学長法話

7月の法話 2011年7月13日(水)/深草顕真館


おはようございます。梅雨が明けて、京都も灼熱の真夏という時期になりました。

ちょうど一年前のことを思い起こしますと、京都は7月20日頃、祇園祭の巡行が終わった過ぎに梅雨明けをし、その後、8月、9月と猛暑が続いておりました。

今年は昨年と比較しますと10日程早い梅雨明けとなりました。朝の日差しもとても強くて、しばらく歩ていると汗が吹き出すようなことであります。

日差しが強いものですから少しでも外に出ておりますと、より一層日焼けをしますので、知り合いから顔が日焼けして黒光りしていると言われたりします。

さて、3月11日の東日本大震災から7月11日で4ヶ月が経ちました。

この間の事情はすでに皆さま方ご承知のとおり、一部では徐々に復旧・復興に向かって歩んでおりますけれども、被災に遭われた方々の悲しみ、あるいは苦労のたえない困難な事情はなお続いています。 言うまでもなく、福島原子力発電所での放射能汚染に関わる深刻な事態が続いています。避難所生活が続き、放射能物質が拡散している地域は厳し環境となっています。

京都から遠く離れておりますけれども、私たちは今この時代に共に生きる者として、3月11日大震災がもたらした事態を、私たちの生活の中でしっかりと受けとめて、私たちのなしえる支援を具体的に持続しながら考え、実行し、合わせて「核エネルギー・原子力の平和利用」「戦後の豊かな社会」など問い直していきたいと思うことであります。

ところで、親鸞聖人750回大遠忌はいま本願寺で勤まっています。親鸞聖人の90年にわたるご生涯を振り返りましても、その時代に3回ほど大飢饉が起こっております。

一つは親鸞聖人が9歳の時、養和元年(1181)に得度されて比叡山に登られますけれども、その前年の年にも大飢饉が起こって京都も大変な事態に見まわれています。

親鸞聖人の生まれられた日野家も親鸞聖人を含めて後の弟さんたちもすべて得度・出家していますが、その当時の様子は、鴨長明の『方丈記』の中でその様子がリアルに書かれているのでうかがえます。

その後、58歳頃、寛喜年間がありますけれども、その時にも大飢饉に見まわれています。そして親鸞聖人87歳から88歳の正元元年・文応元年にも大飢饉がありました。

現代社会では、大飢饉に見舞われることが私たちの生きること、生活することの中でどういう事態に追い込まれていくのかということがただちに実感しにくい時代でもあります。

確かに、アフリカのソマリアなどでの飢饉にともなう食糧援助問題が報道されますが、私たちは深刻な事態と認識しながらも、我が身に引き寄せて実感することが困難で、よそ事になりがちであります。

私たちが今日という日のなかで食事をすることがきわめて困難になるという事態が続くことは、どういうことが私たち自身にもたらすのか、厳しい状況としては、いのちそれ自体が脅かされるという事態が飢饉であります。

そういった際に、親鸞聖人の書かれたなかに「ご消息」というお手紙があります。43通とも44通とも数えられます。

その中に、大飢饉のことが書かれている手紙があります。詳細は時間上申しあげられませんが、冒頭に、「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。」(註釈版聖典771頁)との文章があります。

つまり文応元年の前の年、正元元年(1259)とこの年(1260)とに多くの老少男女の人たちが次から次へと亡くなっていく。これはとても哀れなことである。ただし生死無常のことわりについては、詳しくすでに如来が説いておられて、驚くことではない。生死無常のことわり、つまり生死というのは常が無い。常に変化するということわり、道理はすでに如来が説いておられることだと。したがって、そのこと自体は驚くようなことではないと。

私たちの通常の時間感覚、日常感覚に生きるものは、今、いのちあるこの事態は、そのまま明日があり、明後日があり、あるいは一年後があり五年後、十年後がある。時間の延長上の中で「生」というものを考え、いずれ「死」というものがあるんだろうと、このように思って生活するのが普通の日常の時間感覚であり、「生」に対する感覚あるいは意識だと思います。

しかしながら、生死無常のことわり、つまり生死は無常である、常ではない、私の思いのとおりに働いていないのである。この「ことわり」をすでに釈迦如来は説かれている。

したがって、生ということも死ということも、無常のことわりとして、つまり我を超えた、我の思議を超えたはたらきとして、換言すれば生かされていることとしてあると説かれています。

だから親鸞聖人も88歳のときに大飢饉にみまわれて、その事態をどのように受けとめていくのかという、目前の生存に関わるありようというものを含めて、深く考えていけば、その事態というのは生死は一見隔てがあるのだけれども、つきつめていけば、今日という日のいのちの中で、死というはたらきもあり、生というはたらきもある。そのことに気づき、目覚めるならば、私たちは生死を隔てをもって、界をもって見がちの中に、私たちのさまざまな悩みがあり苦悩があり、迷いがあるということになります。

