学長法話

10月の法話 2011年10月11日(火)/瀬田学舎・樹心館


おはようございます。今朝は京都駅から電車に乗って瀬田駅で降りて、少しうろうろして、バスに乗ってキャンパスに入りました。瀬田学舎には秋の風情が漂っていて、木々の色合いが深まっているようです。しばらくベンチに座って空を仰いだり、風の心地よさや空気が清清として良い環境だなぁと思いました。私は先週以来ずっと出張が続いておりまして、5日には東京往復し、6日に、7日と東京での仏教系大学の会議に出張したり、8日は龍谷大学の響都ホールでの矯正保護研究センターのシンポジウムでの挨拶、9日はコンソーシアム京都の関連で岡崎公園での学生祭典開会式、10日には大宮学舎で中央アジア出土の仏教写本をめぐる公開講演会、学術討論会が開催され、旅順博物館の館長さんらが参加されての挨拶。いろんな仕事に奔走しておりましたので、このような自然環境に身を置くことがなかったものですから、とっても心地よく感じております。

ところでご存知のように、3月11日の東日本大震災から今日でちょうど7ヶ月が経ちました。皆さま方もテレビ・新聞、あるいはさまざまな本が出されておりますし、専門的に分析されたものが出ております。そういった中で私も買い求めて、多くの本を読んでもきました。その中で、一冊の新書を最初にご紹介をしておきたいと思います。短い文章ですので読み上げます。

「残念ではありますが、人間とは愚かにも欲深い生き物のようです。豊かさや便利さ を追い求めながら、地球温暖化、大気・海洋汚染、森林破壊、酸性雨、砂漠化、産業・ 生活廃棄物、環境ホルモン、放射能汚染、さらには貧困、戦争など、多くの人災を引き 起こして地球の生命環境を破壊しています。種としての人類が生き延びることに価値が あるかどうかは、私には分かりません。しかし、もし安全な地球環境を子どもや孫に引 き渡したいのであれば、その道はただ一つ。「知足」しかありません。代替エネルギー を開発することも大事ですが、まずはエネルギー消費の抑制にこそ目をむけなけらばな りません。」

この文章は、皆さん方も読まれたかもしれませんが、小出裕章さんが今年の6月に扶桑社から出された『原発のウソ』という新書の末尾に書いている文章です。

小出さんは、京都大学の原子炉実験所の助教として40年ほど原子力の研究に取り組まれて来られています。すでに、研究の中で原子力の危険性を放射線被害うける人々の立場に立ってうったえてこられました。まさに、福島原子力発電所の事故を受けて、書き下ろした内容です。事故の後、小出さんは全国各地に出かけて、この度の原子力事故についての所見を説明され、さまざまな相談に応じておられます。小出さんの新書には、専門性を踏まえた現代社会が抱えるさまざまな問題、とりわけ二分的な発想ではなく、そこに人間の生き方とか社会のあり方とか、とりわけ人間そのものへの凝視として、「知足」、すなわち足を知るという言葉を取り上げておられます。

人間はいつの時代においても、自然的な有りようの方向性としてはひたすら欲深いことを満たそうとすることがあります。しかし、私たちの大学では、長きにわたって建学の精神、仏教というものを掲げている大学であります。大学を構成する教職員、そして学生にとって、先に読み上げた小出さんの文章、「知足」ということばに集約される人間のあり方について、深く共有することがあるのではないかと思います。小出さんが必ずしも明確に仏教を意識されたどうか分かりませんが、一つの根本的な哲学、あるいは時代の諸条件を超えた真実、真理というものを考えながら、東日本大震災、そして原発問題に向き合うことの大切さを、新書の中で語っておられるのではないか思いました。

次に、2週間ほど前に寺島実郎の新書を手にしました。寺島さんは、テレビにも時々出でいらっしゃいますが、今、多摩大学の学長をされ、財団法人日本総合研究所の理事長、三井物産戦略研究所の会長などをされて、東京の九段坂で寺島塾を主宰されています。そして政治・経済・外交を中心に日本の社会のあり方や日本とアメリカ・アジアとの関係についても、従来のあり方を見直して、積極的な提言をしている方です。寺島さんは、9月1日にPHP新書として『世界を知る力 日本創世編』を出されました。3月11日の大震災を通して、日本人の歴史意識を深めることが必要ではないかと提言しています。というのは、東日本大震災の後、日本人の多くの方が大きな不安とか苦悩とか、あるいは孤独感に包まれている。そういう中で寺島氏は、不安、苦悩、孤独感を超えていく上で生命の連鎖の不思議というものを見つめることが大切ではないか、と言われています。つまり一人ひとりは個として孤立しているのではなくて、歴史意識を深めると、いのちのつながり、生命の連鎖の不思議にきづくのではないかと。

「この世に生を受けた初めから、一人ぼっちなどではなかったのである。むしろ、困難 な時代を生き抜いてきた祖先のDNA、そして思いを託されて、この世に生まれ、いま を生かされているのではなないだろうか。いまを生きることが、奇跡のような生命のバ トンリレーの上に成り立っていると実感すること。これこそ歴史と自分との接点を考え る上でのスタートラインになると、わたしは考えている。」「わずか10代前の250 年間からでも、2046人の血のつながりのある祖先の視線が、われわれ一人ひとりを みつめているということ。この思いを、われわれはおろそかにしてはならない。これこ そが歴史意識の原点である。」

