学長法話

6月の法話 2015年6月26日(金)/瀬田樹心館


お早うございます。暑い中、足下の悪い中でありますが、少し早くにご出勤いただいて、皆さんとお参りをさせていただきました。

大学のほうも、6月の末の週に入って、前期の講義日程も残り少なくなっています。私は今週の月曜日に東京で私立大学退職金財団の理事会・評議員会に出席して、また翌日も同じく東京で私立大学連盟の総会があって、出張が月曜、火曜と続きました。学内では、水曜日に学長会という会議があり、昨日も部局長会議をはじめとした会議があり、また3時15分からは評議会が7時前くらいまで続く、という慌ただしい日々を過ごしておりました。


ただ、今週のいろいろな出来事を聞くと、ご承知だと思いますけれども、23日(火)には沖縄県糸満市の平和祈念公園で、沖縄県が主催する全戦没者追悼式が執り行なわれました。こんにち特に普天間基地(宜野湾市)から辺野古(名護市)への移転を巡る事柄が、ずいぶん大きな問題になっています。その日に沖縄県立の高等学校の生徒が読みあげた詩が新聞記事にも出ていました。

そこではまた知念捷(ちねんまさる)さんが詩を詠まれました。自分で作った詩のタイトルが、「みるく世がやゆら」という沖縄の言葉を表現しています。普通に言えば、「今は平和でしょうか」という詩です。この知念さんのお祖父さんのお姉さんの戦争体験に触れて、今の時代が果たして平和なんでしょうかと、問いかけをする詩を詠まれて、多くの方々の感動を喚び起こされたと報道されていました。


私たちは今、関西地域に住んでいます。一見、日常のなかでは穏やかで、平穏であるかのような現実が映っているようでありますけれども、よくよく現実のどこかに眼差しを注いでいくと、私たちの日本列島を取り巻く現実も、必ずしも平和ではない。厳しい争いの場であってみたり、平和の対局にあるような戦争という事柄につながるような現実が、日本列島にもみられます。これは、2011年3月の東日本大震災以後でもそうですし、東京電力の福島原子力発電所の事故に伴う放射能物質に汚染された水が、日々たくさん流れているような現実もあります。

そういう意味で、私たちは自分の生活エリアの中で、いろいろと経験し見聞きした範囲で物事を考えがちでありますけれども、もう少し広い視野で、視点を変えて見ることも大事だと思います。

とりわけ本学の建学の精神につきましては、皆さん方のお手元の学生手帳に記載して
その一節には、こういう文章があります。

「阿弥陀仏の願いに照らされ、自らの自己中心性が顕わにされることにおいて、初めて自己の思想・観点・価値観等を絶対視する硬直した視点から解放され、広く柔らかな視野を獲得することができるのです」。

すべてのものが阿弥陀仏の願い、あるいは光に照らされているんだということに気づくことによって、自分が自明視しているようなありようを見直した際に、そこには自分を中心とした見方、考え方がこびりついているのではないか。これを少し柔らかい視点から見直すことを通して、自分自身もそういう硬直した枠の中に留まらない、広い視野を得ることができる。

人間のあいだについても、どうしても〈私〉というフィルターでしか見ようとしないものを、全てのものが阿弥陀仏の光の中に照らし出されているんだと気づくことによって、お互いの関係がもう一度、見直されてくる。

見直しはやはり互いがかけがえのない、変わることのできない、相互の存在であるということを通して、いろいろな意見の違い、あるいは主張の違いがあったとしても、その存在自体を尊び合っていける。なかには対立があったり、争いがあったりしても、そのことが認め合っていける。あるいはどこかで許し合っていけるようなものも培っていくものだ、と。

なかなか〈私〉のなかでは、許すこともできないようなこともあろうかと思いますけれども、もう少し広い視点に立って考えてみよう、あるいは気づいてみようと育てられていくはたらきが、阿弥陀さまのはたらきではないか――。

本学は、1639年に始まってから377年目を迎えます。歴史としてはいろいろな激しい移り変わりがあって、そういう時代ごとの大きな考え方があったり、仕組みがある中でも、人としてその時代を生きて抜くことの原点があろうかと思います。したがって、人としてのありようの原点を見つめたことを中心にして歩んだからこそ、今の時代の中を私たちの大学は存続している。

いつの時代においても、社会の仕組みでは、言葉的にはある種のイデオロギーという言葉を使うならば、虚偽的な考え方というのは、どこかであるわけです。その際に、何が幸福なのか、何が真実なのか――そういう問いかけを持つことが、私たちが虚偽の世界に誘導されない、あるいはそういうことに惑わされない方向を見定めながら、そういう方向に気づきながら、歩むことができる。そういうことではないかと思います。

