学長法話

12月の法話 2013年12月6日(火)/大宮学舎本館講堂


おはようございます。大宮学舎の銀杏の葉はすっかり落ちてしまいましたが、正門の入り口には色鮮やかな紅葉が見られます。初冬の雰囲気があります。

昨日は評議会があり、継続審議となっておりました国際学部の設置を巡る議案が評議会での長い審議の中で承認をいただきました。この間、国際文化学部のポーリン・ケント学部長をはじめとした関係の先生方や、事務のスタッフの方々、その他関係の方々にご尽力いただいたおかげで、承認を得ましたので来週の理事会に向けて議案の提案ができることになり、一つの前進ができたと感じた次第です。

ところで、私は奈良県の宇陀市大宇陀という山間地に住んでいます。この初冬の時期は京都も寒いと言われますが、私の所は京都よりもはるかに寒さが厳しくて、夜の冷え込みは京都よりも3度から5度低くなります。ですから晴天の夜明けは連日霜が降りています。地元の観光案内になってしまいますが、旧暦の11月17日(今年は12月19日)に「かぎろひを観る会」が毎年大宇陀で開催されています。「かぎろい」というのは厳冬のよく晴れた朝早く、東の山並みから上がってくる鮮やかな色彩の陽光のことです。皆さんもご存知かもしれませんが柿本人麻呂が、持統天皇6年(西暦692年)にこの地(阿騎野)に来られて、「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ」という歌を詠んでいます。東の方に目を向けると“かぎろい”が立ちあらわれてくるのを見、一方、西の方を振り返ってみれば月が沈みかけているという光景を詠んだものです。12月19日が晴天でなければ見えないのです。ですから「かぎろひを観る会」を開催しても、その日にはたぶん10年に1回ぐらいしか鮮やかな“かぎろい”を見ることはできません。連続してみられる年もまれにありますが、多くの開催日は雲があったりして見られません。朝5時頃の薄暗い時間から出かけるという、環境は厳しいですけれども“かぎろい”にみられる色彩の多様性というものを感じます。太陽の光が山並みから立ち上がるところを見れば陽光の多彩性を感じます。私たちは12月に入りますと、京都でもデパートあるいはさまざまなビルにツリーが電光鮮やかに飾られます。これはあくまで「電装美」といえます。“かぎろい”は自然美ですけれども、ツリーのイルミネーションは「電装美」です。電装美の代表といえば12月5日から12月16日まで行われる神戸ルミナリエというものもあります。これは1995年(平成7年)阪神・淡路大震災が起こったことをきっかけとして、多くの亡くなった方々を悼むということをきっかけに始まったものです。ルミナリエは制作者、プロデューサーが知恵を絞った人工的な電装美ということです。“かぎろい”の美と電装によって作られた美とは美の内容という点から比べると対極にある関係だと思います。“かぎろい”と「電装美」であるイルミネーションを「重ね描き」で考えると、そこから何に気づくかというと、電装美は大都市圏の作られた美、創作美であり、電力が電装美を支えるエネルギーになっているということです。さらにそのエネルギーは、核分裂を伴う原子力エネルギーによって支えられています。

私たちは2011年3月11日の東日本大震災をきっかけとして、科学技術を結集した東京電力福島原子力発電所の汚染水というところに焦点を合わせて考えますと、核エネルギーによる電力によって支えられる日本の社会、特に大都市圏の多くのものが電力に支えられているということです。いわば科学技術に依拠する「電装美」と対極にある自然美としての“かぎろい”を「重ね描き」をした時、大都市圏の「電装美」にはどういう課題があるのか、あるいは同時に私たちの美の感じ方の需要、楽しみというものがどういう価値観によって囲まれているかを自覚化する、あるいはそれについての意識を鮮明にすることができるのだと思います。そういった意味では私たちは自然美というものと人工的な電装美との間を生きているので、その「重ね描き」を通して私たちの日常のありようというものも考える、あるいは見直すきっかけというものがあるのではないかと思います。

