学長法話

4月の法話 2016年4月27日(水)/深草顕真館


皆さん、おはようございます。
新年度を迎えた本学では4月1日に深草キャンパスで、2日には瀬田キャンパスで入学式が執り行なわれました。すでに4月末ですので新入生の皆さんはこの数週間、大学生活の一端を体験されたことと思います。
季節も大きく移り変わる時期ですので、4月の初め、入学式の頃には深草キャンパスの桜はほぼ満開でしたが、1週間ほど過ぎれば花は散ってしまって、新しい芽が吹き出るようなころでもあります。
花にはそれぞれ咲く時期があります。観察しておりますと、今年は例年より比較的早い時期に桜も咲きました。私の家の周りにも牡丹なども咲いていますが、少し早い気がします。私は奈良県宇陀市の山間部におりますので、近くの桜井市に長谷寺という真言宗豊山派の本山があり、この長谷寺は牡丹で有名です。例年、5月の連休の1週間後辺りに牡丹が咲いていますが、これも今年は比較的早いのではないかと感じます。
日本の場合は、ご承知のように、季節ごとの四季の巡りがあります。かつてのような循環型とは少しずれてはいますけれども、四季を感じながら日常の生活ができる。そして、そういう自然環境、自然の動きの中で、私たちの生活にも四季を感じられます。そういう意味で、私たちが人工的な都市社会の中だけで生活をすると、自然環境との関係、あるいは私たち人間の持っている五感、口や鼻などで感じる五感が少しずつ劣化するというか、機能を弱めていくと言われます。
そういう意味では、私たちは人工的に利便性、効率性を追求した都市社会だけで生活するのではなくて、自然環境が整っているような場所と往復したり、あるいはそういう場所に出かけて行くような生活が長年、日本で培われてきたし、それがまた、多様な文化を私たちが掘り起こしていく上においても重要であり、大切にしないといけないと思ったりもします。

同時に私たちの生きているこの時代においては、それぞれの「いのち」についても、医療がずいぶん進んでおりまして、先端的医療によって「いのち」が辛うじて保たれていくという技術や装置があります。
しかし、本質的なところを私たちは考えなければいけない。自分たちの「いのち」の源を、徹底して考えてみるということです。考える時の私たちの手がかりの一つは、分析的に考えることだと思います。ひとまずは、徹底して分析的に考えてみる。しかし、ただ知性だけで分析的に考えて、私たちの「いのち」の本質が捉えられるか、感じられるかと言うと、そうではないことに気づくはずです。
入口のところでは、分析的なことを手がかりにして深く考えていき、そして、それを一歩超えたところに「いのち」は、恵まれている、与えられている、はたらいている、思議をこえてはたらいている――その本質を感じ取ってみるというところまでいけば、その「いのち」の恵み、はたらきは、私においてもはたらいているし、生きとし生けるものすべてにわたって同じようにはたらいているものだという立場、世界に気づくことができる。そこに生きとし生けるものの根底的な尊厳を見いだしていくものだと思います。
私たちが今日お参りをさせていただいている顕真館の正面には「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。この「南無」とは「帰命」、すなわち、阿弥陀仏の、量ることのできない智慧と慈悲のはたらきの中に頷く、信順する、という意味ですけれども、それはつまり、量ることのできない智慧と慈悲が、すでに私たちにははたらいている、ということなのです。あるいは、すでに私たちを包み込んで必ず「いのち」を生かしめていきたい、あるいは浄土に行き参らせたい、という仏さまの願いのはたらきです。
そのはたらきに対して、私たちの方がむしろそれを遠ざけたり、背を向けたり、あるいは私たちのさまざまな思いを被せて、常にその光を遮ろうとしている。その遮ろうとしている私たちの思いを、阿弥陀仏の光が打ち破ってはたらいていることに気づいてみれば、一人ひとりが生かされた存在である、恵まれた存在であるというところに、自分の「いのち」を気づくことができる。
こういう文脈を頭に描いて考えてみることが、私たちがこの世に生まれ、生きていく中での大きな意味をもつのではないだろうかと思います。

お釈迦さまのお言葉は、お釈迦さまの説かれた経典にあるわけですけれども、最近のいろいろな書物には、比較的日常的な解りやすい言葉を使いながら、それを表わそうとしている書物もたくさん出版されています。皆さんもぜひ、そういった本にも出会って、自分自身というものを深く考えていただきたいと思います。
仏教、特に本学の「建学の精神」である浄土真宗の教えには、多くの人たちが理解している神仏とは、違ったところがあります。態度としても、姿勢としても、生活の仕方においても違いが出てくるところがあります。常にいわれてきたように、私たち浄土真宗の精神というものは、一般的に多くの人がつい考えがちな、祈願・祈祷的な宗教――自分たちの願い、思い、欲望、願望、目的を達成するがために神仏に祈るという態度をとらない、ということです。
それでは、祈願・祈祷をせずに、何を考えるのか。それは、自分たちに向けられ、与えられているはたらきを充分に意識して、精一杯の努力をし続けていく、それを貫いていくところからもたらされるものを考え、追求していくことであろうと思います。
お釈迦さまのお言葉を紹介したいと思います。「道」ということです。

努力すべきときに努力せず、若くして活力あるときに怠け、意思弱く、思考せず、怠惰な人は、叡知によって道を見出すことはない。

(『ダンマパダ』280偈)