私たちの悩み苦悩というのは、深くなればなるほど、ある意味では生と死というものの境界線、溝を幅広く取って、その隔ての中でさまざまなことを考え、思いがちなところある。

逆に言うならば、私たちが今いのちあるというところのはかりしれない有り難さと尊さ、そしてその中にいつどういう形であっても死というものがただちにこの身に生ずるのであるということを深く味わってみることが大切だと思います。

そうであれば、私たちは日常の中で、多くの方々と出会っている、それが友人であったり職場の仲間であったり、親子であったり家族であったり、そういう出会いというものがいかにかけがえのない尊さを深く思えば思うほど、その出会いに感謝することもできるのではないかと思います。

親鸞聖人は、その続きでは、「まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。」亡くなるときの善し悪しというものは言わないものだと。
通常の一般的な意識では死に際の善悪を言いがちであります。しかし、信心決定の人、阿弥陀仏のはたらきにまかせる人、阿弥陀仏の本願を信順する人は、阿弥陀仏のはたらきに疑いをもたないのですから、その人は、現生に、今、浄土に生まれる身と定まることだ、述べられています。

私たちの日常の時間感覚は、生涯の中で予定を立て、計画を立てて、つまり人生設計を立てて進めること、取り組んでいくことが大切である、当然のことであると考え、意識しています。

私たちの現代社会は、合理性計画性の中で、人工的に物事を進め、対象に対する働きかけ、操作を視野に入れた政策を考えることが重視されています。機械的な工学的な社会像の考え方でもあろうかとおもいます。

一方で、一人ひとりが主体的に「いのち」というものを厳しく的確に見つめていけば、私たち一人ひとりは、どのように「いのち」を考えていけばいいのか、「いのち」を大事にしていけばよいのかということが先ほど申しあげましたように3月11日の東日本大震災に向き合いながら、見直したいと思います。

私は3月11日午後2時46分の地震の時には、京都市内、ちょうど師団街道の伏見稲荷の北を車で通っておりまして、車が揺れるなという感覚とともに、前方を見ると電線が揺れており、大きな地震かなと思っていました。

しばらくして、20分程経過してTVをみる機会がありました。すると、どす黒い津波が押し寄せる映像がライブ中継されていました。

津波が押し寄せる中、逃げまどう大勢の人たちがおり、津波を避けようとする車が映っていました。しかし、車を運転する方々も逃げる道を見いだせないまま縦横に走る車が見られ、そのまま津波の中に巻き込まれていく状況が映っていました。

避難されてく方々の中には、親子、夫婦、地域の人たちが一生懸命走りながら、高台に逃れた方々もおられる一方で、津波の中に飲み込まれてしまって、手を取り合って避難される途上で手を離さなければならないという痛ましい、悲しい様子も放映されていました。

まさに立ち竦む、呆然とする、厳しい、悲しい現実です。この体験はその当事者が一番厳しく受けとめられることでありますけれども、私たち自身が我が身を直ちにそこに置くことは難しいということはいうまでもありません。

しかしながら、そういうところに我が身を置いてみようという思いが、そのいのちの大切さ、そのこと自体がいかにつらく悲しい、痛ましい、困難な事態であろうかという、私たちの日常生活の中では思えない深い思いが私たちに育てられ、さまざまな支援に取り組むことがあると思います。

私たちは、この京都の地で、龍谷大学で学び、仕事をしていく中で、親鸞聖人の「ご消息」にある生死無常のことわりという、まことに厳しく、的確な真の教えに学びたいと思います。そういった学びを重ねていくことが私たちの大学を構成するものの大きなつとめであろうと思います。

阿弥陀仏のはたらきは、ただちに私たち自身に見えるものではありません。しかしそれはお名号としてはたらいてくださり、私たちは「南無阿弥陀仏」と称えます。

そこに生かされているいのちを受け取り、多くの人々の苦悩を共にする生き方を開いていくことが私の課題であり、かつ人間であることの普遍的な課題であると気づかされます。

多くの方が紹介されています山口県の金子みすずさんという詩人がいらっしゃいます。大正期の方で26歳で亡くなられた方です。

金子さんの詩は小学校の国語の教科書でも広く紹介されています。一節だけ紹介させていただきます。よく知られています「星とたんぽぽ」という詩です。

 星とたんぽぽ

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

最後の「見えぬけれどもあるんだよ」というところを言葉をかえていいますと、私たちの眼にはただちには見えないけれども、阿弥陀仏のはたらきがすでに私のところにはたらいてくださっているものと受けとめていける身に、私がならせていただくというのが、本学において学び、また職場の縁を結ばせて頂く上で尊いことではないかと思います。

しばらくいたしますと、学生諸君においては前期の試験があり、あと一ヶ月ほどで前期も終わりますが、いよいよ真夏の中ですので十分にお身体に気をつけて、いのちの尊さをこの身にいただいてことを深く味わい、受けとめて、日々を過ごさせて頂きたいと思います。 ようこそお参り頂きました。

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