7月に清泉女子大学教授の中見真理さんが『柳宗悦―「複合の美」の思想』という岩波新書を発行されました。柳宗悦という方はみなさんご存知のとおり、東京に日本民藝館という建物がありますが、そういう民芸運動を創始した有名な方です。濱田庄司とかバーナード・リーチとか、京都でいうなら河井寛次郎、大和郡山の富本憲吉とか、そういった陶芸家とも親交をあたためた方です。若いときからトルストイとかあるいはイギリスのラッセルという方から平和思想について学んでいます。1919年に『宗教とその真理』という文章を書いているのですが、その序のところに美について書いている一説があります。紹介しますと、「野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである」と記しています。

現代社会というのは、グローバル化という言い方もしますが、ひとつの初期設定の中で物事を画一的に一元的に規約同意をする価値観というのが世界的に進展しています。私たちの大学でもいわゆるインターネットでgoogleやyahooにしてもそれぞれの初期の設定をされた規約、法規についての契約をしながら使用・活用しています。誰が初期設定をしているのかということについての認識が極めて重要なことです。私たちもそういう世界の中に囲まれているということです。そうすると画一的な、均質的な世界の中に囲まれてしまうと、そのことによって失われていく面もあると思います。それぞれがそれぞれに輝いていくような野の花の「複合の美」というものについて着目していかなければ、世界の平和というものは実現していかないのではないかと、このようなことを語ったのが柳宗悦という方です。私たちの思考のパターンというのは一見物わかりやすい二局的な、あるいは二項対立的な思考パターンとか価値観とか、言説といったものによって影響を受けて自分の中にも内在化しているかもしれません。もう少し考えてみると、“重ね描き”ということばを使いましたけれども、これは哲学者の大森荘蔵という方が書かれている文章の一節に“重ね描き”というキーワードがあるのです。それは人間と科学を対極的に考えないで“重ね描き”をすることによってこそ明らかになる世界があると言っています。

龍谷大学は建学の精神を“浄土真宗の精神”“親鸞聖人の精神”と申し上げていますので、自他という関係と言ったとしてもそれを単に対立的な関係で自己と他者を考えずに、我ら(われら)という関係、阿弥陀仏のはたらきの中でお互いがいのち恵まれた存在であるといういのちの連帯性ということに気づくことが大切です。人間関係とか職場の関係などにおけるそのことの価値を現代社会において発信する社会的価値を私たちの大学は有しており、そうした伝統を継承して、一層社会の多くの人たちに本学が培った価値を伝えていくということに大きな意味があるということをこのようなお参りを通して感じさせていただければという思いであります。

先ほど『仏説阿弥陀経』を読誦させていただきました。このお経はお釈迦さまが弟子の舎利弗に向かって説かれた教典であります。「無問自答の経」ということでもあります。かの仏が何が故に阿弥陀仏と号するのかといった箇所で、舎利弗に、阿弥陀仏の光明は無量であり十方の国を照らす、その光は障げもない、だからこそ阿弥陀仏と名のるのだと説かれています。先ほどの自然美、電装美ということと合わせてさらに深く考えれば、阿弥陀仏の光というものを私たちが感じ取っていくならば、阿弥陀仏の光はすべての人たちを何の障げられることなく無量の光があらゆる国々に向かって照らしてくださっておる光だと感じ入って、一人一人がお念仏するところに阿弥陀仏のはたらきを受けとめるところもあるし、同時に私たちが何処に向かって歩んでいくのかという方向についても明確にすることができるということだと思ったりします。今日、ご一緒に『仏説阿弥陀経』というお経を読ませていただいて、改めて阿弥陀仏の光の中に照らされておる我らである、そして我らであると受けとめた私たちが、その光の受けとめたことを通して自らの有り様を見つめながら、謙虚に、柔軟に、また慚愧しながら、また愚かさを知らせていただきました。私たちの歩んでいく道が明らかになったと、このように思うことであります。

社会にはいろいろと懸案事項があり、その中に傲慢となっている政治があります。今朝新聞を見ますと、昨日、特定秘密保護法案が委員会審議で強行採決されたと報道されています。法案が法律として制定されていきますと、今直ちにということではないにしても法律というものは法に基づいた秩序が形成されていくわけですから、私たちにとって曖昧な特定秘密の範囲を考えると、深刻な問題を含んだ法律として考えていかなければならないと思います。

朝早くから大宮学舎本館講堂で皆さんとお参りできたことを喜んでおります。ようこそお参りくださいました。

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