学長法話

5月の法話 2012年5月23日(水)/大宮学舎・本館講堂


おはようございます。ようこそお参りいただきました。

今週の月曜日、21日、第91回創立記念・親鸞聖人降誕会法要が終わりまして、通常の学年暦の授業が始まっております。 気候的にも過ごしやすい時季を迎えており、いろいろな場所で学生の課外活動などの成果などを聞かせていただています。課外では、皆さん方もお聞きの通り、野球部が関西6大学野球で優勝し、女子バレー部が関西リーグで5連覇しました。またバトミントン部は男女アベックで関西リーグで優勝しました。そういった成果の報告をいただいて、サークルの皆さんは普段からの厳しいさまざまな練習をしたり、その練習も個人個人の練習にとどまらずにチームとして相互の連携をした形での練習を積み重ねていたものが一試合一試合、勝負事での中での取組ですので勝ち負けはありながらも、集中して勝利に至っていくということが非常にすばらしいこととして、私どもも大変うれしく思っているところです。

また、教育では目に見えてということではないですけれども、つい先週、この大宮でゼミを担当している関係でキャンパスを歩いておりましたら、受付の方から保護者から届いた電話での話をお聞きしました。2回生の哲学科の男子学生である息子が、龍谷大学に入って非常に喜んで大学の授業を受けている、教育内容についても非常に感心をもって随分積極的に楽しみながら、あるいは探求心を持ちながら大学に通っていると、その慶びを電話で伝えていただいたということです。これはきわめて数少ない報告の一つかも知れませんが、そういうものの積み重ねというものが、私どもの大学にとっても非常に大切なことだと思っております。

今日の法話ですが、最近読んだ本をご紹介いたします。芹沢俊介さんという評論家の方が、『家族という意志――よるべなき時代を生きる』」という岩波の新書版を4月に出されました。芹沢さんは、その中で、今、家族というもののつながりというものを改めて見直さないといけない、ということは同時に今の時代はよるべなき時代だという認識を示して多くの方々の中において、儚さとかよるべなきところがあるんだということを指摘されております。その儚さ、よるべなきところという箇所を少しだけ紹介しておきますと、人間の家族の見方というのは、やはり子どもの家族観と大人の家族観との間に大きな違いがあり、子どもの家族観について次のように述べています。

子どもはその誕生後に一定期間、ほかならぬ自分という存在を、心と体を差し出し、まるごと受けとめてくれる特定の特別な誰かを必須としている。そのような受けとめ手なくして、自分といういのちの安定的な存続はおぼつかないことを、ほかならぬそのいのちのレベルにおいて知っている。したがって子どもは、自分を受けとめてくれる存在を求める。自分が受けとめられているのだという感覚、それを「受けとめられ体験」と呼べば、そのような受けとられ体験を提供してくれる受けとめ手を、まっさきに自分の「愛着の対象」とする。そうした最初の愛着の対象が子どもにとって「原初の家族」といってもいいかもしれない。

芹沢さんは、子どもは自分だけを受けとめてくれる特定の「誰か」をいのちの存続の必須の条件としており、「誰かが一緒にいること」が最重要なのであると。これに対して、大人の家族観は、「血縁と実体としての我が家が基礎となっている。大人にとって家族とは血縁の関係であり、血縁において他と区別される関係である。その血縁関係でつくる家庭は、他の家庭と実質を異にする我が家という実空間において成立する世界のことである。」と述べています。

これは子どもの家族観で芹沢さんが指摘した箇所ですけれども、今この大宮本館講堂には赤ちゃんはいないのですが、一定の年を重ねておる私たちはこの世に誕生して、その時のことをただちに思い起こすことは不可能ですけれども、誕生にあたって必ず誰かが受けとめ手としてその存在を全面的に受けとめてくれた人がいる。そこに安心感、あるいは安定感を持って私たちもこの世の中でいのちを育まれてきたんだということを改めて思い直しをしています。

この芹沢さんの新書を読んだ時期が私事で申し訳ないですが、私の長女に今年の2月25日に女の子が誕生しましたので、産後の休養をかねて自宅に帰ってきておりました。赤ちゃん、悦子(えつこ)という名ですが、母親に抱かれている様子を間近に見ていました。まさにまるごと心と体を差し出し、全面的に受けとめられて安心している様子をかいま見ることがありました。私も何度かは抱いて、あやかしたりしましたけれども、一ヶ月ぐらいはどうということはなかったのですが、その後5月の連休に帰ってきて2ヶ月半ぐらいでしょうか、生まれて70日ぐらいたって、いろいろと周りの様子を少しずつ感じ取るような様子を見せだしました。そのとき、普段日常的に接していない者が一時だけ手を差し出すと、一時だけは怪訝な表情をして私の顔を見るのですが、しばらくすると泣きベソをかいていました。母親とは違い、私を確かな受けとめ手ではないのじゃないかという不安な印象を持ったのだと思います。娘の方に委ねると、すぐに安心してまた心穏やかに抱かれるというようなことでした。そういう一時の場の体験ですけれども、先ほど芹沢さんがおっしゃっているように、子供の家族観というものは、誰かが必ず心も体も投げ出したものを受けとめ手としてある存在が安心感というものを育てていく大きな条件だという指摘であります。