これは仏道のことを言っているのですが、仏になっていく道においても絶えず努力、精進するのが尊い人であり、私たちもただ知性に溺れることなく、自己満足に陥ることなく、絶えず仏さまのはたらきに気づき、それを知っていくために精一杯努力し続けていくところに、尊い人の姿、道があると思うのです。
一方で、私たちがそれぞれの生活の中で努力しているうちに、潜在的なものが、言わば顕在化して、それまでできなかったと思いこんでいたその殻が打ち破られて、そこから抜け出して、「こういうこともできる」「自分もやれる」と体感できる。いろいろな学業においても、そう感じることがありましょうし、スポーツ関係のサークルに参加する人たちは、自分たちが少し以前の努力では為し得なかったことも、練習を積み重ね、一歩でも半歩でも無理をして努力を積み重ねていくところから、できるようになる、開けてくる、と体感できると思うのです。
それが、私たちの「道」、キャンパス内に旗に記している「You, Unlimited」です。限りのない可能性が開かれてくる。努力、精進をすることなしには、道は開かれない。そういうふうに受けとることでもあります。
しかしながら、浄土真宗、親鸞聖人のお言葉でも、私たち自身はさまざまな他者との関係においても、世の中との関係においても、すべてが諸手をあげて素晴らしいとばかりはいかないもの、“煩悩”というものを抱えております。煩悩に動かされて私でもあるので、そう簡単にはいかない。複雑なものと絡み合いながら、葛藤するものもたくさんありますから、そう単純にでき得るものではない。普通の言葉でいうと、複雑なものを持っているので、きれいに二つに分けるわけにいかない、そのようなところを持ち合っている人間同士が人間社会を構成している。
それではどうするのか――。先ほど言ったように、やはり自分の知識、そういうものだけに頼らないで、叡知、仏さまの慈悲と智慧というものを頭の中に置いて、お互いがどうしていけば穏やかに、尊重し合っていけるような人間社会が造られていくのかということに思いを振り向けて、考えていくということであろうと思います。

ご案内のように、4月8日はお釈迦さまのお誕生日です。伝統的には「灌仏会」として、古代からすでに行なわれていましたけれども、明治以降「花まつり」という、親しみやすい表現もなされてきました。誕生仏の像に甘茶をおかけしてお祝いする行事です。本学でも学友会宗教局の方々を中心にして、4月1日から8日まで、深草、瀬田キャンパスで行なわれていました。
皆さんは甘茶を味わったことがあるかどうか分かりませんが、現代のように缶ジュースなどがなかった世代の私たちは、子供の頃には甘茶のように甘みのあるものを飲めることが大いに楽しみでありました。
私たちがお釈迦さまのお誕生を祝うことは同時に、それをご縁にして、自分自身がこの世に誕生したことを問うことです。皆さん方も誕生日にお祝いをしてプレゼントをいただくこともあるかも分かりません。私たちは何のために生まれてきたのか、出世の本懐とは何かを問うことが大切です。
しかし、誕生した瞬間やその日々を思い出して、育んで下さったはたらきをもう一度、ぎりぎりのところで自分たちの頭の中で、脳細胞の記憶を深く掘り起こして想像してみる。――と言っても、それは多分3~4歳くらいまでの記憶が辛うじて出てくるのではないかと思います。私たちはそのような「記憶」だけを手がかりにしがちですけれども、記憶だけではないもの、自分たちの中に培っているものがある。
つまり、誕生してから3歳くらいの記憶が一つ、二つと湧き出てきても、その記憶に留まらないものが、私たちには刻まれている、はたらいているものがある――そのように想像してみたら、私がこの世に誕生した時に、周りの人たちがどれほど祝福し、この上ない喜びを感じて手を差し伸べて下さったか――。こうして歳を重ねていっても、みんなに祝われて生まれてきた私なのだという誕生への深い喜びを自分自身の中に思い返してみる、振り返ってみる。
そしてこの世にいかなる諸条件の困難さがあってもなお生き続ける、生き抜いていくことの原点は、そういうところにあるのではないかと気づいていく。その「道」が、私たちの大学にとっても、皆さんにとっても、重要な出会いや気づきになっていくのではないか、と思ったりもいたします。
皆さんにはそれぞれ生年月日がありますが、周りの人たちがみんな自分の誕生日を知っているわけではありません。知ってくれているのは、家族か、ごくわずかの友人でしょう。私の親は亡くなっていますが、両親の亡くなった日は憶えているにしても、誕生日を憶えている人は少なくて、年月が経つと忘れていく。
仏教的には「亡くなった日」に留まらずに、浄土真宗の教えからいくと、それは浄土に往生した、生まれさせていただいた日だと受けとることだと思います。亡くなったということだけではなくて、なかなか生まれがたい、往きがたき浄土、仏さまの世界に生まれさせていただいたのだ、という受け取りが重要なことでもあります。

日本でもほぼ定着してきましたが、5月には「母の日」、6月には「父の日」があります。アメリカでは1914年以来、5月の第2日曜日の「母の日」が国民の祝日になっているそうで、1972年には「父の日」も祝日になりました。
いろいろなアメリカ的文化が商業主義と一緒になって戦後、日本に入ってきていますが、皆さん方も5月になったら、そういうことを思う一方で、自分自身の誕生ということと、仏教ではお釈迦さまのお誕生を祝うということ、さらには私たちの大学にとって大切な5月21日の「降誕会」――親鸞聖人のお誕生日――ぜひ、そういうことを思いながら、学生生活、あるいは大学生活を送っていただければと思います。
今日は朝早くから、ようこそお参りいただきました。

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