などと述べています。

さらに寺島さんは、現実の世界が地獄絵そのものだった時代に、自分自身の弱さを死ぬまで直視しながら、時代と向き合い格闘して、すべての衆生が現世において救われる道を模索した親鸞の姿に、「3・11」以降のわたしたちの思考の基軸とするべき素材をえようとしています。つまり、「巨大地震、巨大津波、未曾有の原発事故が重なり、いま日本は明日が見えない状況にある。にもかかわらず、昨日までの延長で気安く『日本復興』を語る、知識人が後を絶たない。鈴木大拙がいうところの「反省」がない復興論に、いったい何の意味があるだろうか。」と、知識人のありようを厳しく問いかけています。その厳しい問いかけは、寺島さん自身のこれまでの自らのありようへの根本的問い、「反省」を内在したものであることはいうまでもなりません。

寺島さんは、

「わたしたちは、いや、すくなくともわたしは、『近代主義者』として、効率性や快 適性を求めつづけて生きてきた。そういった近代化を推しすすめることが社会的な価値 だと信じて生きてきた。日本の復興、創生を語るとき、その事実を直視し、深呼吸して 次の歩みをはじめねばならない。ちょうど、親鸞が自分のなかの煩悩を生涯見つめつづ けて、それでも現世において、皆とともに浄土往生する道を模索したように。わたした ちは、いまこそ痛烈な反省の意識をもって、近代主義の光と影を見つめなければならな い。日本がひっくり返ったともいえる鎌倉時代に、現世の地獄を目の当たりにしながら、 根底的に新しい生き方を提示した親鸞の生きざまを深く噛み締めることは、日本創世を 語る上で、遠回りのようでいて、意味ある作業だと思えてならない。」

と述べています。

親鸞聖人の精神を建学の精神と掲げている私たちにとって、寺島さんが述べられていることは、分かりきったことである、当然のことであると、ついつい思われるかも知れません。しかし、私たちが3.11の東日本大震災とそのもたらした現実に向き合う時、寺島さんが真摯に生命の連鎖の不思議への気づきを本質としながら、根底的に新しい生き方を親鸞の生きざまに求められたことは、きわめて意義ふかい提言であると思うことであります。

小出さん、寺島さんというお二人が最近発行された新書を紹介いたしましたけれども、私には今までお二人が仏教とか親鸞との接点を持っていたかどうかということを意識しないで本を読んでいましたけれども、お二人の新書を読んでみますと、日本の伝統、文化の中で培われている仏教の思想あるいは親鸞という人の生涯と思想が、3.11の東日本大震災が顕在化した現代との接点をもっており、そのことの意義を明確にされており、私たち自身も改めてお二人の視点から真摯に学び直しが必要であると思いました。

ところで、今、本学では第5次長期計画の2年目となっています。教育力とか研究力の充実などを掲げています。教育力の充実ということの一つには、学生との関係、関わりというものを深めていかなければならないと思っています。今朝、7時40分位に瀬田学舎に着いて、キャンパス内を散歩していたのですけれども、ベンチに座っていますと理工学部の岡本雄二先生に勤行の時間まで少し時間があるからコーヒーでもどうですかと声をかけられまして、研究室に立ち寄らせていただきました。岡本先生は本学で長く教鞭を執っておられますが、振り返られて先生が仰るには、私たちの学生時代は1回生、2回生ぐらいから先生の研究室によく出向いたというお話をされていました。それはたぶん学生と教員との距離が極めて近いところがあって、先生の日々のありよう、研究のやり方、研究への姿勢などを学生が見て、そのことが勉学の大きな糧になったと仰っておられました。学内では教員は各自のオフィスアワーが公表されて、学生が先生との開かれた時間帯が設定されてますが、教育力の充実の中には、学生と先生との開かれた対話がなにより大切であると思います。

また、私たちが対外的に出かけて、本学にお越し下さっている他大学の先生方に出会いますと、先生方が本学のさまざまな部署へ出向くと、その窓口の職員の皆さんが本当に親切にいろいろ教えていただいているということをよく聞くことがあります。このことは、あたりまのようではありますが、そうではなく、本学の建学の精神に培われた人間のありようへの深い気づきがそのような職員の皆さんにいかされれているのではないか思ったりします。私としてはとても喜んでいる次第です。

今日、皆さんと共にお参りをさせていただきましたが、とりわけ3.11の東日本大震災後の社会の中ではいろいろな課題がありますので、そういった課題に向き合っていく者は、私というものを絶対化することなく、この度の原子力発電所の事故についても指摘されていますように、絶対的な安全神話にあぐらをかくのではなく、自らのありようへの、そして日本の社会のありようを厳しく見つめ直していくことが求められます。そのことは、建学の精神、すなわち浄土真宗のみ教えである南無阿弥陀仏、阿弥陀仏に帰依する、阿弥陀仏を仰いでいく、阿弥陀仏の智慧と慈悲のはたらきのなかで私たちの根源的なありように気づいていく、そして現代社会に参画していくことのなかで具体化することだと考える次第であります。

早朝からようこそお参りくださいました。

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