学長法話

4月の法話 2013年4月24日(水)/深草学舎・顕真館


おはようございます。新学期が始まりまして3週目となっております。新入生と思われる学生諸君がキャンパスを歩いている姿を拝見し、まさに新学期が始まったなと感じております。

皆さん方もご承知のように本学は374年前の1639年に西本願寺の境内の中に設けられた「学寮」から起こっております。当時は江戸時代の初めですので、幕府自身も教科書的に言うならば武断政治から文治政治への政策転換を背景にして、幕府としての教学として儒学・朱子学を奨励していきます。仏教教団もそれぞれ宗派ごとに独自の教学を振興する機関を設置します。西本願寺は、浄土真宗の教えを学び、教えを伝道する僧侶の育成機関として学寮を発足しました。学寮は仏教の経典や経典の解釈、勤行・作法などを中心に学ぶのですが、仏教の学びというものは幕府の国内だけの領域にとどまる学識ではなくて、インドから中央アジアそして中国・朝鮮半島、日本と伝わっていくいわゆる三国に渡って伝わってきた仏教の歴史、そして経典の言語・漢語を解釈するという素養、知識、さらに作法・振る舞い・行儀などを育成していくことでありました。学寮で学んだ僧侶たちは、今でいう幅広い教養、あるいは国際的な教養、歴史・地理・知識というものを修得し、さらに幅広い文化を身について多くの人々への伝道に取り組んでいたと言って良いのだと思います。

本学は、江戸以降の政治経済の大きな体制・しくみの転換を幾度も重ねながら、なお時代を超えて現代に展開しているところにおいては、時代を超えた人間の普遍的なあり方を根本的に問い求め続けてきました。いわば真実を求め続けてきました。人間のあり方としては、私たちは通常は自己を中心としたありよう、近代的な言い方をするならば、私のエゴイズムというものから離れがたいものですから、自己中心性とかエゴイズムというものを凝視して、「私と他者」というものの関係をどのように開いていくのか、人間がこの世に生まれてきた人間としてふさわしいあり方とは何かということの問いをもって、主体的に教育・研究を伝統化してきたことに誇りもっていいのだろうと思います。

この仏教の学びとか親鸞聖人の開かれた浄土真宗の学びは、私たちにとって知識レベルはともあれ難しいところがあります。なぜ難しいのかというと、基本的には私を根源的に問いかける、私の姿・ありようをそのままを顕らかにするというのは難しいものであります。一方で、たやすいのは、私のさまざまな願望・欲望をそのまま単純に肯定して、満たしていくようなありようの方がたやすいのかもしれません。

しかし、仏教とか親鸞聖人が開かれた浄土真宗の難しさというのは、私たち自身が私自身を問いかけるということがいかに難しいのかということであるのと同時に私の姿をそのまま明らかにしていくことも難しいことであります。その難しさを人間社会として開いていくことが人類的といいますか歴史を超えた課題であるというように考えていけば、私たちの大学の使命・役割が鮮明になります。本学としていわば豊かな人間性を育成して、社会の中に豊かな人間性を有する多くの人たちを輩出して、人間社会としてはどういう社会が望ましい社会なのかということを求め、実践し、形成していくということが私たち龍谷大学の存立の意義だと思います。

先週の15日、月曜日にミャンマー(旧ビルマ)からアウンサンスーチー氏が本学に来られました。講演していただいたのはわずかな時間でしたが、講演では、社会変革のプロセツにおける仏教の役割、あるいは仏教の価値というものを明確に語られました。(詳しくは4月16日の毎日新聞に掲載されています)冒頭に「私は良い仏教徒でありたいと思っているが、仏教の専門家ではない。今日は仏教の教えに沿って生活をしている一仏教徒としてお話をしたい」と語られました。仏教の専門家ではないけれども一仏教徒として、仏教の教えに沿って生活をしているというこのことが、私たちにも大切なことだと思います。同時に仏教の教えというものが決して現代的なミャンマーにおける民主化というものと決して相反するものではなくて、私たち一人一人に価値をおいているもの、それは人権という価値でもありますし、そういうところにも仏教が果たす大きな社会変革上の役割というものがあるんだということを主としておっしゃっておられたと思います。私たちも仏教というものを知識レベルで、自分たちとは遠いものだというふうに考えてしまのではなく、お釈迦様の教えがたとえ2500年前に生まれたとしても、現代社会を生きる私たちにとって私自身のあり方を開いていく上にはよりどころとなるものであることを受け止め直しをしてみるということが大切ではなかろうかと思います。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人に、御本典(正式な書名は「顕浄土真実教行証文類」通称:「教行信証」)という体系立てて著されたものがあります。その行文類にある通称「正信偈」という一節の中にこういう文章があります。「弥陀仏の本願念仏は邪見驕慢の悪衆生、信楽受持することは甚だもって難し 難の中の難これに過ぎたるはなし」。これは阿弥陀仏の本願念仏というのは邪見驕慢、つまり私が偉い賢い立派だとうぬぼれている者にとっては阿弥陀仏の念仏を受け入れていくということはなかなか難しい、これに過ぎたる難しさはないのだと、このように語られています。それは仏教の教えにしても私が立派な者だ偉い者だと、これ以上素晴らしい私はないのだという姿勢では学ぶことも出来ないし、本学でも合掌し礼拝するという行為も困難なことだと思います。ことに知識の集積地ともいえる大学に身をおいて、自己を単純に肯定するならば自らを偉い賢いと思い込みがちであります。しかし、阿弥陀仏から私たちのありようを根本的に知らされ、私のありように気づかされるならば自ずから頭が下がり、多くの人たちのとの関係が開かれ、他者の受け入れ、他者との対話が開かれる、そうした態度が育成されていくというのが、本学の建学の精神に醸成される人間のあり方であろうと思います。

