学長法話

12月の法話 2015年12月8日(火)/大宮本館


おはようございます。
12月に入りまして、今日は8日を迎えました。ご案内のように12月8日は、仏教徒にとりましては、お釈迦さまが覚りを開かれた「成道会」の日であります。このほか、お生まれになった「灌仏会」とお亡くなりになった「涅槃会」と合わせて「三仏会」と言うこともありますが、この12月8日はとりわけ大切な日であろうと思います。
禅宗関係では「臘八(ろうはち・ろうはつ/臘月八日の略)」といって、12月1日から8日にかけて、僧堂へ入った雲水が修行をする。昼夜を通して坐禅を行ないます。それを「臘八接心(せっしん)」という言い方をされています。
南伝系の仏教では「ウェーサーカ(ウェサク)祭」といって、先に申し上げたお釈迦さまの三つの出来事が同じ「5月の満月の日」にあったこととして、そういう法会が営まれるということがあります。
北伝系の仏教の流れを汲んでいる日本などでは、12月8日に成道会、2月に涅槃会、4月に灌仏会という法会を営むのが伝統的でありました。
ところが、日本の国内だけを考えても、明治以降、国際社会に広く開かれた国になりました。とりわけ戦後の高度成長期以後のここ30年、40年の間、日本の文化あるいは仏教に関する年間行事については、ずいぶんと意識が薄れてきて、12月8日が「成道会」の日であること自体が、メディア、新聞等に取りあげられることは、ほとんどありません。今日の日本の社会で営まれる、極めて商業的な文化の主流は、アメリカ文化を取り入れたものです。そうしますと、こういった日がどういう日であるのか、ということさえも、忘れ去られるような現状であると思います。
しかし私たちは、仏教というお釈迦さまが開かれた教えを、21世紀の初頭を生きる中で改めて、どういう教えであるかをよくよく学んでいかなければならないと思います。
私たちの日々の様々な出来事、人間関係、仕事等に関わって、生きることに伴う悩み、苦しみ、迷いは避けられないものとしてあります。そういった悩み、苦しみ、迷うことの現実をどのように解決していくのか、ということを思い立ってみた場合に、すでにお釈迦さまが2500年前にどういった覚りを得られて、どういう教えを開かれ、そして説かれたのか――そういうところへの直接的な学びをしなければ、この21世紀初頭の現代と対話が成立し、人々に目覚め、気づきをもたらすものとしての仏教の積極的な意味が明らかになってこない。

そのことを明らかにするのは、誰がするのかとなると、一人ひとりが仏教についての学びを深め、そして私たちの悩み、苦しみ、迷いなどを解決する悟りへの道を歩もうとしていている私たちでなけれなならないと思います。つまり、仏教系大学で学び、働く私たちが建学の精神、浄土真宗のみ教えに出遇って、仏教の積極的な意味を社会に発信していくことが使命であると考えるわけです。

