学長法話

11月の法話 2013年11月26日(火)/瀬田学舎


11月末になり瀬田キャンパスも木々が色づき、すでに枯れ葉がみられ、いよいよ初冬のような様相も感じます。深草キャンパスはこれほどの木々はありませんが、大宮キャンパスでは大きな銀杏の木の葉が散ってキャンパスの一部が黄色の絨毯となっています。

私は学長職になってから足が遠のいているのですが、10年程アメリカンフットボール部の部長をしておりましたので時間があれば応援に出かけようと思っています。今年はたまたま時間がとれて、先週の土曜日に吹田のEXPO FLASH FIELDで最終戦を観戦しました。大阪教育大学との試合でした。部の歴史は今年で38年ぐらいになると思うのですが、やっと関西学生アメリカンフットボールリーグDiv.1という一部リーグに上がり、ここ何年かは12月の入れ替え戦を繰り返しているような状況でしたが、今年はやっと入れ替え戦には行かずに済みました。2勝ぐらいにとどまっていたのがやっと3勝できるチームに仕上がって、これも長い積み重ねがあってここまでたどり着いたなと実感しました。アメリカンフットボール部には高校での経験者もいますが、高校では野球やラグビーをしていて大学から始めるという学生もいます。ですから体の鍛え方も基礎的な部分が随分違いますので、かなり時間を要するスポーツだと思います。作戦についても相手も研究していますので、それぞれが研究を徹底していかなければチームプレイもできないし、それぞれの役割分担も明確な形であります。そういう点では、ただ練習を繰り返しているだけでなく、練習の中で選手一人一人のひらめきのようなものがあって体が動けるようになるということも日々の練習の蓄積だと思います。龍谷大学は立命館や関西学院、関大というような私立大学から比較すると、身体的な大きさも格段の違いもありますし、また練習環境も関西の主要な大学は種目毎の専用の練習場を持っているのが大部分です。龍谷大学は大日グランドをアメリカンフットボールとラグビー、サッカーの3種目が使っているという練習環境は学生には気の毒なことになっています。

サークルの環境だけにとどまらず、やはり学生の学びの環境についても整備する必要があります。学ぶ意欲を駆り立てていくような環境を整備するのか、あるいは学びたい学生がどれだけ多くの時間をキャンパス内で落ち着いて勉強できるのか、あるいは仲間と一緒の学びがどのような形の場でできるのかということについても、もっときめ細やかなことを考えて整備しなければ、学生の大学への帰属感とか満足感というものも向上しないと特に意識しています。

相田みつをさんという詩人がいます。禅についても仏教についても深く学ばれた方で、きわめてシンプルな詩をたくさん作っておられます。その中に“そのうち”というタイトルの詩があります。

「そのうち」   相田みつを

そのうち お金がたまったら
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子供が手を放れたら
そのうち 仕事が落ちついたら
そのうち 時間のゆとりができたら
そのうち・・・・・
そのうち・・・・・
そのうち・・・・・と、
できない理由を
くりかしているうちに
結局は何もやらなかった
空しい人生の幕がおりて
頭の上に 淋しい墓標が立つ
そのうちそのうち
日が暮れる
いまきたこの道
かえれない

大学自身も「そのうち そのうち」といいながらどれだけ多くのことを先送りしているのでしょう。あるいは個人レベルにおいても、私たち自身が「そのうち そのうち」と先送りしながら、そしてまたそのこと自身に向き合って積極的に取り組むということさえもしないまま、ある種の何もやれなかったということばかりを想いながら人生が暮れていくというようなことがはたしてこの身にあるのかどうか、どのような形であるのかそのあたりのことを、やはり私たちもしっかりと見つめ直してみる必要があるのではないでしょうか。私自身も考えてみればそういうことがたくさんあります。この場で言いにくい先送りにしていることが随分ありますので、相田さんの詩を読みながらそのようなことを深く感じた次第です。