芹沢さんは大人はどこか血縁関係とか同じ場所に同じように住み続けるといったものを大人の家族観としながら、一方ではそういうものを持ちながらもこの世というものには儚さがあるということを指摘されて、特に破壊的な儚さというものもあるのではないかと言われます。特に昨年3月11日の大震災を通して、たとえば文章の中においても、私達がその現実の中から、いくつかのことを拾い出して、思い起こしてみた方が良いのではないか、たとえば、死者がもたらした現実という中で、親を失った子供たち、あるいは子を失った親たち、あるいは兄弟を失った兄弟、配偶者をうしなった配偶者、こういった人達がかかえるよるべなさ、よるべなき現実ということ、そこには当然、両親を突然失った子供の状況というものを思い浮かべてみるとか、そういうふうなことを考えてみるということが非常に大事なことであります。直ちに私たちは当事者にはなれないのですが、しかしその現実の一端一端を拾い出してみるという営みが、私たちの創造力を持ってみるというのが、私たちが今それぞれの場所であるようにある家族とか親子という関係をあらためて見つめ直す大きな機縁になるという指摘をされております。

私たちの現実というものは極めて平穏でありそうで、一方では過酷な現実も同時に忍び寄っていることでもありますし、現にその現実の中にある人たちもいます。そうした時に私たちは、この龍谷大学という場所で学んでみたり、あるいは仕事をする際においても、このキャンパス内がすべて安穏なる現実とは言い切れないものがあります。さまざまな現実の錯綜する中に大学がありますので、一人ひとりが大学の中で学ぶことについても、あるいは働くことについても、いろいろな悩みがあったり苦難があるわけです。その時に私たちの大学の中では長年一人ひとりに真っ先に手を差しのべてはたらいてくださるもの、このことが阿弥陀さまという仏さまであるんだということです。この大学が1639年に発足して以来、時間を重ねて継承してきた営みだと思います。そうすると阿弥陀さまは私たち一人ひとりに対して確かな光といのち、智慧と慈悲のはたらきとして私たちにいたりとどいてくださることを感じ取って、私たちが抱えるさまざまな悩み苦悩を越えていける道がすでに開かれていくものです。私たちの先人がそういう歩みを示していただいた道を引き継がさせていただいて、私たちも同じようにそういった道を歩まさせていただければ良いのではないかと思います。私たちがこのようにして勤行をし、そして時に法話を聞いてみたり、大学のさまざまな講演会に自ら時間を割いて、足を運んでいくことが教えを聞く、それは同時に阿弥陀仏という仏さまのはたらきを私たち自身が感じ入り、それは別の表現では「信心を獲得する」という信を得ることであろうかと思います。親鸞聖人のさまざま教えは、お聖教として扱われていますが、私たち自身はお聖教としてそれを学び取っていくという努力も重ねていかなければならないと思います。

現代社会は、よく指摘されていますように「分かりやすい」ことが求められています。あるいは「単純明快」なことが求められています。分かりやすく、明快にということがひとつのキーワードになっているとは思いますけれども、しかし、それは私たちの思索、思考することを希薄化させてはいないでしょうか。立ち止まって考えれば、人間が営む世界ほど複雑なものは無いんだということであろうと思います。人間が絡み合う世界ほど、また生きにくい、また生きることがさまざまな利害が交差する社会であろうかとも思います。そういう中を生きるからこそ、私たちはそれを繙いてみてその苦難を解き放っていく道をすでにはたらいてくださっている阿弥陀仏のはたらきに気づいて受けとめていけば、たとえ今、闇の中での自分のただちに解決しうる道が見いだせなくても、じっくりと立ち止まって考え抜いたり、あるいは阿弥陀さまという仏さまのはたらきを感じ取って自分が描いていく方向がただちに自分だけの世界だけで考えておるのではないかと考え直してみたり、あるいは、もう少し他の方々の意見を聞いてみたり、先に力強く歩んでおられる方々の歩んだ道を学んでみたりするとき、私たちも開かれていく道があるのではないか。このようにして繰り返し学び続けていくというのが私たちの大学、あるいは大学を構成してきた人たちの伝統ある歩みではないかと思います。

今日みなさまとともにお参りさせていただいて改めて本学の建学の精神であります南無阿弥陀仏のお心を受けとめさせていただいて、学生のみなさんは学生のみなさんとして、今、取り組むべき課題については真っ正面から真摯に向かい合って全力投球をしていく、そして職場の方においては一人ひとりの役割を一人ひとりの能力を豊かに発揮していけるような歩みを、お互い信頼の関係を開きながら取り組んでいただければと存じます。

阿弥陀さまのおこころに一つ心でまかせていくというのが要ですので 人間社会での疑うことを優先する困難さがあろうとも、互いが深いところで信頼を寄せ合うということ、互いの関係を安心して関係を開くことが大切なことだと気づかされることであります。

本日は、ようこそのお参りでございました。

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