Need Help?

News

ニュース

2021.01.06

新年法要学長挨拶

 

みなさま、新年明けましておめでとうございます。年頭にあたり、一言ご挨拶申し上げます。

昨年は新型コロナウイルス感染一色に染まった感がいたします。未だに先が見通せない状況です。今年の正月は残念ながらめでたい気分に浸ることはできませんでした。視聴してくれている学生諸君の中には、故郷に帰ることができなかった人も大勢いるかと思います。仲間との楽しい会食を止めにするなどいろいろと制約があり、いまは耐え忍ぶことが必要になっています。

 

仏教では、菩薩が実践すべき大事な徳目のひとつに「忍」(忍辱)というのがあります。まさに耐え忍ぶこと、これが「忍」であります。正直言いまして、これが重要な事項であることは、若いときは実感がもてませんでした。忍耐力ということであれば一般にも言われることであり、なにも仏教をもち出すまでもないだろうと考えていた訳です。しかし、仏教で云う「忍」というのは「ただ我慢する」というものではありません。
私たちの穏やかな日常というのは、いつまでも続くものではありません。時に、予測できない事態がふりかかるものです。突然に、大切な肉親の死にあうこともあります。突然に、病魔におかされることもあります。突然に、自然災害に見舞われることもあります。人生は思い通りにならないものなのです。このコロナにしてもそうです。
コロナ禍にあって、ステイホームということが盛んにさけばれました。若い人にとっては、自室にこもれば息苦しさを感じてしまいます。ただ、その時に他者との関わりの大切さに気づく人もいたはずです。平常時にはなかなか気づかない。仏教で云う「忍」とは気づきを促すものなのです。耐えろ、辛抱せよ、といった根性主義とは違うのです。仏教で云う「忍」は目を開かせてくれる、智慧へと結びついていく性格のものです。
これまで学生諸君に、何度かメッセージを放ちました。このコロナ禍にあって、ステイホームをしている時、どう生きるべきかを考えようと促しました。でも、自分勝手に「どう生きるか」を考えても肝心なことは見えてきません。自分にとってどう都合よく生きるか、となってしまうものなのです。
問いかけが大事です。「今の自分にできることは何なのか」。そして、その問いかけをする前提として、今の状況をどう捉えるか。自己を見つめること、と同時に社会を見つめる、ということが大事です。

この度の新型コロナ感染拡大はまず中国・武漢が発生源とみなされ、大きく報道されました。中国の女性作家に方方(ファンファン)さんという方がおられます。その方方さんが、都市封鎖された武漢市の様子をブログで発信し始めたのは昨年の1月下旬からでした。このコロナ禍にあって私の心に響いたのは方方さんの言葉でした。彼女は2月24日にこのような文章を綴っています。

私は言っておきたい。ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれほど速い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかでもない。ましてや、どれほど豪華な会議を開き、どれほど絢爛たる花火を上げるかでもなければ、どれほど多くの人が世界各地を豪遊して爆買いをするかでもない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。

もう一度、最後の文を読み上げます。

「ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ」

本学の建学の精神と響き合う言葉だと受けとめました。彼女が発信した言葉は『武漢日記』(河出書房新社)として発売になりましたから、関心のある方は読んでみてください。

この度のコロナ禍は文明災、文明の災いともいうべきものです。私たちに豊かさ、快適さ、便利さをもたらしてくれた文明が私たちを苦しめているのです。気候変動、環境破壊、文明の災いは、近年強力なものとなっています。さらに20世紀末から未知のウイルスが次々と現れてきました。そして今回のコロナパンデミック。人類が自然の隅々まで開発の手を伸ばした、生態系へのとめどない介入が未知のウイルスを人間社会に呼び込んでいるのです。今、人類に対し、大きな問いかけがなされています。「果たして私たちの文明はこのままでよいのか」と。