同時に仏教関係の事柄について言えば、仏教そのものに関連するようなTVドラマは非常に少ないのですが、ドラマの設定の仕方の中には、一見仏教に接点を持つようなドラマ設定というものがあると思います。毎日見ているわけではありませんが、NHKの朝の連続ドラマに“ごちそうさん”というものがあります。主人公は、め以子さんという女性で西門家に嫁いできた方です。西門家というのは立派な家屋で長い歴史を歩んできたように思われる設定です。ドラマを見ていると奥の座敷に仏壇が置いてあります。め以子さんと仲がうまくいかない和枝さん(キムラ緑子さんという女優)の演技は表現力が豊かで、すばらしいものがあります。仏壇を見ていますと、あれは浄土真宗と思われる仏壇が置いてあるのです。私は浄土真宗のお仏壇が置いてあるドラマの中で演じる設定の仕方がどうなのかと見ていた時に、いくつか違和感を感じたことがあります。何が違和感なのかというと、それは3週間程前のことですが、和枝さんがめ以子さんに対して怒りを表現して家の中に入ろうとしたときに、家の中の妹さんたちに「塩でもまいときなさい」という言い方をしているのです。真宗の家庭環境の設定をしているドラマの中で、何か気にくわない時の振る舞いとして”塩をまく”というようなことは基本的にあり得ない振る舞いなのです。ところがドラマの脚本家の方はそういうことを何気なくしているのかもしれませんが、浄土真宗のお仏壇を置いているお家の設定にもかかわらず、そういう振る舞いの仕方をしているのです。あるいは和枝さんが仏壇の前で手を合わせる場面で、念珠を持たずに合掌しています。これもドラマの脚本家としては抜けているなと感じました。あとは“ごちそうさん”というドラマのタイトルとしては食事をする場面で手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」といわないのです。これも真宗の長年の培った歴史、振る舞いの生活スタイルからいうと違和感を感じるのです。あと一つ、決定的にというか和枝さんという方の人物設定のたくみな意地悪性です。あのような人格表現というか人物表現というものは私たちが浄土真宗の中で培ってきた方の人格性からいうとかなり異質な設定であると思います。そういうことを考えながら私が邪推をしていくと、あのドラマ設定をした人は、広く言うと仏壇、仏教から醸成される人格というのはああいう人格なのかということから、仏教に対するマイナス的イメージを現代社会に発信することになる。なぜ仏壇があるのにああいう人格が脇役にしても醸成されていくのかということについて、マイナスのイメージを植え付けていくはたらきをしているのではないかと感じました。何らかの意図があって、極端に言うと仏教への排除的意識があってそういうことを設定しているのではないかと、これは過激な推測ですが。しかし宗教的なものの見方で見ればあるポイントでやはり脚本家の持っている文化性や教養性、宗教理解とかがドラマ設定に現れているのです。

私たちが龍谷大学でさまざまな形で宗教行事に参加していく場合も、何を身につけていくのかということの中にそういう気づき、ドラマは作られたものとしてあるのですが、設定されたものの中に必ずしも仏教あるいはそういうものとはそぐわないような設定の仕方というものも脚本家あるいはプロデューサーの中で行われているというものを見抜いていくものを私たちは持たないといけないと思います。与えられている現実という面があるのですが、その中で何が真実なのかということを私たち自身が求めていけば、そこに何らかの間違いというものも発見できることもあろうかと思います。

今朝、新聞を見ますと特定秘密保護法案が衆議院で採決するという記事がありましたけれども、これも法律の中で何が秘密なのか、特定の仕方も範囲も明確でなく、公開も60年という、多くの問題を含む法案が成立化していくという事態が進行しつつあります。私たちも政治面を見ればきわめて心配な政治の動きというものが、さまざまな形で動きとしてあることについても注視していかなければならないと思います。

朝早くからお参りいただきありがとうございました。

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