学長法話

4月の法話 2012年4月25日(水)/深草学舎・顕真館


おはようござます。
講義の前、仕事前に皆さんようこそお参りいただきました。
2012年(平成24年度)の新学期が始まって4月も4週間を迎えております。学生の皆さんにとっては講義が始まって3週目となります。特に新入生の皆さんにとっては、入学して4週間という期間が経ちますので、大学の印象、また講義についても特に新たな思いや、戸惑いなどがあろうかと思います。大学は講義以外にも、学生諸君にとってサークル等に入って4年間の学生生活を過ごすことも大きな意味がありますので、ぜひ講義以外の場でも、自発的に友人・仲間とのさまざまな活動にぜひ取り組んでいただきたいと思います。また、本学に新たに就職された職員の方、教員の方々にとってもどういう大学であるのかという印象等があろうかと思います。一般的に最初に就職して得られる喜びの一つは給料ではないか思います。本学では今日25日が支給日となっています。新たに就任された方々にとって、今日は、どこかに立ち寄ろうかなと思っておられるかもしれません。

ところで、この顕真館は建立されて27年ほど経ちます。講堂の正面には親鸞聖人が84歳のとき(康元元年)にしたためられた六字の名号、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。本学の建学の精神を本質的に示しているものです。「南無」というのは「帰依する」とか「信ずる」とか「まかせる」という意味であります。「阿弥陀仏」というのは量ることのできない光といのちの仏、智慧と慈悲のはたらきの仏さまということです。その阿弥陀仏に帰依する、信順する、まかせるというのが「南無阿弥陀仏」という意味ですけれども、「南無阿弥陀仏」として私たちにはたらいているということを、本学の建学の精神、浄土真宗の精神、親鸞聖人の精神としています。この本学に縁をもつ人たちは、お参りをして手を合わせ、南無阿弥陀仏の意味、内容をよく学び、聞き、私自身のありよう、姿を根源的に知らしめられ、同時に社会のありようも照らし出されて、さらに私たちの現代社会のあり方を開いていくという大きな課題に取り組んでいくというのが、本学の伝統となっています。

長きにわたってはそのことを別の言葉で表現しているのは、本学では「伝統と進取」という言葉が語り継がれています。「伝統」ということについては、今年の入学式の式辞で述べました。三木清の「伝統論」を手がかりに、「伝統」というのは、創造することであると申しあげました。本学は1639年の本願寺境内での学寮の開学以来、373年を迎えますが、それは、時代社会の諸条件のなかに留まって、時代社会への順応の中に沈み込んでいくのではなく、普遍的な真実である浄土真宗の精神に基づいて人間のありようを根源的に問い、時代社会と向き合い諸課題に進取の精神で学術の振興に取り組みながら、大学の歴史を積み上げてきました。

私たちの大学に縁あって学び、職場とされ、先に浄土に往き生まれられた方々も、そういう伝統を継承しながら時代社会に向き合い、諸課題を明確にして先進的に大学創造に懸命に取り組んでいただき、今日の龍谷大学を造っていただいたといえましょう。

私たちも限られた期間を本学で学び、そして職場として本学との縁を結んでおりますが、本学の構成員としてそれぞれの使命・役割を念頭に置きながら課題に率先して取り組んでいくことが本学の持続的な発展をもたらす源になると思います。

皆さんのお手元にある学生手帳に、今年は「菩提心」と言葉を書かせていただきました。こ言葉の意味は手帳にも書いていますが、それを説明する手がかりとして、親鸞聖人が76歳の時に著述された『浄土高僧和讃』の「天親讃」を引用しました。

願作仏がんさぶつしんはこれ 度衆生どしゅじょうのこころなり
度衆生の心はこれ 利他真実りたじんじつ信心しんじんなり
信心すなはち一心いっしんなり 一心すなはち金剛心こんごうしん
 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり

(『浄土真宗聖典』註釈版、581頁)

親鸞聖人は、「願作仏心」というところに「仏にならんと願ふこころなり」、「度衆生のこころ」というところに「衆生をわたすこころなり」と「左訓」を書きとめられています。仏のこころというのは一切の生きとし生ける人たちを度する、わたすこころであり、利他真実の信心であり、一心であり、金剛心であり、菩提心であり、他力であると。まさに阿弥陀仏のはたらき、絶対他力によってまことの心、仏のこころに目覚め、気づき、うなずき、私の根源的ありようが問われていくのです。