今の社会においても当然、私たちがもつさまざまな願望、欲望あるいは煩悩というもののなかに、動かされていくような仕組み、装置、そういったものも、社会が変わるごとに、立ち現われてくるでしょう。

最近、国会で上程しようとしている法案の中に、“カジノ法案”(統合型リゾート整備推進法案)があります。全国の数カ所にカジノを造りたいという法案です。仏教の考え方に基づいて、生きようとする、社会を考えようとする者にとっては、カジノというような社会的な享楽装置というか、そういうものは人間を著しく狂わせていく、惑わせていくような、あるいは欲望、金銭をひたすら追求していくような、そういう装置であり、また同時に、一方では、その果実を必ずしも全体として得ることができない。そういうものを造ろうとしています。これが、日本の国政を担う人たちが集まっている場所で議論される――。

しかし、人間をよくよく直視して考えれば、そういったものによって狂わされていくような社会の仕組み、システムが、改めて造られていくことを、必ずしも諸手を挙げて支持、賛美することはできない。それが仏教的な考え方に立つものの見方、主張ではないだろうかと思ったりもいたします。


私どもの龍谷大学は、今年4月から、この瀬田キャンパスで新たに農学部が誕生しました。私も5月には久しぶりに田んぼに入って、先生方や学生の皆さんと田植えをさせていただきました。私は山里で育ちましたので、小学生までは田んぼに入ったり、近所の農家に行って牛と遊んだりしましたけれども、それ以来田んぼに入ったことはなかったと思います。手で田植えをした記憶もありません。半世紀ぶりに田植え体験をさせていただいて懐かしく感じました。

田の感触、土の感触も非常に懐かしく思われ、またそこに生命感、いのち、瑞々しい感覚といった、私の日常の中で失われていることに、改めて気づかせていただくような体験をしました。そういった喜びも感動もありました。

また先日の朝、本学に勤める女性職員がJR稲荷駅から深草学舎まで歩いていた際に、雨が降りだしてきたそうです。その時、後ろから来る女子学生が、何気なく傘を差しかけて下さったと聞きました。こういったことは、なかなかできないことかもわかりません。「龍大の学生さんに、そのようにしてもらったんですよ」という話を聞いて、龍谷大学にこういう学生がいるということは非常に嬉しいことだと思いました。


今日、入口でお渡しした資料があります。これは日経キャリアマガジンの『就職力ランキング』という雑誌の特集です。企業の人事関係の人たちが、全国の大学から10校ぐらいをそれぞれが選んで、大学イメージを項目ごとに点数化しています。それを集計して平均値を出したようなものらしいです。

龍谷大学の総合的なランキングは37位でした。「行動力」の項目は3位で、その他「対人力」とか、いろいろな評価点が出ています。「行動力」の中でも、「熱意がある」というのが点数で見ると8.22くらいあって、びっくりしました。

私たちから見ると、龍大生はおとなしくて、つつましくて、人より前に押し出るようなイメージはあまり感じないという印象だったのですけれども、最近2年間の統計数字の集計ですので、2013年から2015年にかけての企業関係の人たちが、龍谷大学の学生たちと接して、そういう積極的評価が出ています。ここしばらくは、先ほど申しあげました新学部の設置をめぐって、精力的にいろいろ取り組んだこと、あるいは就職をめぐっても、インターンシップ等々、教職員とも協力して、ずいぶん熱心に取り組んできました。

そのように大学全体として、いろいろな意味で活発な取り組みが進んでいるということで、企業の人事担当者からそういう目線で見られている(それを評価して下さっている)――そのように思います。

こういう数値評価を見て、私は、「意外だな、本当かな?」という印象もありました。しかしデータを見ると、確かに企業の人事関係の人たちが10校ずつ選んで、それをトータルして3分野に分けて、平均値を出した総計です。


私たちもそういう意味では常に動きながら、私たちもいのちとして、日々はたらいているいのちをいただいている身として、決して胡坐をかくわけではなく、謙虚に、いただいたいのち、恵まれたいのちを、この身に今いただいていることに深く感謝し、またそのことを慶びとさせていただいて、それぞれの仕事にしっかりと、真剣に取り組ませていただこうと思ったりもいたします。


今日は皆さんと共に朝のお参りをさせていただきました。どこにいても、どこであっても、私が気づこうが、意識しようがしまいが、そこには、「すでに」というはたらきで阿弥陀仏の光が注がれていることに気づかせていただいて、そこにありがたさ、尊さを感じながら、お互いがお互いとして尊びあっていけるような社会、人間の集団、組織を造る――。

これは自然現象で生まれてくるわけではありません。そういう思いを持った人が、社会あるいは人間関係を造りだしていく、そういう役割をしっかりと果たしていければ、と思うところです。

今朝も皆さんとともにお参りをさせていただき感謝申しあげ、法話を終わらせていただきます。朝早くから、ようこそお参りをいただきました。

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