス本館)と学生寮(現在の南黌・北黌)が落成した。翌1880年には明治天皇が行幸された。
1885 総合大学への第一歩普通教校を付設
大教校に伝統の仏教研究だけではなく、一般の学問(普通学)を専攻する「普通教校」が付設された(現在の東黌の場所)。普通教校の学生有志が当時の風紀の乱れを憂慮して結成したのが「反省会」で、メンバーたちは自己を律することで社会改善を目指した。反省会の中心メンバーの1人が高楠順次郎で、後に世界的な仏教学者として知られ、武蔵野女子学院(現在の武蔵野大学)の創立者にもなった。
1886 社会課題に向き合う学生の有志が反省会結成 翌年には後の中央公論となる反省会雑誌を刊行
学生有志で結成された「反省会」の機関誌として誕生した「反省会雑誌」は、のちに「中央公論」へと発展していく。当時の学生がどのような社会課題と向き合ったか、学生の意識と志を知るうえで貴重な資料であり、わが国の総合雑誌の歴史を語るうえでも評価は高い。
1887 日本の大学祭の草分け「降誕会」はじまる
親鸞聖人のお誕生を祝う「降誕会」は学生たちの発案により始まった。現在の大学祭に劣らない多彩な催しで市民3万人を集め、京都の街に活気をもたらした。
1888 さらなる教育改革へ二院一寮制がスタート
考究院・内学院および文学寮(普通教校を改称統合)の二院一寮制となる。のちに「カルピス」を創始することになる三島海雲は1893年に文学寮に入学している。
1892 写字台文庫の蔵書が寄付される
約3万冊の歴代の宗主の蔵書が、本願寺第21代宗主明如上人から寄付された。
1900 本学の名称が変更に 「仏教大学」となる
学制改革により、本願寺派の学校は仏教大学、仏教高等中学、仏教中学の3種となる。
1902 仏教大学を仏教専門大学(京都)と高輪仏教大学(東京)に分立
高輪仏教大学は仏教以外の一般的学問(普通学)の高度化を目指したが、わずか2年で再統合となる。
1902 日本初の学術調査隊「大谷探検隊」発足
インドから日本への仏教伝来の道を明らかにすべく組織された学術調査隊が「大谷探検隊」。隊長は当時は新門(後に本願寺の代表になる人のこと)だった大谷光瑞(本願寺第22代宗主)。第一次調査隊のメンバーは文学寮(後の普通教校)の元教授と元学生から編成されていた。インドで仏教の拡大に大きく貢献したアショーカ王(紀元前3世紀)の事跡をわが国で最初に本格調査したのは大谷探検隊である。