学長法話

5月の法話 2016年5月31日(火)/瀬田樹心館


皆さん、おはようございます。
今日で5月も終わり、明日から6月に入ります。5月からここ1ヶ月の間に、瀬田学舎の草木もいよいよ濃くなって、私たちの心に落ち着きを届けてくれているような感じがします。
私は奈良の宇陀市大宇陀、その町から少し離れたところで住まいがありますので、5月初めの頃と、ほぼ1ヶ月を経た今では、周りの様子がすいぶん変わっています。近所に田んぼがあって、田植えが始まるとともに、蛙の鳴き声が夜通し聞こえていましたが、1ヶ月が経つと、その声も少しずつ収まっているような気がします。また、耳を澄ませば、鴬のさえずりにも変化があり、雉の鳴き声も聞こえてきます。
夜になれば星が輝き自然豊かな環境だとは言えますが、善し悪しという二分法の思惟にはおさまらないものがあります。今頃は何が大変なのかと言えば、4月末頃に草刈りをした土手の草が、1ヶ月経つともう膝近くまで伸びてきて、草刈りに追われます。現在は、草刈り機を使用していますが、かつては鎌での草刈りで、手間暇がかかり身体的負担の大きい歴史を歩んできました。そういうことで先日、1時間半ばかり奮闘しましたが、脳化に傾斜したあり方や鈍化した五感の働きにも気づいて、身体性を取り戻せたと思います。

私は、ときどき書店に足を運びます。最近、書店に並んでいる本の中に、アドラー心理学の本がたくさん積まれていることに気づきました。著者のアルフレッド・アドラー(1870~1937年)は、オーストリアの精神科医、心理学者で、アドラー心理学の創始者です。皆さんの多くは、心理学といえばフロイトやユングの名前を聞かれることが多いと思いますが、最近、書店に行くとアドラー心理学の本が積み重ねられています。特に売れているのは、『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健/ダイヤモンド社2013年)という本だそうです。
この本がなぜ売れているか?……その背景には、2000年以降およそ10年を経て、時代が移りゆくに従って、多くの人たちが、他の人たちに同調することによって〈自分〉というものを維持しよう、保とうとする――そういう傾向が強く出ていることがあるそうです。
そこには、評価主義の影響や、どのように見られたいという願望があろうかと思います。だからといって、自己を他者に合わせてしまうと、“嫌われることを避けたい”という傾向が強くなる。そのことによって、自分の生き方、自分らしさが失われているのではないか、と思う。そのことに悩み込んでしまう。
だからむしろ嫌われることを恐れない勇気が、いま求められているのではいないか。そのことこそが、自分の生き方を回復する道ではないか、という方向で心理学のサジェスチョン、アドバイスをしている本であります。
基本的に、社会のいろいろな事柄、自分たちの問題、悩みは、対人関係によってもたらされている。それが私たちそれぞれの悩みだということで、一人ひとりの考えの出発点は、比較相対的にマイナス面、劣等感を持っている〈私〉が、相対的にプラスとなる方向に向かって歩み出すことだ、というのです。
その本においては「自分の人生を生きよう」ということが重要なキーワードになっています。その言葉自体は、もっともなことなのですが、私たちが仏教、浄土真宗の教え、建学の精神などを学び、考えていけば、その書物では決定的に問われていない本質があるように思います。
それは何かというと、「自分の人生を生きよう」と言う場合の「自分」とは何か、ということです。そういう問いかけが深く問い明かされていない問題、課題というか、欠落があります。ヨーロッパで生まれた心理学ですから当然、自己、〈私〉、自我というものを当然のように前提にした心理学分析をしているわけです。

私たちの大学にしてもそうですが、仏教の場合はそもそも、「私」「我」と称しているものが、そもそもどういう存在なのかを問うことが必要であり、大いに問題としなければいけないと思います。
その際に何を手がかりにするのか?……こうして一緒にお参りをさせていただきながら、浄土真宗では阿弥陀仏という仏さまのはたらきに気づかせていただく、気づくことだ、と。
阿弥陀仏という仏さまのはたらきとは、そもそもどういったはたらきなのか?それについては親鸞聖人が76歳の時に詠われた和讃の中に、次のようにあります。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

(『浄土和讃』弥陀経讃、『浄土真宗聖典』註釈版、571頁)

