学長法話

5月の法話 2013年5月14日(火)/瀬田学舎


皆さん、おはようございます。朝早くからようこそお参りくださいました。

大学では先週の11日、土曜日には降誕会実行委員会による開会式が顕真館でありました。この日はいろいろな行事が重なって、保護者懇談会も深草学舎で開かれました。これから全国29カ所で保護者懇談会が開かれますが、皮切りとなります。3号館301という深草学舎で一番大きい教室にほぼ満席の保護者の皆さまがご参加くださいました。キャリセンター長の三谷先生による就職状況のお話や講演、そして先生方との相談会などのプログラムが用意されていました。その日、2時頃から体育館で女子バレー部の公式試合があり、副部長の長野総務局長が案内して下さいましたので、初めてコートの間近で試合を観戦しました。龍大の女子バレー部は関西リーグ6連覇をしている強いチームですけれども、その日は千里金蘭大学との試合が最終セットまでもつれ込むシーソーゲームとなり、はらはらどきどきの試合を間近で体験させていただきました。選手のみなさんの普段の練習の充実というか、強くボールを打ち込んだり、ぎりぎりのところで指先を伸ばしきって、あるいは飛び込んでレシーブするところを観させていただいて感激しました。そういうことを可能とする普段からの練習にすばらしさを感じたり、連覇するということは四年間でメンバー交代があるなかで、チーム力をキープすることは並大抵の努力ではないだろうとも思い、ご指導いただいている川島監督のご苦労に有り難く思ったことでありました。

大学ではご案内のとおり創立記念・降誕会が行われます。1922年に、旧の大学令によりかつての仏教大学から龍谷大学へと校名が変わりました。当時の文部省の大学行政は明治以降の政策にずいぶん影響されています。文部省はいわゆる宗教ということの名が特定されるような大学名をつけることに旧の大学令では厳しく制限していたわけです。ですから本学は仏教大学という名が旧の大学令では認められずに龍谷大学となりました。京都市内に大谷大学がありますが、かつては真宗大学と名乗っておりましたが大谷大学となりました。東京でも大正大学ができたりしました。文部省は明治以降、宗教というものと宗教ではないという説に基づき、皆さんがご存じのとおり神社神道というものは宗教にあらずという説に基づいて実質的には神道を国教化していたわけですけれども、宗教教育についても特に厳しい統制が行われていたこともあり、大学の校名にも変遷の歴史があります。私たちの大学も今年で374年目を迎えていくわけですけれども、その間平坦な道を歩んできたわけではありません。政府・文部行政との間に一定の緊張関係があったりしています。政策を受け入れたりする変遷の歴史でもありますので、変遷しながらもやはり一貫して求めていく精神といわれるものが親鸞聖人の精神、あるいは浄土真宗の精神であります。それはいかように時代の諸条件が変遷しても、人間のありよう、人間そのものを問いかけてみた場合には、近代的な言い方をすればエゴイズムというものを持っております。仏教的な言語を使うならば、煩悩具足の凡夫であるという私たちのありようがあります。そのことを明確に知らされる、目覚めさせていただく阿弥陀仏のはたらきを信知して、人間のありようを開いていく、実践的な生き方をひらくところに、建学の精神の意義があります。自らを開き他者との関係を形成して、人間世界としてより望ましい社会をつくっていく、そういうことが一貫した課題であると言って良いのだろうと思います。ですから私たちの大学においてもそれぞれの職の違いがありながらも、お互い同士が生かされていくような職場社会でありたいものだと思います。阿弥陀仏の願いに応えて相互に、多様性を認知し、尊びあえる職場でなければ働きにくい、息苦しい場となってしまいます。職場を拡大していうならば生きにくい社会となってしまいます。

現代社会はいろんな論じ方がされます。最近読みました本で、朝日新聞でも紹介されていましたが東京大学特任研究員でソフト開発会社のサルガッソーという会社を立ち上げられた鈴木健さんという方が、今年の1月に『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)という本を出しておられます。理系の方で私の専門とは関わりはありませんが、書店で手にしてみて興味深い論点があると思いました。

どういうことかと言いますと、今の社会、世界を見ていく場合に、物事を単純化して見る傾向になっていると指摘しています。それが私たち自身のありようの理解をより困難なことにしていると。つまり複雑性というものをキーワードにしながら、複雑なものを複雑なまま受け止めて、その多様性を認めていくような社会を作り上げていくことが望ましい生きやすい社会ではないかというふうに提起しています。単純化するというのは、世界を単純なものと認識する場合は、人間の持つ認知(物事を知る)的なものの限界に基づくものだということです。

鈴木さんの本を読んでみれば、納得できる論理といいますかそういうことを書かれています。一番わかりやすい出発点は物事の境界を線引きして、世界を二つに分割するということで壁を立てていくということです。それを生物学的に鈴木さんがいうには、たとえば人間の生命の細胞からなりたっている場合も細胞膜と他の細胞膜との内側と外側を分けていく、【膜】という言葉を使って境界を引くという表現をしています。これは生き物の世界、人間も動物ですので生き物の世界ではどうしてもそういう境界を引くものが生物学的にもあると言っています。仏教的に言うと煩悩のはたらきとしてそういうものがあるという、一般的な言葉で言うと自己中心性というものがだれもが人間の中に持っておるということです。しかし、持っているということをどのように意識をして目覚めて同時に自分と他者との関係をできるだけ多様性として認めていけるものとするか。鈴木さんは科学者ですけれども仏教的に考えればそういうふうに必ずしも明確に区分ということを超えたはたらきをそこで感じ取らないと智慧が生まれてこないのです。

学術的な世界というものは分類世界が主流になりますので、より精緻に分析してそれを言語で、あるいは数値で説明し、そのことに伴った新たな技術を生み出したりするというのがそういう世界かもわかりません。けれども、私たちは幸いにして龍谷大学という大学に学んだり研究したり、そして職場としてある者にとっては、分析するような世界、分けることを追求することの大切さや意義を認めながらも、それだけではなく、分析知、分類的思惟を超えた世界のはたらきに私たち自身が気づかしめられ、私の愚者性をも認知して、私と他者との多様な関係をそのまま尊重していけるものがなければ、龍谷大学としての長きにわたって存立してきた価値というものが希薄になってしまうのではないかと思います。

先月、4月15日にミャンマーのアウンサンスーチーさんが来られた時の講演の一節の中でも”社会の変革における仏教”という言葉でダイナミックに語られていますけれども、それは出発点としては人との間に慈しみというもののはたらきを自分のスタイルとして、生き方としてそれを追求していくことこそが社会の変革の土壌になるものだということです。大義名分で飾った言葉で正当化するとそこにはウソ、虚偽が必ず含まれてしまって、必ずしも社会としては望ましいことにはならないのです。慈しみという仏教のはたらきから得られるものを自分の身体を通して他者と交流していくという中に豊かな人間世界が具体的に生まれてくるということを深く学んだことであります。

来週21日は創立記念日・降誕会でありますので、私たちは本学創立の歴史を振り返るとともに建学の精神、親鸞聖人の生涯の一端をできるだけ学び取ろうと志す日にさせていただきたいと思います。一般には創立記念降誕会という休日が単に私たち自身のある種のエゴを満たすための休日ではないはずです。多くの学生を中心とした大学行事もありますし、大学自身が主催する行事もありますので時間を割いていただいてご参加いただきたいと願っております。

今日は、ようこそお参りいただきました。

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