それにしても、学生諸君はいま手応えが感じられないままでいるかと思います。困難な状況。忍耐を強いられる状況。若者にとっては辛いことであります。ハンデを背負った状況にある人の営みから、何かを学びとることができるのではないかと、私は考えています。
あるテレビ番組で「ベストを尽くせたことが幸せ」という言葉に胸を打たれました。その番組というのは「私は左手のピアニスト 〜希望の響き 世界初のコンクール〜」です。
これは2018年11月に「左手のピアニスト」のためのコンクールとして開催された国際コンクールを取材した番組です。何回か再放送されたようです。この正月にも再放送されました(2021年1月2日 BS1)。ご覧になった方もおられるかと思います。
ジストニアという病気を発症して右手が動かなくなったピアニストたち。彼らは将来を期待されながらピアノが両手で弾くことができなくなったのです。
絶望の淵に立たされ、そこから再起してコンクールに臨むピアニストたち。左手だけでピアノを弾く。コンクールですから最終的には順位がつきます。参加者のひとりがコンクールを終えて言った言葉が胸に刺さりました。

「ベストを尽くせたことが幸せでした」

困難な状況下であっても、最善を尽くす。不安を抱えながらも最善を尽くす。それが幸せだ。考えさせられます。
私たちは日ごろ、何を幸せだと思って生きているでしょうか。欲しいものが手に入る。その時幸せを感じます。しかしまた次に別のものが欲しくなる。実は、それではいつまでたっても幸せがこないのです。
ある意味、私たちには欲望のエデュケーションが必要なのです。ハンデを背負っても、ピアニストであり続けたい。そうした強い意志が、参加したピアニストたちから精進努力を引き出したのです。

さて、仏教経典には、絶望をした人たちが多く登場いたします。息子が父親を殺し、母親を牢獄に閉じ込める。そうした物語が観無量寿経というお経の中に説かれています。母の名前は韋提希(イダイケ)。しかし、彼女はお釈迦さまから阿弥陀仏に関する法話を聴き、救済を得るのです。
正信偈の中にそのことが出てきます。親鸞聖人は唐の高僧善導を称える中で、韋提希が三つの「忍」、「三忍」を得たと語っています。

「与韋提等獲三忍」

という部分であります。三つの忍、すなわち、喜忍・悟忍・信忍です。阿弥陀如来の心を承認することができたという喜びを表す言葉です。それが三忍。三つの忍という言葉であります。
さきほどの「忍」は耐え忍ぶ。それは智慧へと繋がると申しました。ここでの「忍」は真理に対する頷き、喜びを表すものなのです。

教えにふれることで悲しみを喜びに転換することができるという確信の中に、親鸞聖人は生きています。苦しい状況下であっても喜びに転換する力を恵まれている確信の中に、親鸞聖人は生きています。建学の精神にふれる。建学の精神を学ぶ。それは、私たちが生きていくうえで大きな力を得ることにつながっていきます。学ぶ前提として一人ひとりが、自己をみつめ、社会をみつめる。
生涯にわたって学び続ける力を養う場が龍谷大学です。本当の幸せとは何であるかを見きわめる大学。それが龍谷大学です。自分の弱さ・愚かさを認めつつ、確かな道を歩んでいける土台をつくる大学。それが龍谷大学です。

昨年、本学では2039年の創立400周年を目指した長期計画「構想400」がスタートしました。図らずもコロナ元年となってしまいました。しかしながら、各人がこれまでの生き方を省みる、そして、近代文明以降の文明社会を省みる、そうした機会にしたいと私は考えています。創立380周年に掲げた「自省利他」を実践していきましょう。コロナという危機を、新たな価値観を創り上げていく契機とし、飛躍を遂げる機会と捉えましょう。個人の生き方だけでなく、組織の在り方をみんなで考え直す機会といたしましょう。共に助け合い、支え合いながら最善を尽くしてまいりましょう。

今、感染拡大がとまりません。最後に、視聴してくれている学生諸君には改めて自重した行動、当事者意識をもった行動を心がけてもらいたいと思います。
みなさまの健康を心から願い、私の年頭の挨拶とさせていただきます。
本日はご参加いただき、ありがとうございました。