通常、お釈迦さまの教えの学びは、いわゆる「生老病死(しょうろうびょうし)の四苦」ということがありますし、また「八苦」として数えられるものの中にも、先の「生老病死」の苦に加えて「求不得苦(ぐふとくく)」「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」などという「苦」というところから始まります。
そういう言葉には、それぞれの意味があり、働きがあるわけです。例えば「愛別離苦」という言葉を取ってみても、私たちの人間関係、生きとし生けるものの間に、それぞれが愛しく愛するものとの別れを余儀なくすること。「苦」とは、私というものの思い通りにならないことですから、私たちの予定すること、私の思い描くこと、そういったものがそのとおりに運んでいかないことに伴う悩み、苦悩です。これをどのように解決していくのか、乗り越えていくのか。そのことを明らかにするのが、仏教でもあります。
「怨憎会苦」にしても、人間すべてのものを、私が愛するというように、思い通りに出会っていくばかりではありませんから、あまり会いたくない人にも会わざるを得ない、そういう現実もあります。求めても得ることができない、思い通りにならない事柄もあるでしょう。
ひとえに、我〈われ〉を超えたはたらき、思議を超えたはたらき、不可思議なはたらきの中で、私たちが“いのち”を恵まれていることへの深い目覚め、気づきということが仏教の教えるところです。そのことが、仏教的思惟、仏教的な考え方を修得することが学んでいく意味です。
一方では、日本の社会にしても、西欧的な社会にしても、神仏というか、キリスト教の神にしても、いろいろな神仏を、私の向こう側に対象的に据えて、関わってくるという、あくまで対象としての神でありますが、そういうものとは全然違った思考、思惟様式が仏教的思惟なのです。
そこをはっきりと認識しておかなければ、今日の近代的な考え方の一つのパターンというものは、向こう側にある対象に対する分析的な思考、論理。あるいは対象的な思考、観察をしていくという思考のほうが、主流となっているわけです。そうすると、向こう側にあることについての認識、あるいはそれを観察して、それを言葉つまり概念化して、言語として表現する。これが科学的思考、あるいは合理的、論理的ということであろうかと思います。
けれども、対象を観察をする、あるいは認識する〈私〉とは何ぞや――その出発点をもって、つまり我を根源的に問い直して考えていくのが、仏教的な思惟というものになるわけです。
西欧的には、自我というものをそのまま肯定して、それを前提にする考え方と、私それ自体がどういう存在なのか、何なのかということを明らかにすることを通した、ものの見方、社会の見方というものとは、決定的な違い、異質性があるのだと思います。
そういった意味で、私たちも仏教的な思惟、仏教的な学びをすることを通して、西欧的な思惟、考え方との異質性、違いについての自覚的なものを教養としても、知識としても持たないと、いわゆる日本のいろいろな方々と広く交流しても、他者理解、つまり他者がどのような思惟、考え方をしているのか、考える道筋をもっているのかについての、言わばトレース――どういう思考傾向をもっているのかがわからなければ、交流することは難しいと思います。

そういった意味で、仏教的な思惟というものを徹底して〈私〉のところで考えていけば、何をすべきなのかということが、積極的に生まれてきます。言うならば「他者依存」というものを超えて、自分が何をしていくべきなのか、徹底して、真剣に、本気になって、全力を尽くして、そういうものに集中して取り組むことへの可能性というか、そこから自分自身の中に限りなく、どこかで今までなし得ないと思い込んできた自縛的な枠組みが、可能なものとして開かれてくる。自分自身を惜しんで、自分への惜しみというものがあって、〈私〉というものの殻をつい造りあげて、自分の眼の前に限界を作る、あるいは限りを囲うていくと言うか、そういう傾向というのは、私たちにもあるわけです。
しかしながら、仏教的な思惟を今、徹底して考えて、実践していくと、そのことの積み重ねが、今までとは違った、今までの自分とは違う可能性として、できることが新たに開かれてくるということがあろうかと思います。

最近、学外の会議に出たり、出張をすることが多いのですけれども、移動の時には新幹線の中などで、鞄に収めやすい新書本などを読むことが多いのです。最近は、かつて外交官としてロシアにいて、いろいろと事情があって、作家として矢継ぎ早に著書や共著を出している佐藤優氏の本を読んでいました。彼は、同志社大学神学部を卒業し、大学院修士課程を修了して外交官になった人です。あれほど執筆する時間があるのかと思うくらい、たくさんの本を出しています。佐藤氏と橋爪大三郎さんという人の共著、『あぶない一神教』という新書が小学館から出ています。二人ともクリスチャンです。
これを読むと、一神教の世界の思考形態というか、その考え方を明確に出しています。私などがもっている知識からはこれまで理解し得なかった、知らなかったところが沢山あるわけです。西欧世界がいったい何によって築きあげられてきたのか。政治にして経済にしても、どういう基礎があるのかがよく理解できます。
しかしながら、ひるがえって日本の場合はどうなのかと考えた場合に、仏教も古くから日本の社会に定着してきたものです。ところが、この21世紀の現実としては、必ずしも定着したものが伝統力として働いているわけではなくて、きわめて流動的に、拡散的になってきている。かつての定着性が希薄になっているということだろうと思います。ですから改めて私たちが、仏教であれば仏教の日本への定着、その意味、価値を再認識しながら、仏教の現代的な意義を積極的に明らかにしなければならないと思わざるをえないことがあります。