つまり、阿弥陀仏は世の中すべての生きとし生けるものをつぶさに観られ、摂め取って捨てない、必ず浄土に往き生まれさせたい、仏にならしめたいという、そのはたらきをもって名告(なの)られるのが阿弥陀仏という仏さまなのだ、と。だから、阿弥陀仏という仏さまの名告りは、この〈私〉を必ず浄土に往き生まれさせたい、悟りの世界に往き生まれさせたいのだというはたらき、それが「阿弥陀仏」なのだという文脈なのです。
ですから、私たちは、この〈私〉がここにあることを自明の、当たり前のこと、前提にして、あるいは単純に肯定して、向こう側に対象として仏さまがおられるというような関係性、位置関係で理解しようとすると、仏教の基本的な教え、はたらきに出遇う、ということができない、二分法による思惟というものを作ってしまうことがあると思います。
ですから、私たちは、自己を問うことを機縁として、〈すでに〉阿弥陀仏のはたらきに「値遇」し、目覚め、気づかせていただく。根源的には、弥陀仏のはたらき、世界は目にも見えないけれども、それを知らしめられる方便として阿弥陀仏の姿を表わそうとして、仏さまの木像なども刻まれていく。
仏さまとして向こう側にご安置する阿弥陀仏の像は、いったい何を〈私〉に気づかせてくださる手だてとしてお立ちであるのか、という発想を持たないと、そのはたらきに気づけないということです。
遠くの向こう側に仏がいるのではなくて、浄土という仏の世界へ先に往き生まれた方はいつも、この〈私〉がいるところに還り来て、仏のはたらきをして下さる。私たちに、どういう願い、呼び声がはたらいているのかと尋ねていった時には、一人ひとりはかけがえのない、他に代わることのできない、尊いいのちに恵まれた〈私〉と称して存在であるということです。
生きとし生けるものそれぞれには、姿かたち、生き方、文化などの違いがある。しかし一人ひとりが代わることのできない、かけがえのない存在たらしめるはたらきが、すでにはたらいているということに気づく。そのことによってこそ一人ひとりの、生きとし生ける人びとの尊厳性の根拠となる。
私においても、隣にいる人においてもそうであって、総ての人がそういう存在としてお互いを尊重していく、そういう方向に向かって歩んでいくことが、私たちにとって、阿弥陀仏に育てられる人間への、〈私〉への見つめ方だと思ったりもします。
しかしながら、そのように見つめてゆくことは、同時に、私自身にもいろいろな難しい問題を抱えていることにも気づかされてことでもあります。私たちはそれぞれ〈我〉を持ち、自己コントロールできない煩悩というはたらきを抱えており、その煩悩によって揺り動かされていくような、あるいは身心が乱されるような存在でもある。あるいは気づかないで、あるいは気づいていても、避けることができずに他の命を傷つけたり、殺めたりしまっているかも知れない〈私〉である。阿弥陀仏のはたらきに出遇って、そのことに慚愧する我が身であることも明らかになっていくということであります。

ところで私たちは毎週木曜日に会議をします。その折々に、特に課外活動関係で優れた成績を収めたサークルの代表が来られて、その報告をいただく機会が多くあります。先日も女子バドミントン部、女子バレー部、吹奏楽部が関西地区の大会で優勝されたなどの報告がありました。
バレー部にしても、バドミントン部にしても、終わった試合を振り返ることがあると思いますが、試合後に試合をありのままに再現することは基本的に難しいと思います。なぜなら、映像を再現しても、その場全体をそのまま再現することは困難だからです。一応、過去の映像を見つつ、また新たな場面の新たな空気の中で、次の試合を行なうということです。過去の失敗等々、ミスがあったとしても、いつまでもそれだけに拘わると、先の新たな環境、新たな空気のもとでの試合内容が必ずしも好転するわけではないだろうと思います。
そういう意味では、それぞれの恵まれた能力、あるいは潜在的な能力、持っているものをより顕在化していく手だてを考えながら、私たちもそれぞれ仕事に励んでいくことになろうかと思ったりもします。

先にお話ししたように、書店にいろいろな本がありますけれども、特に心理学とか哲学とか、「人間」を扱う分野については、むしろ私たちがすでに学んでいる、お釈迦さまの教え、親鸞聖人の教え、思想を進んで学んでいく中にこそ、現代を生きる私たちの根本的な悩み、苦悩を超えてゆく教え、導きがある――そのことを大事にしていった方がよいと思います。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

という詠の文脈を、ぜひ皆さんとともに味わってみたいと、このように思ったことでございます。
皆さん、本日は朝早くからようこそお参りいただきました。

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