学生の皆さんも学年差、先輩後輩のつながりがあったとしても同じ競技のなかで、あるいは同じ学友のなかで共々違いを持ちながらも、尊いいのちをいただいた者として対話を開く、自分の心を開いて相互の関係を開いていく。自らの自惚れ、驕慢がくだかれ、他人からの厳しい意見であったとしても、いったんは受けとめ、聞き入れていくという態度が大切であります。

現代社会では厳しい、困難なことがあります。何が困難なことかと言えば、私がここにいるのだと実体化し、自分のエゴイズムを問うことなく、自己を中心とした思いをそのまま計画通りに遂行していくことの方がすばらいしものだと、このような方向にのみ考えがちな私たちがこの現代社会を生きています。それを当然視、自明視しています。しかし、本学での建学の精神の学びから、阿弥陀仏の働きが私のところにはたらいているのだと、すでにはたらいているのだということに気づき、あるいは思い立ってみるということです。あるいは私のいのちだと私という思いで命を囲い込んでみるのではなくて、ことばとしては”いただいたいのち”、”恵まれたいのち”がすでにこの身にはたらいていただいているものだと、こういう受け身的表現で考えてみて、そう思い立ってみることが大切であります。私たちが現実にいかようの困難なことがあろうともいかようの躓きがあろうとも、いのちを生かして人生を切り拓いていかなければいけない。一見暗闇に見えようとも、そのような思い込みに覆われたとしても、阿弥陀仏の光というものを仰ぎながら光の指し示す方向に向かって最大限の努力というものを傾注していくところに私たちの人生も拓かれていくものだということを誇りを持って歩んでいけるというところが私たちが本学で育てられる道ではないだろうかと思います。

先日、書店で手にした『教養の力 東大駒場で学ぶこと』斎藤 兆史 著(集英社新書)という新書本で、斉藤先生は大学の教養というのは非常に重要だということを三点指摘しています。一つは教養としての古典的なテキストというものをしっかりと学ぶことである。二つにはバランスのある人間感覚を身につけなければならない。三つには、教養というのは人格というものが重要なことである。斉藤先生の指摘になかで、私は三つ目に指摘されている人格というものを育成するに際して、何によって人格が形成されていくのかという根幹がやはり大切ではないかと思います。本学でいうならば人格は浄土真宗の精神あるいは浄土真宗のみ教えを通してこそ人格というものが形成されていくものだと思います。人格を形成する場として本学の教育があると考えて良いと思います。

今朝は、多くの皆さんが学長法話ということでお参りいただきましたけれども、通常の講義時間よりも少し早めに起きてみてこの顕真館にお参りをしようと思い立っていくところから、人格を形成する場としての顕真館が大きな役割をはたすのだろうと思います。

皆さんとともに「讃仏偈」というお勤めをさせていただきながら、私たちは普段なかなかお経を読むことが少ないかもしれませんが、そういう読むことを重ねることをとおしてお釈迦様の教えが何であり、この私がどういうありようを開いていくことが望まれているのかも自覚して、根本的には私というものの人間の骨格としてある人格というものが教えをとおしてこそ育成されていくのだと、このように考えてみたらどうだろうかと思います。

人間社会は、人格を通して社会的信頼という環境が形成されるはずです。さまざまな能力や考え、意見、利害の違い・対立があったとしても人間社会において求められているのは信頼感が醸成される社会でなければいかなる組織も適切に機能するはずがありません。不信な社会、不信な組織においては生きにくい社会、組織であることは言うまでもないことです。お互いに人格というものを形成することで、信頼関係が龍谷大学の中で幅広く生まれてくると、龍谷大学というのは学びやすい、働きやすい職場となっていくのだと思います。

建学の精神の学び方は多々あろうかと思いますが、顕真館にたびたび足を運んで自ら進んでお参りをさせていただくことが大切だと思います。私は長くこの職場に身を置かせていただいていますが、建学の精神、浄土真宗の教えに心を寄せた多くの人たちとの出会がありました。私たちは、人間の根本的な生き方、ありようをめぐって新たな出会いをさせていただくのが龍谷大学という場であろうかと思います。

今年度最初の学長法話ですが、機会あるごとに顕真館にお参りいただくことをお願いを申しあげて、今日の学長法話とさせていただきます。

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