龍谷大学は、1639年に設けられた教育機関「学寮」以来、377年目を迎えている古い大学だと言っても、振り返ってみれば、わずか五十数年前に深草キャンパスを開いて、経済学部ができ、その後、経営学部、法学部等々ができて、総合大学への歩みを始めました。瀬田キャンパスは1989年開学ですから26年目ぐらいでしょうか。それ程の歴史ですから、総合大学としてはそんなに古いものではない。むしろ新しい。半世紀少しばかり過ぎた歴史です。そういう意味では、文系、人文系の学識、研究成果等々は積み重ねてきたものの、まだまだ社会科学系理工系の分野でやるべきことがたくさんあろうかと思います。
そういう意味で、私たちの大学を構成する者も、学生諸君は学生として、自分たちの学びを徹底して行なうべきです。大学の学びは、一つの言い方としては、学問という領域において、その一端を知的トレーニングするということだと思うのです。そうすると、トレーニングをするのは、やはり従来の研究成果、あるいは資料等々をきちんと集めて読み解いて、自分の主張の根拠を明らかにしたり、新たな実験などを含めて精力的な試み、挑戦を重ねていく。
一方では、サークル活動の中で、友人と出会い、運動の技術の向上等々を身につけていく。切磋琢磨し競い合いながら、自分の能力を向上していく。これもやはり集中的に、共に競いながら、そういうものをやっていかないと、自分の秘められた可能性・能力が開花していかない、ということだろうと思います。

そういう意味で、仏教も、お釈迦さまの修行の中では、真剣に、全力をあげて、本気になって道を求めていく、求道していくなかで悟りという世界を、法(ダンマ)として見出されたわけです。
私たちは、いろいろな分野でさまざまな事柄に取り組むことについては、全力で、真剣に、本気になって、そのことに集中してやっていくことの中から、新たな世界が開かれていく。成果として見出されるものが現出する、顕在化する。一人ひとりの生涯としては、首尾一貫性をもった、自分の歩む人生の道筋をしっかりと切り拓いていくような人生を歩んでいく人が育てられていくのが、私たちの大学ではないだろうか。このようなことを改めて気づかせていただくことでもあります。

ご紹介ですけれども、2007年にフリーカメラマンの丸山勇氏が出された『ブッダの旅』という岩波新書の本があります。これも鞄に入れて時々見ます。インドの写真がカラーで載っています。私たちはつい文字だけを見るのですけれども、こういう写真を見ると、インドの風景、情景が見られて、非常に親しく思ってみたり、感じ入ったりすることが多いものです。

今日、12月8日は「成道会」。お釈迦さまがお覚りを開かれた日であります。このことをぜひ皆さんの記憶に留めていただいて、「成道」という道を成就されたその覚りというものが何であるか、ということにぜひ関心を注いでいただいて、そして、そのことが〈私〉との関係においてどういう意味を持つのかということに、深く考え巡らし、思い重ねていただければと思うことでございます。

私は、朝早く7時とか7時半前に大学の研究室に立ち寄ることがあります。その時、廊下を歩きながら「羨ましいな」「いいな」とつい思うことがあります。7時半頃にはすでに研究室に「在室」ランプがついている先生がおられるのです。このランプを見ると、とても羨ましい。「いいな、早くこのような生活をしたいな」と思ったりもいたします。
大学では、学生の皆さんにとっても沢山の時間を確保できる生活ですから、それを有意義に過ごしていただいて、また教職員の皆さん方も、比較的時間がとれる環境だと思います。学術文化を創造し、発信すると共に学べる環境としてある大学で働いている環境を有意義に使っていただければと思います。
そう言いながら私は、今日はまた東京出張です。そういうことをなぜ思ったかというと、今日は、7時半前に研究室に入ると、2階にランプの灯っている研究室がありました。私はもっと研究室にいたいなと思いながら、今日は東京出張だ、と。そういうことをあれこれ重ね合わせて考えながら、いろいろと思い煩い、悩み、揺れ動くところがあったということであります。
今日も朝早くからようこそお参りいただきました。

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