学生の皆さんにとっては、ただちにそのことがうなづきがたいかもしれませんが、しかし私と称している私がここにいるということをよくよく考え、いのちのはたらき、不思議さについても深く考えてみる。私たちが現代社会で陥りやすい思考のパターンといいますか傾向があります。例えば、近代の科学・技術というものの思考のパターンというのは、基本的には分析科学、分析的な思考を徹底しながら実験、実証、証明を重ね、技術をも生みだして、科学・技術の「進歩」をもたらし、さまざまな専門分野というものを切り開いてきたわけです。学問分野も同様だと思います。そのことで未知な世界を合理的に説明することも拡大してきました。科学・技術の進展による知識量は拡大の一途です。

ところが一方では、それだけに留まってはいけないことを本学の建学の精神から学ぶことが大切です。それは私たちの根源的普遍的なことに気づき、あるいは目覚めていく、というのが南阿弥陀仏というこころだからです。それを、親鸞聖人が「南無不可思議光如来」という九字の名号でも表しています。不可思議光というのは、人間の思議、考えを超えた光のはたらきというものです。徹底した分析的思考、それをあらわす言辞を駆使しながら、一転して、私たちの思議を超えたはたらきに目覚め、気づき、うなづくところに、信が定まる、新たな私の生きようが開かれるのです。数値化できないいのちが与えられている、恵まれたいのちが与えられている。このような南無阿弥陀仏のこころによって新たな人間関係、社会関係が開かれる「知の発信拠点」であるところに本学の存立意義であります。

私たちにはさまざまな悩み・苦悩というものがあります。友人・家族・職場・地域などさまざまな関係性のなかで、その悩み・苦悩にあって私と称するものの計画通り、予定したとおりに進まないことにも頻繁に直面します。しかしその際にも、私たちがその苦悩を乗り越えるべき道というものがすでに開かれている。私たちには、ただちに明らかになっていない、まさに闇そのものであったとしても、かならず苦悩を超えて生き抜く道というものが開かれている。そのことを知らされ、気づかしめるのは阿弥陀仏のはたらきです。本質に立ちかえれば、お互い生きとし生けるものが、いのち恵まれた者として、共に歩んでいける社会あるいは現実をつくりあげていける。このように考えたりします。

本学の建学精神から培われる人間のありようは、宗教一般の議論とは異なった面があります。当然、仏教でも仏教理解の仕方に違いがありますので、本質的な問いをかけないと、明らかにならないことが多くあるわけです。

建学の精神や親鸞聖人のご生涯を語られ、あるいは文章化されている「真実を求め、真実に生きん」とう表現があります。何が真実であるのか、そしてまた真実に生きるとはどういうことかという本質的な問いかけが大切であります。本質的な問いかけを持つことが現実の社会のありようの中に、言うならば偽りが明らかになります。また、虚偽は私の外側にだけにあるのではなく、私たちの内側にも偽りを抱えて歩んでいることが明らかになります。さまざまに交差し、相矛盾する煩悩というはたらきの中にわが身があることも、私の姿として知らしめられるのであります。

現代社会の人間像は、画一化され規格化されて、優秀さ、賢さ、高い知的と身体的能力などが求められ、ものごとの達成による評価が付随して、賢く振る舞うこと、取り繕うこと、さらに良く見られることなどが重視されているかのようです。それに対応して自らを形成していく傾向があります。しかしながら、現代社会への適応型人間像の追求は、それ自体私たちの生きることを虚しくしてみたり、生きづらくさせている要因ともなっています。

私たちは、この大学で学び、職場としてはたらき、そして現代社会で生きる者として、この顕真館が私たを「豊かな人間力」を培う場であってほしいと思います。顕真館が建てられた頃の学長は私がお世話になった指導教授の二葉憲香先生でした。二葉先生から私たちが学部から大学院にかけて学んだのは、仏教とは何か、浄土真宗とは何か、という本質的な問いかけを持って学ぶことの大切さであります。同時に本質的な問いかけを持って人生を歩んでいくことも教えられました。日常的な煩瑣な中に埋没することなく、うつろいの現象を追いかけることなく、現実と向き合い、決断し、身体性をもって実践することの大切さを学びました。

私たちが通常理解している宗教、あるいは仏教といわれる内容も、何が本質的な仏教の内容なのか、あるいは、親鸞聖人の教えなのか、そういう問いをもつことが私たちのより学ぶ力が培えることになるのです。いわば、仏教、親鸞聖人の教えを、建学の精神を自明視しないことです。 本学の建学の精神で語られることを、はたらきとして皆さんと共に感じ取らせていただき、実り豊かな人生を共に歩ませていただきましょう。

4月の第4週目を迎えた朝の法話とさせていただきます。ようこそお参りくださいました。

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